第39話日米関係と太平洋戦争
第13代フィルモア大統領の命令で、アメリカ東インド艦隊の提督ペリーが浦賀に現れて開国を要求したのは、1853年のことでした。翌年には日米和親条約が結ばれ、日本は開国します。その後14年間、日本は幕末の騒乱を経験しました。そして、明治維新を迎えます。
日米関係は、1904年の日露戦争までは良好でした。しかし日本がロシアを破って列強としてふるまうようになると、関係が悪化することもありました。第一次世界大戦後に日本がアメリカなど連合国の側についたため、良好な関係に戻りました。
ところが、数年後にシベリアで遭遇した日本軍を見てアメリカは不信感を抱き、日本からの移民を規制したことで対立関係になりました。
1932年、日本が満州国を建国します。1934年には、清朝最後の皇帝・溥儀を満州国皇帝として立て、傀儡政権を築きました。満州での行動を調べるため国際連盟がリットン調査団を派遣し、「一連の日本の動きは自衛的行為ではない。満州国の独立を認めない」などと裁定されました。裁定に不満を持った日本は、国際連盟を脱退します。その後は、たがいに不信感を抱きながらも決定的な対立は避けられてきました。
しかし、日本が満州・中国との連携による「東亜新秩序の建設」を打ち出すと、アメリカは東アジア方面への侵略を意図するものとみなし、通商航海条約を破棄しました。1940年、日本が中国の南京で汪兆銘を首相とする親日政府を樹立すると、アメリカはイギリスやフランスとともに、日本に抵抗する蒋介石を支援しました。
同盟国ドイツを見ながら、日本は欧米との戦争を覚悟し、東南アジアへ侵攻します。それは、不足する石油を求めての行動でした。対するアメリカは、国内にある日本資産を凍結し、石油の輸出禁止を通告しました。アメリカは東南アジアに植民地を持っていたイギリスとオランダと連携し、さらに中国にも声をかけて日本の進出に抵抗する包囲網(ABCD包囲網)をつくりました。
一方で、真珠湾攻撃の直前まで日米交渉は続いていました。しかし、11月26日のアメリカ側からの提案、いわゆる「ハル・ノート」で、中国やフランス領インドシナからの撤退が日本に突きつけられました。これを受け入れない日本が開戦を決断したのです。
真珠湾攻撃を受けて戦争に加わる4ヶ月前、ルーズベルトはイギリスのチャーチル首相と北大西洋上で会談を行ないます。当時はドイツが攻勢を強めており、不可侵条約を破棄してソ連と交戦するなど、連合国にとっては苦しい局面でした。
ふたりは、この戦争をどうとらえ、戦後はどのような世界をつくっていくかを数日間話し合いました。1941年8月14日、会談でまとまった内容が共同宣言として発表されました。これを「大西洋憲章」といいます。
アメリカ・イギリス両国は、まず領土の不拡大を宣言し、ナチスを打倒して人々を恐怖や貧しさから解放すること、奪われた主権を回復すること、戦後は武力を使わずに平和を守っていくことなどを発表しました。
この大西洋憲章の内容は、大戦後の国際連合の創立に向けての基本構想となっています。用意周到なルーズベルトは、戦争を始める前から戦後について考えていたのです。また、ルーズベルトは、核兵器の開発にもゴーサインを出し、アメリカ全土から科学者たちを集めて開発を進めさせました。
アメリカの核兵器の計画は、当初の研究本部が置かれていたニューヨークの地名にちなみ、「マンハッタン計画」と呼ばれました。数学が得意な学生などもふくむ12万人がこの計画に参加し、極秘で進められていきます。
劣勢に立たされていたイギリスとフランスは、アメリカの参戦で大いに勇気づけられました。アメリカも、日本に奪われた西太平洋の島々を奪還すべく積極的に戦います。
アメリカと日本の決戦は、1942年6月のハワイ諸島北西の小さな島の近海で行なわれた「ミッドウェー海戦」でした。この戦いは、それまでとは違って戦闘機を搭載した空母同士による航空戦となりました。3日間に渡る戦いでアメリカは大勝し、日本の主要な空母を撃沈させて決定的なダメージを与えました。以後、アメリカはサイパン島やレイテ島など、日本の拠点となる島々を攻略してくださいいきます。
一方、ヨーロッパの戦線でも連合国が優勢に立ちはじめました。1943年7月、アメリカとイギリスはイタリアに攻め込みます。その2ヶ月後にイタリアが降伏しました。さらにアメリカは、第二次世界大戦後における最大の作戦に挑みます。フランス北部を占領していたドイツ軍を叩くべく、海から上陸して攻めることを計画。上陸地点をノルマンディー海岸と定めました。
1944年6月6日、夜明けとともに浜辺に押し寄せたアメリカ軍は、激しい抵抗にあいながらもドイツ軍を破ってノルマンディーに上陸しました。この戦いで、第二次世界大戦後の趨勢は決まります。2ヶ月後、ドイツに占領されていたフランスの首都パリが解放され、連合国はいよいよドイツ本土へ向けて進攻を始めました。
連合国の勝利が決定的となっていた1945年2月、ソ連領内で連合国軍のトップらによる会談が開かれました。開かれた場所の名前から「ヤルタ会談」と呼ばれます。ルーズベルトは、チャーチル、ソ連の最高指導者スターリンと、戦後のドイツの処理や国際連合の構想などを話し合いました。そしてこの会談が、ルーズベルトの生涯最後の大仕事となります。
4月、空襲によって焼け野原となったベルリンでヒトラーが自殺して、ドイツは無条件降伏しました。最後に残った日本では、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、壮絶な戦いが繰り広げられていました。そのさなか、ルーズベルトが急死。副大統領のはりー・トルーマンが昇格します。
トルーマン大統領は、就任するなりチャーチル、スターリンとベルリン郊外、会談して、戦争終結への道筋をつけました。、そして、なおも抵抗の続ける日本に降伏を求めてポツダム宣言を発表します。ただし、トルーマン自身は「日本は降伏しない」ドイツ見ており、ついに完成した原爆投下を指示しました。
8月6日、8月9日、人類史上初めて核兵器が使用され、広島と長崎の街は失われてしまいました。そして8月14日に日本が降伏し、長い戦いが終わりました。




