第24話チャールズ・チャップリン
Sir Charles Chaplin(1889.4.16~1977.12.25)。国籍と言葉を超えたコメディアン。ロンドンの下町で、寄席芸人の両親のもとに生まれる。1914年に映画デビュー。「街の灯」「黄金狂時代」など、数々の傑作喜劇で世界的なスターとなる。
チャールズ・スペンサー・チャップリンは、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。
チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社(英語版)、ファースト・ナショナル社(英語版)と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住した。しかし1972年の第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞、アメリカでの授賞式に招かれた。
竜馬がアメリカ合衆国でハマったポップカルチャーが映画である。特にチャールズ・チャップリンはお気に入りで、映画館に通いつめた。
「黄金狂時代」、「独裁者」。映画という新しいメディアを使って新しい表現を披露するチャップリンに心の底から魅了された竜馬であった。
マルクスとともにショーペンハウアーを愛読していたチャップリンが語っていたのは、
「思想的には、わたしはバーナード・ショウよりもアナトール・フランスの弟子である。ショウは倫理的教師であるが、フランスは哲学的には善も悪も認めない。わたしもそうである。理想というものは、危険な玩具で、何物をも生み出さないし、しかもその多くがニセモノである」
それにしても彼の多くの映画はけっして「哲学的には善も悪も認めない」ものではない。彼の映画は「理想という危険な玩具」にだんだんと満ちあふれることになる。そのことは今後「モダン・タイムス」、そしてことに「独裁者」「殺人狂時代」でいやおうなしに万人の目につく。
1921年。「キッド」が公開された。放浪紳士が捨て子を育て、実の親ではないという理由で引き離されそうになるものの、最後は取り戻すという内容の映画だった。チャップリンのはじめての長編映画であり、笑いと涙をともにえがくという新しい試みの作品でした。
「キッド」の成功によりチャップリンは本格的に実存を果たし、また竜馬も「キッド」が人生ではじめて観て感動した映画であった。
1925年。「黄金狂時代」が公開される。金鉱を探しにアラスカに行った男の話を描いた。笑いと涙と感動。すっかりチャップリン映画に魅了された竜馬はこの時期何通かチャップリンに手紙を書いた。この時点ではまだ竜馬は目立つファンの1人という認識だった。
1925年。資本主義バブル真っ盛りのアメリカで、チャップリンは映画「黄金狂時代」の中で物質万能主義、資本主義を批判しようとしました。この頃からチャップリンのイデオロギー、映画に込められた哲学が鮮明になりだし、次第に「共産主義者」のレッテルを貼られる土壌ができてきます。
映画「黄金狂時代」は、
金鉱を探しにアラスカに来たチャーリーは、酒場で出会ったジョージアという踊り子に一目惚れします。苦労の末、とうとうチャーリーは金鉱を発見し、大金持ちに。そして帰りの船でジョージアと再会しますが、彼女はチャーリーが貧しくて船賃を持っていないと思い、助けてあげようとします。ジョージアの優しい気持ちに感動したチャーリーは、真実を打ち明け、彼女とキスを交わします。
という内容です。
チャップリン映画の生み出す社会風刺、ペーソス、アイロニーが「共産主義者」批判となってアメリカの右派社会に決定的な反チャップリン主義のような風潮を醸成させたのです。
1931年公開の「街の灯」は、大恐慌で苦しんでいたアメリカの人々に希望を与えました。酒に酔うとチャーリーのことを思い出し、醒めると泥棒だと思って追いかける大富豪は、冷酷な資本主義の象徴です。
「街の灯」
大恐慌の時代。放浪紳士チャーリーは、目の不自由な花売りの娘に出会い、なけなしの小銭で花を買います。ある日、命を助けた富豪から金をもらったチャーリーは、その金を手術代にするよう娘に渡し、姿を消します。
手術を受け、目が見えるようになった娘は、花屋で働き始めました。何も言わずに彼女の前に現れたチャーリー。彼女はチャーリーのみすぼらしい身なりを見て、その手に小銭を握らせようとします。その瞬間、忘れられない手の感触から、彼女は目の前のチャーリーこそが自分の恩人だと気づきます。
1936年。世界恐慌を受けてチャップリンが発表した「モダン・タイムス」は決定的でした。貧しい労働者階級の思いを代弁し、大成功をおさめました。しかし、主人公が赤い旗を手にする場面から、チャップリンは共産主義者と見なされてしまいます。
「モダン・タイムス」
ひたすらねじを締める作業を続けて神経が弱ったチャーリーは、おかしな行動をして工場をくびになってしまいました。さらに職探しの途中、トラックが落とした旗をふと手に取ったことで、デモ隊のリーダーとされ、刑務所に送られてしまいます。
やがてチャーリーは釈放されますが、空腹に耐えかねてパンを盗んだ少女と出会い、彼女のかわりに警察につかまります。それでも少女とチャーリーは、希望を失わずに生きようとするのでした。
1930年代。フランクリン・ルーズベルトとともにすでに政府の中枢にいた竜馬は必死でチャップリンをかばいます。竜馬とルーズベルトの社会主義的な政策「ニューディール政策」の成功と歩調を合わせてチャップリンも大胆な社会的メッセージを含んだ映画を作り続けました。
「Mr.Ray。何年か前に手紙をくれた方ですよね?まさか東洋人だったとは。そしてフランクリン・ルーズベルト大統領と懇意にする謎めいた人物(笑)。日系人ですか?」
「ありがとうございます。ミスターチャップリン。ここだけの話ですが、わたしのルーツは日本にあります」
「やはり、そうでしたか!わたしは大の親日家で。家の使用人も全員日系人です。日本人は優秀で勤勉で思いやりがあって。わたしは大好きなんです。Mr.Rayと出会ってもっと好きになりました!」
そして、1940年。チャップリンの史上最高傑作、「独裁者」が公開されました。第二次世界大戦を引き起こしたドイツの独裁者ヒトラーとナチスに対する風刺を込めた映画で、チャップリンが監督と主演、脚本、製作をつとめています。
「チャップリンの独裁者」
第一次世界大戦中、ひとりのユダヤ人理髪師が、戦場でシュルツという将校の命を救い、飛行機事故で記憶を失って入院します。20年後、病院から理髪師が戻ってくると、祖国はヒンケルという独裁者に支配され、ユダヤ人は迫害を受けていました。ところが、理髪師とヒンケルの外見がそっくりだったため、理髪師はヒンケルと勘違いされ、休暇中のヒンケルの代わりに、大勢の兵士たちの前で演説することになってしまいます。演壇に立った彼は、独裁反対を叫ぶのでした。
「わたしは皇帝になどなりたくない。誰かを支配したり、征服することも望んでない。独裁者は死に、自由は決して滅びない!」と。
チャップリンのもとには、「独裁者」を作ってるときから、脅迫や、暴動を予告する手紙が届くようになっていました。
竜馬とフランクリン・ルーズベルトはチャップリンをかばい切りました。
「チャップリンの独裁者」は大人気となりましたが、批評家の酷評や敵視はひどくなっていきます。アメリカは、チャップリンを共産主義者と見なし、FBI(連邦捜査局)が調査に乗り出しました。
このつらい時期に、チャップリンは有名劇作家のユージン・オニールの娘、ウーナ・オニールと出会いました。ウーナの両親の反対を振り切って、ふたりはこっそり結婚式を挙げます。チャップリン53歳、ウーナ・オニール18歳。
ウーナはチャップリン映画の理解者であり、またチャップリン自身の最大の理解者てした。
フランクリン・ルーズベルトと竜馬の死後、1947年にチャップリンは新しい映画を撮りました。職を失った平凡な銀行員が、女性たちと次々に結婚するという「殺人狂時代」です。この作品の脚本は、検閲で指摘を受けました。
「あなたの映画はアメリカ社会全体を批判している。このシーンを削除しなければ、映画は上映できません」
「国家がつねに正しいとは限らないでしょう。それを批判してはいけないのですか?」
共産主義者として糾弾され、ほかにも悩みを抱えたチャップリンは、しばらく映画を撮れなくなります。そして5年ぶりに発表したのが、恋愛映画「ライムライト」でした。
「ライムライト」は1952年の作品です。タイトルの「ライムライト」とは、舞台を照らす照明のことです。チャップリンは63歳のときこの映画を作り、作品を通じて、みずからの人生を振り返っています。
「ライムライト」
人々から忘れられた、老いた道化師カルヴェロ。彼はある日、脚の病気のために命を絶とうとしていたバレリーナのテリーを助けます。カルヴェロの献身的な介抱で、テリーの脚は健康を取り戻し、バレリーナとして成功していきます。数年後、テリーは街で芸をしているカルヴェロと偶然出会い、もう一度彼を舞台に立たせようと計画。カルヴェロとテリーは同じ劇場に立つことができましたが、華やかな照明の下でテリーが踊るのを見つめながら、カルヴェロは静かに息をひきとるのでした。
1952年、「ライムライト」を完成させたチャップリンは、家族とともにアメリカを離れます。20年ぶりにイギリスに向かう船上で受け取ったのは、アメリカから追放されたことを知らせる電報でした。フランクリン・ルーズベルトも竜馬もいないアメリカで、もはやチャップリンを守り切れる人間はいなかったのです。
「ライムライト」はアメリカでの上映が中止されますが、ほかの国々で絶賛され、これまでで最高の収益を上げました。
まもなく、チャップリンは家族とともにスイスへ移り住み、アメリカへの再入国許可を放棄します。
チャップリンは、もう孤独な放浪者ではありません。世界一の喜劇俳優であり、たくさんの子に恵まれた(ウーナとの間には、8人の子どもをもうけました)、幸せな父親でした。
1964年、チャップリンは自伝を発表します。そして1967年、生涯最後の映画「伯爵夫人」を製作しました。この映画の中で、チャップリンはセリフのない年配の給仕を演じています。
1972年。アカデミー賞の受賞式に出席するために、チャップリンは20年ぶりにアメリカを訪れました。
つらいことの多かった少年時代、放浪者のように暮らしたチャップリンは、映画を通じて人々にあたたかい希望のメッセージを伝えました。その作品は、今も人々の心に響きます。第44回アカデミー特別賞をはじめ、チャップリンは多くの賞を受賞し、1975年にはイギリスからナイトの称号が授与されました。
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」-チャールズ・チャップリン
チャールズ・チャップリンは映画によって観客を幸せにするとともに、社会的なメッセージを伝えて、人生の問題を問いかけました。チャップリンの映画への愛は、とても言葉で表現できないほど大きなものです。共産主義者であると見なされたために、アメリカを追放されるという政治的な弾圧を受けながらも、彼は映画に込める自らの主張を変えることはありませんでした。
映画製作者としても、チャップリンは多くの功績を残しています。彼はサイレント映画を発展させた先駆者であり、スラップスティック・コメディのレベルを押し上げた功労者であり、また映画におけるキャラクターの重要性を、映画関係者に知らしめた人物でもありました。
チャップリン映画に登場するキャラクターは、貧しく、虐げられた人たちばかりです。しかし、彼らはつねに希望を語ります。人々は、その希望のために、チャップリンの映画を愛するのかもしれません。
チャップリンは次のように言いました。「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」。チャップリンの映画をみれば、誰もがこの言葉にうなずくことでしょう。




