第101話 嘉兵衛は、平和の中で惰眠をむさぼる
永禄元年(1558年)3月中旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
先頃、京で新しい帝が御即位されたそうで、それに伴う改元が行われたらしい。新しい元号は『永禄』だ。
まあ、だからといって何か今の生活が変わるわけではない。俺は相変わらず、評定衆とは名ばかりの『うだつの上がらない勘定奉行』だし、今川家も駿河、遠江、三河の領土を増やすこともできていないし、前から主張していた三河への遷都も全く前へ進んでいない。
「うだつが上がらないって、勘定奉行も立派なお役目ではありませぬか。5千石の禄も頂いているわけですし」
「しかしだな、お鈴殿。井伊家とは違って、今の今川家の財政は盤石。お屋形様と友野殿がしっかりと制度設計して、何もしなくても帳簿はこの通り真っ黒。勘定奉行の俺ができることと言えば……」
そう……回覧されてくる決裁文書に署名することと、こうして空いた時間で愚痴を日記に書き記すことだけだ。どうしてこうなった?これでは窓際族ではないか。ああ、空しい……。
「まあ、そう言わずに元気出してくださいな。それにもうすぐなのでしょう?昨年お亡くなりになられた朝比奈様の後任人事が発表されるのは」
「だが、おそらくは難しいだろうな。何しろ、俺はどういうわけか寿桂尼様に嫌われているらしい。左京様たちが昇格する中で確かに席は空くだろうが……」
それはきっと俺ではなく、他の誰かの物になるだろう。氏真公の側室に上がった寿や三浦様、それに無人斎様からのお話を総合的に判断すれば、自ずととそのような答えとなったのだ。
「しかし、どうしてそこまで寿桂尼様に嫌われているのですか?流石に相手はおばあさんですし、今のわたしのように変な服を着させたとかでもなさそうですし……」
「変な服って……似合っているぞ、お鈴殿。だだ、まあ……その、ボタンをもう一つ外して、少し前かがみになってくれたら、俺としてはもう少し元気が出そうなのだが……」
「まあ!」
ちなみに、そう言いながら笑うお鈴殿はブラウスにスカートを着用して、まさに秘書の如き恰好をしている。暇なので、せめて重役気分を味わいたいと言ったら、快く承諾してくれたのだが……それはそれと、スカートはもう少し短い方がいいな。
「でも、そんな事をおとわ様に聞かれたら、お叱りを受けるのではありませぬか?また『浮気だ、浮気したわね!』……とか言われて泣かれて」
「わ、わかっている。もちろん、今のは冗談だ。大体そなたは弟の嫁だったわけだし、俺もその辺りの節度というのは弁えているつもりだ」
「ふ〜ん、どうだか。ああ……何だか、少し暑くなってきたわね。ボタンを二つほど外そうかしら?」
「それは是非お願いします!あと、少し前屈みになって……」
「……それのどこが節度を守っていると言えるので?」
あ……しまった。暇すぎて、本音がポロリと零れてしまった。ただ、こんな一見怪しげなやり取りをしているが、手を出してはいないのだから俺としては節度を守っていると声を大にして言いたい!
「まあ、冗談はそのくらいにして話を元に戻しますけど、それならどうして寿桂尼様にそこまで嫌われているので?」
「どうも、無人斎様とつるんでいること自体が気に食わないようだ。三河に本拠地を移す話も耳にしたようだし、それらが全て無人斎様の謀で、俺はその手先になっている……と考えているのではないかな?」
もっとも、だからと言って無人斎様との関係を切る選択肢は頭の中にはない。あの方には幕府との繋がりもあるのだ。長い目で考えたら、今は不遇であっても耐えて、風向きが変わるのを待った方が良いというのが、藤吉郎と話し合った末の結論だ。
「では、その風向きが変わるのを仙千代やあずさ様の御相手をしながら、のんびりお待ちになられてはいかがですか?おとわ様も身重なのですし……」
「そうだな……」
今はそれしかないのはわかっているが、何だかもどかしく感じながら今日も一日を過ごす。ああ、平和だな……。




