第104話 千代女は、身の危険を感じて逃走する
永禄元年(1558年)4月下旬 駿河国駿府 千代女
流民のなりをしているが、わたしは流民ではない。では、何かといえば……武田家に仕えるくノ一なのだ。
「あはは、心配するな、千代女!お主の身分証はほれ、この通り儂が用意したからな!!」
「は、はぁ……」
だから、現在進行形で利用しているはずの藤吉郎から、『夫・木下藤吉郎、妻・千代女』と記された今川家発行の身分証を手渡されて、「ホント、どうしたらいいのかしら」と頭を抱えた。
嫌いではないけど、流石に顔は好みではないし、そんな藤吉郎の妻とされるのは例え仕事上の話であっても、割り切れないものがあるのだ。
「ん?どうした。何かまだ不安な事でもあるのか?」
「あ……い、いえ、あまりにも急な話だったので驚いただけでして……」
「そうか。ああ、それと祝言の日取りなのだがな、おとわ様から逃げられないうちにさっさとした方が良いと言われてのう。必要な婚礼衣装は貸してくれるというし、どうだろう。明日にでも挙げぬか?」
「あ、明日!?い、いえ、流石にそれは性急すぎるというか。わたしにだって、心の準備があるわけで……」
「それもそうか。すまぬのう、それなら明後日という事でよいな?」
いやいや、なんで明日がダメだから明後日になるの!?この人、絶対ヤバい人だわ!!
第一、わたしの事を恋人とか言っているけど、3度か4度手を繋いで、町を歩いただけじゃない!どうしてそんな話になるのよ!!
「あ、あの……」
「じゃあ、そういうことでな。また明日」
「う、うん……また明日」
しかし、わたしが反論する間もなく、藤吉郎は仕事があるからと出て行ってしまった。こうなると、残された道はただ二つだ。仕事と割り切ってこのまま藤吉郎の妻となるのか、それとも任務を放棄して甲斐に逃げ帰るか……だ。
「帰ったら帰ったで、お屋形様……絶対お怒りになられるよねぇ……」
何しろ、お屋形様にとってとても大切な古今集が盗まれたのだ。相手はあの『飛加藤』なので、取り返せまでとは言われていないけど、せめて居場所を割り出すようには言われている。
それなのに、このまま甲斐に帰ったら……ダメだ。先輩の話だと、そんなヘボくノ一は、夜通しで武田家の雑兵たちから腰も痛くて立ち上がれなくなるほど、お仕置きを受ける羽目になるらしい。挙句、妊娠でもしたら、もうこの仕事は引退だ。
だけど、だからといってこのまま藤吉郎の嫁になるのはやはり嫌だ。仕事だからといってもできない事はあるのだ。
「そうよね、弄ばれても妊娠するとは限らないし、よし!逃げよう!!可及的に速やかに、猿の嫁にされる前に!!」
荷物はそれほど多くはない。それにそのほとんどが藤吉郎から贈られた物だし、未練はない。
「あ……でも、この簪は捨てがたいわ。これくらいなら持っていっても邪魔にはならないわよね?」
あと、この扇子も帯も……う〜ん、やっぱりもったいないわ!藤吉郎って、顔はあれだけど金は持っていたのよね……。
「だ、ダメよ、千代女!男はやっぱり顔よ!金じゃないわ!!」
でも、簪だけは持って行こうと思って、懐に忍ばせてから小屋の外へ出る。そして、この流民たちが集まる集落を気分転換で散策するようなふりをして……その端まで来た時、わたしは全力で駆け出した。目指すは甲斐との国境だ。
「おい、どこへ行く?」
だけど……集落を飛び出して左程立たないうちに、わたしは呼び止められた。声をかけてきた相手は、藤吉郎の配下である石川五右衛門だ。
「やはり、間者だったか。まあ、藤吉郎がおまえのような美少女を嫁にできるとは最初から思っていなかったがな」
そして、向かう場所は甲斐かと聞かれて、「そうだ」と答えて小太刀を抜いた。バしたからには、 戦って切り抜けなければならないと思って。しかし……
「くっ……!」
この五右衛門はかなりの手練れで、あっさり小太刀を飛ばされたわたしは会えなく捕らえられてしまった。
「さて、お嬢ちゃん。詳しい事情とやらを聞かせてもらおうか」
「言うと思うか?」
「素直に白状したなら、今度羊羹を食わせてやろう」
よ、羊羹!?前に藤吉郎に貰ったけど、あの甘いものをもう一度食べられるの!?
「あとな、もちろん藤吉郎からも守ってやる。おまえの体に指一本たりとも触れさせない様にしよう。それでどうだ?」
そ、それなら、悪くはないわね!このまま甲斐に帰っても下種な男どもの慰め者になる未来しかないわけだし、迷う事はないわ!
「実は……」
わたしはこうして何が目的で駿府に来たのかを五右衛門に話したのだった……。




