本当の勝者
時の流れは残酷だ。
今まで当たり前だったものが、少しずつ当たり前ではなくなってゆく。
かつては風のように動けた体が、岩を背負っているかのように重い。
観客席からの声が、時間を追うごとにうるさくなっている。ヤジなのか応援なのか、耳を澄ませている余裕はない。
ヴァリスは騎士団長だけあり、戦いの基本ができていた。必ずこちらが嫌がるように待ち、嫌がるような攻めをする。
スパルトイの剣は死神の鎌。一度でも当たれば老体なら死ぬ可能性がある。実際、もう何度もかすっていた。
しかし俺はそれから、恐らくは五分くらいは持ち堪えている。ここは経験の差で、奴の動きを読みながら騙し騙し不意打ちを繰り返していたのだ。
それも、もうそろそろ限界だろう。巨体の魔物と人間一人では、やはり無理があろうというもの。
周囲の音が気にならなくなり、いつしか無音に近づく。俺は目前にいる相手しか見えなくなっていた。
この感覚を覚えている。現役の時、心地良く感じた不思議な感覚。一定の集中を超えた先に現れる、奇妙で美しい俺だけの世界だ。
スパルトイが痺れを切らしたかのように、乱暴に剣を振り回して迫ってくる。
体はすでに限界で、大剣も壊れかけていた。ここまで粘っていたが、俺はやられるだろう。
しかし、ただでやられるものかよ。いくら歳を取ったからといえ、こちらにも誇りはある。
俺は奴めがけて、最後の突進をした。ヴァリスはこれまでのように、盾で動きを止めようとしていない。むしろ引き込み、剣をぶち当てるつもりに違いなかった。
音が消えた気がした。目前に迫る骨だけの魔物が、やけにゆっくりと覆い被さるように迫ってくる。
隙間が見える。今この瞬間だけ安全な道筋が。
俺は意を決して飛び込む。僅かに刃が頭の上を掠めた気がした。体全体を回転させて振りかぶった。
全てを乗せた一発。全体重を乗せた大剣は、確かにスパルトイの腰骨に決まっていた。
当たった瞬間の手応えは、俺に勝利を予感させた。直後に身体中を打ちながら地面を転がったが、痛みよりも興奮が勝った。
しかし、スパルトイは結局倒れなかったらしい。最終的に俺は地面に寝っ転がったまま、動けずに天を見上げるばかりだ。
ようやく、周りが歓声をあげていることに気づいた。それもあまり気にしていられない。俺はこれから骨だけの魔物に、トドメを刺されるだろう。
でも、その瞬間まで意識を保っていることはできなかった。疲労は限界に達し、意識を失ってしまった。
ただ、後から聞いたことだが、どうやらトドメは刺されることなく試練は終わっていたとか。
手心を加えられるとはな。
やはり俺も落ちたものだと、事実を聞いた後は悲しい気持ちになってしまった。
◇
「バルガスさん、そんなに飲んでいたら体壊しますよ」
「こんなものは、水と変わらんだろ」
馴染みの酒場でマスターに注意をされたが、これは酒ではない。試練に飛び入り参加してから、三日が経っていた。
俺は自分の行為を恥じると共に、一向に各所から手紙の返事がないことに苛立っていた。
そして、気がつくと癖で酒場にきてしまう。だが試練での戦い以降、不思議なことに酒を飲む気がなくなった。
素面のままで苛立っている。ただ老人が恥をかいただけで、状況は悪くなる一方であることに、むしゃくしゃしてしまったのだ。
「それにしても、やはりバルガスさんは元剣聖ですね。みんな貴方の活躍に驚いていましたよ」
「だが倒せなかった。やはり取り返しがつかないくらい、時が流れていた」
かなり善戦したほうではあっただろう。しかしあれでは、到底ゼノグローヴァ亜種には太刀打ちできまい。
しかも昨日、なんとも恐ろしい知らせが入っていた。ここよりしばらく東にある都が、あの魔物に滅ぼされてしまったというのだ。
建物がほぼ無くなるほど、圧倒的な爆発が起こっていたらしい。ゼノグローヴァ亜種が本家と同じ力を持っているなら、そういう芸当も楽にこなすはずだ。
四十年前に戦った本家ゼノグローヴァは、あらゆる魔法を効果的に使いこなしていた。
それもそのはず。奴はそもそも本来、ああいった姿ではない。人間と変わらない姿をした魔の王であった。
しかし追い詰められた奴は禁断の力を行使し、究極の竜へと変貌した。
奴とほぼ同じような姿をした魔物であるなら、街一つ消し去るなど容易い。むしろこれからだと言っていい。
なぜ、お役所連中は民の声にこれほど無頓着なのか。なぜ国王を含め城のお偉いさんは、この危機にあれほど動きが遅いのか。
貴族連中は……と思ったが、奴らはすでに安全な所に避難しているはずだ。竜が暴れ続ける限り、安全な場所など実際はないのだが。あいつらは話にならない。
とにかく、俺はどうしようもない絶望を感じずにはいられなかった。おまけに腰や膝が痛くて堪らない。
気分は最悪だった。このまま暗鬱とした気持ちが、より一層酷くなっていくばかりと思っていたのだが。
どうやら変化は、俺の預かり知らぬところで始まっていたらしい。ふと隣の席に腰を下ろしてきた男がいた。
「こんばんは。バルガスさん」
「ん……お前は」
「先日は私どもの試練にご参加いただき、ありがとうございました」
にこやかに隣にやってきたのは、先の魔物討伐の試練責任者であるヴァリスであった。
「現実を知ったよ。痛いくらいにな」
「ご謙遜を。まさかあれほどの腕前を維持していらっしゃるとは。かつての剣聖は、やはり今も健在と言えるでしょう」
「お世辞を言いに、わざわざ来たのか」
ここに来たのは偶然ではあるまい。若き騎士団長が遊びにくるような洒落た場ではない。
ヴァリスはあくまで礼儀正しく、穏やかに話を進めようとしていた。
「お世辞ではありませんよ。私が苦労して作り上げたスパルトイは、あの日敗れ去ったのです」




