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第30話アル・カポネ

Al(Alphonese)Capone(1899~1947.1.25)。20世紀初頭、禁酒法時代のアメリカン・マフィア最大のボス。シカゴを拠点に密造酒の密売で巨億の富を得、「暗黒街の帝王」と呼ばれた。脱税で逮捕、入獄。出獄後、梅毒のため48歳で死去。


アメリカン・マフィアは、19世紀後半、地中海シチリア島の乾いた大地から、大量のイタリア移民とともに新大陸の土壌に移植され、その後完全にアメリカナイズされて悪の花を咲かせた組織犯罪集団である。アル・カポネは、第一次大戦後の消費文明謳歌と退廃的風潮、とりわけ「禁酒法」施行という特異な時代の養分を受けて、移民国家アメリカ社会に開いたもっとも大輪の悪の花だった。その隠微な花は現在もアメリカ社会に強く根を張っている。が、アメリカン・マフィアの代名詞は依然アル・カポネである。


1899年、イタリアからの貧しい移民夫婦の四男として、ニューヨーク市ブルックリン区の貧民街に生まれた。少年時代から悪童だった。教師を殴って学校を中退すると、ストリートギャングになった。当時ニューヨークには、フランキー・イエールという名のボスが、闇酒場や賭博を中心に勢力を張っていた。イエールは、タフなうえに拳銃の使い方に長けていたカポネを気に入り、暗黒街での生き方をABCから教えた。この配下が二件の殺人容疑でヤバくなったとき、イエールは彼をシカゴに送り込んだ。1920年、カポネ21歳のときだった。アメリカの組織犯罪史が転機を画した時点、と歴史家は記している。


第一次世界大戦後のアメリカ経済の繁栄期、シカゴは、歓楽と犯罪の都だった。ギャング組織が勢力を競っていた。カポネは、これもニューヨーク時代の親分で、シカゴで売春組織を支配していたジョー・トゥーリオのもとへ転がり込み、一人前のギャングスターとして頭角を現した。


カポネがシカゴに移った年は、ギャングたちに"福音"がもたらされた。前年成立した禁酒法の施行である。飲酒自体は禁止せず、酒類の製造、輸入、販売のみを違法としたこのザル法は、すぐさまギャング組織にとり莫大な財源に転じた。それまで合法的な商業ルートで流れていた何億ドルという金が、地下組織の自由に手にできる金となったのだ。アメリカ流のビジネスの本流に、ギャング組織が裏から加わったのである。それは同時に、組織間の激烈な勢力争いと殺し合いの開始でもあった。


トゥーリオ・カポネ組は、ライバル組織を一つ一つつぶしていった。ジム・コロシモ(彼はトゥーリオの叔父だった)、アイルランド系のディオン・オバニヨン、そしてフランキー・イエール(彼はカポネのニューヨーク時代の"恩師"だった)らのボスが、カポネが雇った殺し屋に殺され、各組織は壊滅状態に追い込まれた。トゥーリオは引退して縄張りと利権をカポネに譲った。


カポネは今や、「暗黒街の帝王」であり、シカゴの名士だった。貧民のために無料食堂を開く慈善事業家でもあった。潤沢な黒い金は、警察、政界にもばらまかれていて、カポネにこわいものは何もなかった。家では、母テレーザ、ニューヨーク時代結婚したアイルランド系金髪美人の妻メー・カフリン、長男ソニーらにとっての良き家庭人だった。


アメリカ犯罪史に悪名をとどめる「聖バレンタインデーの大虐殺」は、こうしたカポネの絶頂期に起きた。同時にそれがカポネ凋落の端緒となった。


1929年2月14日、底冷えのする聖バレンタインデー、7人の男がシカゴ市内の倉庫で密造酒の入荷を待っていた。多くの密売業者が姿を消したあと、ライバルとして最後に残ったジョージ・"バッグ"・モランの配下だった。カポネの巧妙な誘い出しにはまったのだ。1台の警察車が止まり、4人の男が降りてきた。7人は警察お決まりの検査かと思い、おとなしく壁際に並んだ。その時4人が隠し持ったマシンガンが火を噴いた。蜂の巣のように撃ち抜かれた7人の凄惨な現場写真が全米の新聞のフロントページに載り、アメリカ国民を震え上がらせた。

腰の重かった地元警察と検察、それに連邦司法当局も、マフィア摘発に乗り出さざるを得なくなった。このあたりの事情は、米TVシリーズを映画化した「アンタッチャブル」における財務省特別捜査官エリオット・ネスの活躍で、日本でもお馴染みである。脚色が加わってるとはいえ、大衆の怒りを背にカポネ追及に必死になった米当局の焦りがうかがえる。


ついにカポネ逮捕。立件困難な殺人容疑ではなく、脱税で起訴された。1931年、カポネに懲役11年の判決が下り、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラス刑務所に収監された。囚人番号40866。同33年、禁酒法廃止。1920年代末の大恐慌を経て、アメリカはフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策の時代に入っていた。1939年10月。刑期を満了前にカポネ出所。梅毒が発病したためだ。同47年1月25日、フロリダの別荘で死去。現在のシカゴには、一面、時代のヒーローだったカポネの48年の生涯を記念する「カポネ記念館」を設立しようとの動きもある。


竜馬は1920年代のバブル経済のアメリカで、金融取り引きなどで、かなり裕福な生活をしていた。一方で、苦力仲間たちからアメリカギャングの台頭にみんな苦しめられていること、特にアル・カポネの悪名はずいぶん耳にしていた。


1929年2月14日。世界恐慌の直前に起きた「聖バレンタインデーの大虐殺」には心をいため、フランクリン・ルーズベルトと話し合い、大統領当選のあかつきには「禁酒法」を廃止することを決め、カポネの資金源を断ち、連邦捜査局(FBI)を動かしてカポネの逮捕に一役買ったのだった。アメリカの治安と最低限のモラルを守るために。


一方で、竜馬には苦力出身でギャングに転向した友達が何人かいた。彼らが懲役を食らった際には、竜馬は刑務所に何度も面会に行き、彼らの更生の手助けをしていた。お金がないときでも、刑務官にネコババされるのがわかっているときでも、1ドル2ドルを包んで刑務所に差し入れた。


苦力出身の竜馬の友達で、生きていくためにギャングの手下になった中国系のスンという若者が鉄砲玉としてカチコミに行かされ、カポネの部下に酷い殺され方をした事件があった。東洋人のギャングということでメディアもロクに取り上げない犬死にであった。そのあたりから竜馬もギャングの取り締まりに本気になり始めたのである。


1931年、カポネが逮捕され、アルカトラス刑務所に収監されたとき、竜馬はひとりでカポネの面会に行った。カポネは驚いた様子で、

「おお、メガネの東洋人じゃないか。覚えてるよ。5年くらい前にオレの部下が射殺した苦力あがりのチンピラ。あいつの葬式に来ていたよな(笑)」

「カポネ。あんたのやったことは一面的には時代の寵児だった。でも、スンを殺しさらに聖バレンタインデーの大虐殺などの凄惨な事件の数々。もう、おいもFDRフランクリン・ルーズベルトも黙ってはおれんかった」

「ルーズベルト大統領か。あんた、偉い人だったんだな、東洋人。あの苦力には申し訳ないことをしたよ」

「カポネ。死刑にはならないようにおいとFDRフランクリン・ルーズベルトが手を回しておいた。反省して生き延びるんだ。あんたが殺した人間たちの分まで」


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