第106話 嘉兵衛は、横やりを入れられる
永禄元年(1558年)5月中旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
ようやく失恋の傷が癒えたのか、今日より藤吉郎が復帰した。
「殿にはご心配をおかけしました。これよりは、休んでいた分を取り戻すつもりで働きまする故、どうかご安心を」
まあ、ゲッソリとやつれているその顔を見て、どこをどう安心したらいいのかはわからないけど、仕事に情熱を向ける事で気が紛れるのであれば、止め立てする必要はない。
俺は職場復帰を認めて、弥八郎から仕事の引継ぎを受けるように告げた。この半月余り、戸籍づくりの仕事を任せていたのだ。
「承知しました」
ちなみに、五右衛門に任せた飛加藤捜索の話は伏せておくことにした。その話題をするためにはどうしても千代女の話もしなければならず、今の藤吉郎にとっては毒であろうと判断して。
「殿、申し上げます」
しかし、そのように藤吉郎と職場復帰の段取りについて話していたところに、小姓として仕えてくれている源太郎が伺いを立ててきた。石見守殿が弟・源左衛門に代わって頭蛇寺城を飯尾家から任されることになったため、代わりにと送られてきた石見守殿のご子息であるが……
「どうした?」
「実は、小原肥前守様がお越しになられて、殿にお話があると申されておりまして……」
それはさておき、小原殿はこの駿府の町奉行を務めているお方なので、態々こうしてお越しになられているとなれば、会わないわけにはいかない。
一体何の用事なのかと思いつつも、俺は藤吉郎に早速同席を頼んで出迎える事にした。
「松下殿。朝早くから済まぬな」
「いえ、それは構いませぬが……どうかされたのですか?」
「うむ、実はな……」
小原殿は少し言い辛そうにその続きを話されたのだが、要は戸籍づくりの仕事を今後町奉行所に引き継いで貰いたいということであった。
「そもそもの話、そのような仕事は勘定奉行の職務ではあるまい?無論、貴殿のなさろうとしている事は理解しているし、賛成もしているが……だからといって、我ら町奉行所の面目もあるわけでな……」
「ですが、この件はお屋形様より特命という形で某が承っておりますが……」
「その辺りの話も昨日、お屋形様に申し上げて撤回して頂いた。おそらく、今日にでも今川館から知らせが届くだろうが、儂とて申し訳なく思っておるゆえ、こうして直接詫びを兼ねて話に来たのだ。どうか、わかってもらいたい」
わかってもらいたいと言われても、さてどうしたものか。お屋形様の命が下り、譲るようにと言われたら逆らえないが、これまでやってきた成果が何も手元に残らないのは流石に納得がいかない。
すると、俺の苦しい胸中を察してくれたのだろう。藤吉郎が小原殿に口を挟んでくれた。申し訳ないと思われるのであれば、せめてどういう事情があってそうなったのかを包み隠さず話してもらいたいと。
「だから、我ら町奉行所の面目もあるわけでと申し上げたではないか」
「そういう表向きの事を訊いているのではありませぬよ。誰ですか?裏で糸を引いているのは。寿桂尼様ですよね?もしくは、その犬となった孕石の糞ですかな?」
「な、なにを……馬鹿な事を。そなた……無礼であろう?」
確かに今の言い方は良いとは言えない。しかし、藤吉郎は臆さずに続けた。
「……小原肥前守様。貴殿は駿府町奉行という重要なお役目をお屋形様より賜りながら、この3年間で不正蓄財500貫(6千万円)、あと無許可の売春宿の摘発を見逃す代わりに男を知らぬ幼女を4名抱かれましたね?」
「そ、それは……し、知らぬ。儂は存ぜぬ……」
「それならそれで結構でございますが、そういう態度だと今日の夕方にはこの駿府中にこの話は広まるでしょうな。そうなれば果たして、貴殿の言われる町奉行所の面目は保たれますかな?」
なるほど……前に左近がドン引きしていたけど、これが藤吉郎の脅迫術か。えげつないな……。
「小原殿、藤吉郎はこのように申しておりますが、如何なさいますか?」
「松下殿……」
「当家としてはお屋形様の命には叛けませぬゆえ、町奉行所の面目が立つように業務の引継ぎは行いますが……果たして能いますかな?」
あくまでこちらの要求を突っぱねるというのなら、夕方には大騒動が起こり、町奉行所の機能はマヒするだろう。それでも寿桂尼様のご意向を無視できないと突き進むというのなら、勝手にすればよい。
さあ……小原殿の決断は如何に?




