聖女ソフィア
次の日、俺は暗鬱とした気持ちになっていたことを覚えている。
もうゼノグローヴァ亜種の討伐まで、僅かしか時間がない。
リーベルが早朝から家にやってきて、都で最も大きな教会に行くことを誘ってきたのだ。
「ソフィアが参加できるわけがない」
「まあ、そうだと思うがの。タニアが頼むだけでもやってみようと言って聞かんのよ。お前が気まずいのは分かるが、ここはひとつ! 頼む!」
深々と友人に頭を下げられてしまい、俺は結局断ることができなかった。
俺が行かなくてもいいのでは、と抵抗を試みるも、リーベルはタニアが聞かないからと言って跳ね除け、結局は教会の入り口まで来てしまった。
「おはよ! ここに来るのも久しぶりだね」
先に教会に着いていた女戦士は、ケロッとした顔で笑いかけてくる。お前達は気楽でいいだろうが、こっちは嫌でしょうがない。
もう三十年もソフィアに会っていない。今更おめおめと会いに来て、魔物の討伐を手伝ってほしいなどと、どうして頼めようか。
渋々教会に入っていくと、どうやらまだ彼女はいないようだった。
祭壇にいる大司祭にリーベルが事情を話すと、今度は奥にある関係者以外立ち入りできない部屋へと通された。
まるで執務室のような部屋にあるソファに、タニアはどっかりと腰を下ろす。リーベルは心持ちょこんとした感じで座り、俺は立ったままだった。
「バルガス、何してんのさ。ここ座んなよ」
「……いい」
それからどれだけの時間が流れただろう。五分か十分か。もしかしたらもっと短かったかもしれない。
俺はとうとう、この場にいることに耐えられなくなってきた。
「あ……あー、そうだ。ちょっと用事、」
何かしら理由をつけて、その場から逃げ去ろうとした時だ。
俺の行動は遅すぎた。これまで沈黙していた扉は開かれ、中から修道服を身に纏った女が入室してくる。
一目で分かった。かつての妻が目の前にいる。すぐに向こうも気づいたようで、俺たちは黙ったまま固まってしまう。
「バルガス……」
「……やあ」
俺はそれだけ返事をすると、そそくさと仲間達がいるソファに退避した。リーベルの隣(ソフィアが座るであろう位置から、最も遠い場所)に腰を下ろし、何もない壁を気にする素振りをした。
「久しぶりだねえ。元気してた?」
タニアはあっけらかんとした表情で、かつてと同じようにソフィアに声をかけている。
「お久しぶりね。いくらか衰えてしまったけれど、まだ元気よ。リーベルも来ていたのね」
「うむ! 久しぶりに会いたくなっての。ワシとはけっこう前に再会しておったけどの」
学園の校長ともなると、大聖女と会う機会も時たまにあるという。そのせいか、二人の間に流れる空気は気楽なものだった。
反対に、タニアと俺は久しぶりに再会できたわけだが。気ままな女戦士とは違い、元旦那たる俺は心中穏やかではいられなかった。
正直に言って帰りたい。しかしそんな俺の気持ちとは裏腹に、元仲間達は相談を持ちかけていく。
過去類を見ないほど強烈な魔物、ゼノグローヴァ亜種。説明役となったタニアの口から出たその名に、ソフィアは眉をひそめた。
討伐に向かう日まであと少し。どうしても聖女の力を借りたい、もう一度戦ってほしい。そう語るかつての女戦士は、凛々しい横顔をしていた。
かつての天才魔導師もまた、戦いの話になれば人が変わる。いつもの変人めいた様子は消え失せ、達人の如き空気を纏うのだ。
肉体はともかく、心は一向に衰えている様子がない。そして二人の視線を真っ直ぐに受け止めるソフィアもまた、只者ではなかった。
二人が伝えるべき情報を言い終えると、静かに聞き役に徹していた彼女が、ようやく瞼を開いた。
「あなた方の仰りたいことは分かりました。驚きはありません。あの魔物が現れた時から、こうなる予感はありました」
「あたし達を一番理解しているのはアンタさ。で、どうだい?」
リーベルが黙ったまま身を乗り出している。この歳で、よく熱意を丸出しにできるものだと感心する。
俺はこの時、どういう顔をしていただろうか。あまり覚えていないが、気まずくてたまらなかったことだけは確かだ。
「私にはできないわ。この身では、もうお役に立てるとは考えられないの。それに……もう教会が許してはくれないでしょう」
分かっていた答えではあった。ソフィアは今や大聖女という肩書きを手にしている。教会を代表する存在であり、生きながらにして伝説扱いされているのだ。
そんな教会の象徴たる存在が、もし無惨に殺されたら。関係者は必死になって止めるに違いない。
これは常識的な話だ。しかし仲間としてみれば、嫌な気持ちになったのだろう。もしかしたらソフィアなら、と期待していたはずだ。
タニアとリーベルは、先ほどとは打って変わって、寂しそうな顔になっていた。
「お気持ちに応えられなくてごめんなさい。それともう一つだけ、耳の痛い話をさせて。あなた達がゼノグローヴァと同類の魔物と戦うことは、自殺行為に等しいものよ。どうか、よくご検討なさって」
かつての仲間からすれば、殺される姿など見たくはない。その気持ちは分かる。
しかし、その助言を聞く奴はいない。ここにいるのは愚か者の集まりであり、俺もその一人。
「検討したとも。その結果、若いもんよりワシらが向かったほうがいい、という至極合理的な結論に至ったわけじゃ」
「は! なーにが合理的だよ。あたし達はバカ、でも世界を変えるバカだよ。しょーがないね。時間もないし、次に行くか」
勧誘はこれで終わりではない。リーベルがヴァリスから、そいつの居場所を聞いていた。最後の一人を探しに行くのは、けっこうな時間が掛かるはずだった。
二人は年寄りとは思えないほど、軽快にソファから立ち上がって歩き出した。
「じゃ、達者でね!」
「また会えるといいのう」
「ええ。あの、ごめんなさい。少しの間、彼とお話をさせてもらえませんか」
二人と一緒に立ち上がり、続くように去ろうとしていた俺の足が止まる。
「いや、俺も忙し——」
「いいよ! じゃあバルガス、馬車屋で待ってる」
勝手にタニアが了承した。リーベルは手を振りながら、なんとも素早い動きで部屋から出ていく。
俺はその場に立ち尽くした。一体ここで、彼女に何をいうことがあるというのか。
何の話をするつもりなのか。答えはすぐに出た。
ソフィアはタニアとリーベルの時とは違い、雑談も前置きもせずに、すぐに本題に入ってきたのだ。
「今まで何処にいたの?」
毅然とした声だ。離婚して逃げ出した元夫を、彼女は裁く権利を持っている。既に断罪されることが決まっている男は、ただ答えるしかなかった。
「……適当に、都の路地裏で暮らしただけさ。お前が行ったこともない、だがそう遠くもない馬小屋みたいな家で暮らしてる」
「そう……。では三十年もの間、どうしていたの?」
答えたくない質問だ。こんなやり取りを今更したところで、どうするというのだろう。
「何もしていない。俺はただ、余った金を酒に使って。そうやって生き永らえてきた。それだけだ」
「私は、あなたはやり直せると思っていたわ。ずっとそう信じていた。二人を誘ったのもあなたでしょう」
「違う。あいつらが俺のところに来た」
大聖女は人前では見せない、切ない顔でため息を漏らした。まだ取り繕うという気がこの身にはあったようで、自然と口から言葉が出る。そんな自分が意外だった。
「俺は一人で挑もうとした。しかしあいつらも、戦いたくて堪らなかったんだ。だって俺たちは冒険者なんだ。金が欲しい、名誉が欲しいと言いながら、どんな危ない火の中にも飛び込んでいく。イカれた連中なんだよ。本当は金より名誉より、そんな毎日を愛しているんだ。お前もよく知っているだろう」
彼女はまた、静かに瞳を閉じている。その瞼の奥に、冷ややかなナイフが隠れている気がした。
「お前と別れてから、俺は一人で生きていくと決めた。誰にも迷惑をかけちゃいない。そしてこれから、俺達らしい最後の戦いをするんだ。歳なんて関係ない」
「……あなたは、どうして」
想像もしていない声色だった。ソフィアの声が震えている。口喧嘩をするつもりで開いた口が、罪悪感に苛まれて動かない。
「どうして、いつも普通に生きていけないの。私と結婚した時、あなたは約束してくれたわ。もう剣を置いて、ただ平和に生きていくと。でも、それは守られなかった。私がどんなに手を尽くしても、あなたは普通の暮らしをすることができない。剣を置くのではなかったの? 私との約束は、そんなにも軽いものだったの?」
俺は焦っていた。どうかしていたと言ってもいい。
「俺は結局、そういう男でしかなかったんだ。お前と一緒にいる資格もなければ、意思も強くない。だが戦いだけは別だ。敵と戦っている時だけ、俺は生きている実感が湧く。お前との約束は……とにかく、馬車屋に行かねばならん」
そう言い、彼女の隣を横切ろうとした。
「ミーウは結婚したのよ」
この一言を聞いて、時が止まったようだった。ミーウは俺とソフィアの間に生まれた一人娘だ。離婚した時、あの子はまだ五歳だった。
俺の中で娘は、ずっと幼い子供のままで止まっている。でも考えてみれば、もう結婚していても当然の年齢だ。
「娘に会ってあげて」
いつの間にかソフィアの指が、俺の上着の袖に触れていた。
本音を言うならば、娘に会いたい。でも今更、どの面を下げて会いに行き、何を話せば良いのだろう。
「無事に帰ったら、会わせてくれ」
「バルガス!」
俺は強引に彼女の手を振り払い、早足で部屋から出ていった。その後もずっと、とにかく急いでいた記憶がある。
気がつけば泣いていた。ろくでなしの自分に、ただ腹が立ってばかりだ。




