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第7話セオドア・ルーズベルト

Theodore Roosevelt(1858.10.27~1919.1.6)。第26代大統領(1901年~1909年)。急激な都市化・工業化と巨大な独占企業体の出現にともなって生じた社会のひずみを是正するために、連邦政府が強力なリーダーシップを発揮する必要性を説き、社会改革に取り組んだ。アメリカを世界の強国に押し上げ、国際紛争の「警察官」としての外交を展開した。日露戦争の調停で日本でも人気が高かった。


ニューアムステルダム(ニューヨークの前身)入植以来の名門に生まれた。幼少期には喘息と視力障害に苦しんだが、男らしさを尊び、乗馬、射撃、ボクシングに打ち込んで、虚弱体質を克服した。ハーバード大学を卒業、コロンビア大学ロースクールに進学した。合衆国史に興味を抱き、「1812年戦争の海戦」(1882年)を著した。歴史への関心は終生続き、1912年にはアメリカ歴史協会の会長を務めた。


しかし学究生活には関心がなく、「高貴な者の責任」から社会改革のための政治を志し、共和党から出馬して州下院議員に当選、下層階級の救済と政治浄化に取り組んだ。1880年に結婚したが、84年に死別し、86年に再婚した。83年に、ダコタ准州の土地に五万ドルを投機、事業的には失敗したが、中西部の大牧草地帯の自然や狩猟に関する著作を数多く著し、奮闘するたくましい男のイメージを作り上げた。


合衆国官吏制度改革委員(1889年~1995年)、ニューヨーク市警察長官(1895年~1897年)、海軍次官(1897年~1898年)を歴任、キューバ問題では主戦論を展開し、スペインとの米西戦争(1898年)が勃発すると、いち早く荒馬騎兵隊と称する義勇兵部隊を率いてキューバと戦い、「テディー」は国民的英雄となった。同年ニューヨーク州知事選に当選したが、共和党の保守派からその人気と革新的な政治姿勢が敬遠されて、1900年に副大統領候補に祭り上げられた。


1901年9月14日、マッキンレー大統領の暗殺によって42歳の若さで大統領に就任、1904年に再選された。闘争的な政治姿勢で、上からの秩序ある社会改革の実現を図った。


1890年代以来アメリカでは、急激な工業化・都市化にともなう社会的・経済的ひずみや政治的腐敗を糾弾し、改革を求める社会運動が始まっていた。ルーズベルトが「マックレーカーズ」と呼んだ、アプトン・シンクレアらのジャーナリストたちは、ロックフェラーのスタンダード石油会社などの独占企業体による自由競争排除の実態や、シカゴの精肉業界の不衛生な実態を暴いていた。


ルーズベルトは、有名無実であった1890年のシャーマン反トラスト法を復活させ、地方レベルでの改革の試みを連邦レベルで実施した。1904年に持ち株会社のノーザンセキュリティース証券会社を起訴、解散に追い込み、大資本・大企業といえども公権力に従うべきだという政治理念を示し、「トラストバスター(トラスト破壊者)」の異名をとった。1906年には純正食品薬品法を最初に成立させて、連邦政府が食品の安全を監督する基本を確立した。また、しばしば労働者側に有利に労働紛争を調停し、革新主義の旗手となった。また自然保護にも力を注いだ。


対外的には、海軍を増強し、中南米では「静かに話し大きな棍棒ビッグスティックをかつぐ」外交で、西半球の「警察官」として積極的に介入し、パナマ運河建設に着手して、アメリカの権益を確実にした。極東ではロシアの南下を阻止するために日本を支持し、中国に対しては門戸開放政策を続けた。日露戦争の調停でノーベル平和賞を授与された。


1906年、サンフランシスコ大震災をきっかけに、日本人生徒を東洋人学校に隔離する学童問題が発生すると、積極的に調停に入り、カリフォルニアの排日姿勢を批判する一方で、日本政府と交渉し、1908年に日米紳士協定の合意をみた。この結果、日本側は中国人排斥法のようなアメリカ側からの移民排斥は免れたが、対米移民を自主規制することとなり、アメリカへの自由な移民の時代は終わることとなった。


ルーズベルトは後継者タフト大統領の政策に失望し、政界に復帰、第三政党の革新党を組織して、排日政治家として名高いカリフォルニア州知事ハイラム・ジョンソンと組み、「ニューナショナリズム」を唱えて大統領選に出馬した。選挙では共和党の票が割れて、民主党のウッドロウ・ウィルソンに敗れた。


ルーズベルトはその親日的と思われる言動から、日本でも人気が高く、明治末期に成功雑誌社から「奮闘的生活」(1904年)、「亜米利加魂」(1905年)、「鉄騎隊 米国義勇軍実戦記」(1907年)、山崎俊彦・松山春一郎訳「奮闘的教訓」(1911年)などの著作が翻訳出版された。


セオドア・ルーズベルト。その名は、溢れんばかりの精力的な個性、アメリカ合衆国の利益のために成し遂げた数々の偉業、そして国家が発展期を迎える中で示された 強烈な リーダーシップとともに、荒々しくも魅力的な「カウボーイ」的な男性らしさによって、広く世界に知られている。共和党のヒーローでありながら、短命に終わった進歩党の創設者でもあった彼は、大統領の座に就くまでに、市、州、そして連邦政府というパブリックな舞台で、その卓越した豪快な手腕を発揮してきた。政治家としての目覚ましい業績と並んで同等に、軍人として、著名な作家として、勇敢なハンターとして、不屈の探検家として、そして自然を深く愛する博物学者としての清冽な名声も併せ持つ、稀有な人物であった。


坂本竜馬は、天才的な政治家、セオドア・ルーズベルトと直接言葉を交わす機会はなかった。しかし、一人のアメリカ国民として、そのシンボリックな手腕を高く評価していた。特に、日露戦争の 難解な講和条約の仲介役を進んで買って出てくれたことに対しては、深い感謝の念を抱いていた。


周囲に漏らしていた言葉は、控えめながらも確信に満ちていた。「(日本側全権の)陸奥(陸奥宗光)がきっとうまくやってくれるだろう。今の日本には、これ以上戦争を継続する財政的な余力も、人的な資源も残っていない。セオドア・ルーズベルト大統領がちょうどこのタイミングで仲介者として現れてくれたことは、日本にとって文字通り、天の助けだ」と。


ちなみに、皮肉なことに、旧知の仲である陸奥宗光には、竜馬が本当はまだ生きているという事実は、まったく知らされていなかった。軽薄でおしゃべりな性格の陸奥宗光のことだ。竜馬は、個人的な友情は確かに感じていたものの、「もしこの事実を彼に報せていたならば、間違いなく、彼は 周囲の人間に口外していただろうな」と、彼の軽薄な一面をよく理解していたが故に、秘密を守り続けていたのである。


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