第100話 藤吉郎は、失恋の悲しみをこらえて
弘治元年(1555年)閏10月上旬 駿河国駿府 木下藤吉郎
今日は、殿とおとわ様の婚礼の日。実に目出度いが……目出たいはずなのに、何だか気を緩めると泣きそうで、何だか辛い。
「藤吉郎……辛いのなら、休んでいても良いぞ?」
「そうですよ。この弥八郎がいれば、後は何も心配はありませんから」
ただし、だからと言ってこれらの優しい言葉に甘えるわけにはいかない。儂はこの松下家の筆頭家老なのだ。その矜持にかけてこの婚礼は取り仕切ると、挫けそうになっている儂の心を奮い立たせる。そして、「心配ご無用!」と二人に告げて、職務に復帰した。
もっとも……婚礼自体は氏真公が媒酌人を務めるという事もあり、今川家の方々が取り仕切るため、儂が段取りしなければならないのは、その後の披露宴の支度だ。
「お芳さん、酒の準備はできているかと……あかね殿に」
「自分で言いなよ。情けない男よね!」
うっ!確かにそうかもしれないけれども……それができたら苦労はしない。流石の儂も、振られたばかりでそれは厳しい。
「おい、藤吉郎!」
「これは、但馬守様。今日は井伊の殿様のお供ですか?」
「そうだ。それで、そなたの顔を見たくなってな。ここに居ると聞いて会いに来た」
「嬉しいことを言ってくれて……ありがとうございます」
ただ、そう言えばと思いだした。但馬守様も「もう恋なんてしない」と共に歌われていたことを。
「まさか……裏切ってはいませんよね?」
「何のことだ?そなたとて、あかね殿と……って、おい、どうした!?」
「振られちゃいました……」
「ふ、振られた!?だって、あかね殿は方久殿がそなたと縁を結びたいからと、態々送り込んだ女ではなかったのか!どうしてそんな……」
「……左近に寝取られました。やっぱり、男は顔だと言われて……」
ああ、薄々は気づいていた。儂より少しだけ、ほんの少しだけ顔の良い左近と、あかね殿が次第に距離を縮めていい雰囲気になっていたことは。だから、遠江に使いに行かせもしたし、左近に渡すくらいならと殿の側室に推薦したりもした。
儂の本気度を左近に思い知らせるために。
しかし、何だかんだと言って、左近には金がないのだ。だから、方久の意向もあるし、最後は儂に靡くと高を括っていた。それなのに……。
「泣くなよ、藤吉郎。そうだ、今日はとことん飲もう!」
「ところで、但馬守様はお奈津殿とは……?」
「え?えぇ……とだな」
「裏切ったのですね!?某と交わした赤き誓いを破って!!」
「な、なんだ、その赤き誓いってやつは!!」
まあ、勢いで言ったけど、確かにそんな誓いはしていないな。しかし、但馬守様にも置いて行かれるのか。なんか、悲しいな……。
「ん?」
「どうかされましたか?」
「いや……何か、母屋の方が急に騒がしくなっていないか?」
「え……?」
但馬守様に促されて耳を澄ませてみると、婚礼が行われている母屋の方で何やら騒ぎが起きているのが見て取れた。だから、僕も何かと思って駆け付けるが……
「あれ?氏真公を始め……皆様は?」
時間的には婚礼の儀式は終盤に差し掛かっている頃合いだが、広間には殿とおとわ様、それに井伊家の関係者残っていなかった。おとわ様の義父である関口様の御姿も消えていたのだ。
「実はな……」
すると、殿が苦笑いを浮かべながら、事情を儂に説明してくれた。即ち、臨済寺において雪斎様が身罷られたと。
「うそでしょう……何も今日じゃなくても……」
一体、あの坊主……殿に何の恨みがあるというのか!死ぬなら、明日死ねばいいものを!!
「まあ、そう怒るな、藤吉郎。一応、氏真公の計らいで、婚礼の儀式は最後までやって頂いた。巻きではあったがな……」
「それはまた……」
ただ、殿もこれより着替えられて臨済寺に向かうとなれば、お供しないわけにはいかない。
「但馬守様、飲むのはまた別の機会に。左近……」
「はっ!」
「あかね殿と協力して、残られた方々へのもてなしを。但し、状況が状況なだけに、華美な物にはならぬようにな。それと弥八郎殿は信虎公の下へ参って、今川館の動きを探ってくれ」
「「承知!」」
雪斎様は、今川家の大黒柱だったのだ。失われたからには、色々と変化が生じるはずだ。その波に我が松下家が乗り遅れるわけにはいかない……。
(第2章 駿河・立身編 完 ⇒ 第3章 駿河・出世編へ続く)




