第19話ジョン・デューイ
John Dewey(1859.10.20~1952.6.1)。哲学者、教育学者、心理学者として有名。哲学では、プラグマティズムを大成し、教育学では、プラグマティズムに基づいた新しい教育哲学を確立し、世界の教育改革に寄与した。
坂本竜馬の奔放な哲学は、フランクリン・ルーズベルトをはじめ、時代を動かす人々に大きな影響を与えた。しかし、その竜馬の内に眠る無限の可能性を開花させ、その思想の羅針盤となったのは、勝海舟という先導者、そしてジョン・デューイという知の巨人だった。
天性の才覚を持ち、常人の何倍もの速さで物事を理解する竜馬にとって、師の存在は不可欠だった。彼らは、竜馬の奔放な思考を繋ぎ止め、吸収した知識を独自の視点で増幅させ、壮大な物語へと昇華させるための触媒となる。一見、本能の赴くまま、才能に身を任せて生きているように見える竜馬の行動原理の奥底には、彼らが示した教育が確かに存在し、それこそが竜馬のナラティブに深みと説得力、そして世界を変革する力を与えたのだ。
突出した才能、すなわち天才は、時に制御不能な危険な存在と見なされる。その異質な輝きを恐れ、外界から遮断し、「箱」の中に閉じ込めてしまおうとする力が働くのは、世の常かもしれない。しかし、それでは天才が本来持つ、時代を革新する力は失われてしまう。その才能を社会の内部に繋ぎ止めるためには、外界との健全な接続が不可欠なのだ。天才とは、既存の文脈をやすやすと飛び越えていく存在。予測不能で危険を孕みながらも、同時に社会に未曽有の厄災をもたらす可能性を秘めている。
凡庸な秀才と、時代を変える天才。その本質的な違いは、単なる知能の高さではない。秀才は、既存の秩序の中で効率的に能力を発揮する。良い学校に入り、試験で高得点を獲得し、社会が用意したレールの上を器用に歩む。それはそれで一つの才能であり、努力の証左として賞賛に値する。しかし、天才は全く異なる次元に存在する。坂本竜馬のように、時に常識を覆し、既存の社会システムそのものを根底から揺るがしかねない破壊的な創造性を秘めているのだ。
ジョン・デューイは、そんな坂本竜馬の内に秘められた、計り知れない天才性の本質を、その出会いの初期から鋭く見抜いていた。
しかし、デューイは、その聡明な眼差しをもって、竜馬、ひいては日本人全体を無条件に賞賛していたわけではない。むしろ、日本の急速な近代化の裏側で進行する、リベラリズムから反動的な「官僚主義」と「軍国主義」への転換を深く憂慮していた。デューイの分析によれば、日本人の精神性は移ろいやすく、「すぐに最新の知的流行に従おう」とする傾向があり、しかも「最新の思想傾向を容易に、しかし表面的に受容し、より『最新』のものが出てくると、それが以前のものと全く反対であっても、容易に乗り換えてしまう」という危うさを孕んでいた。
当時の日本の思想界の中心、東京帝国大学哲学科においては、井上哲次郎を中心に、ドイツ観念論の研究がその主流を占めていた。デューイは1915年に発表した「ドイツ哲学と政治」において、その深遠なドイツ哲学の中に潜む、過度なナショナリズムの萌芽を鋭く牽制する理論を展開していた。しかし、日本国内においては、西田幾多郎という卓越した哲学者でさえ、デューイのプラグマティズムに対して必ずしも好意的ではなかったという事実がある。
デューイは、時代の潮流を長期的スパンで見据え、看破していたのだ。哲学、思想の根底において、ドイツ、そして日本において、いずれナショナリズムと軍国主義が軍事力となって台頭し、ナチスや日本軍部の全体主義的傾向という危険な形で表面化するであろうことを。デューイの薫陶を受け、その知性に触れた竜馬もまた、次第に哲学、思想と、社会を蝕むファシズムとの危険な結びつきを警戒するようになっていった。
「デューイ先生の言うことは、まったくその通りじゃった」
北一輝、井上日召、大川周明、そして石原莞爾に至るまで。聡明なはずの学校秀才たちが、安易に軽薄な哲学をもてあそび、現実の政治を思弁で動かし、国家を軍国主義、全体主義という破滅的な方向へと傾倒させていく様を目の当たりにした時、竜馬は改めてジョン・デューイという知の巨人の偉大さ、そして机上の空論と現実の乖離、いわゆる「プラグマティズム」の重要性を骨身に染みて理解したのだ。
ドイツ観念論哲学の基礎を築いたのは、18世紀の哲学者イマヌエル・カントである。彼の哲学は、一言で言えば「大きな物語」。「普遍的人権」、「永遠平和」といった壮大な理想を掲げ、マルクスや石原莞爾に至るまで、後世の碩学たちに深遠な影響を与えた。
その深遠な思想の本質を、デューイも竜馬も当然理解していた。しかし、19世紀末から20世紀にかけて、カントの哲学が次第に現実の世界から乖離し、単なるナルシスティックな国威発揚の道具、軍国主義、ファシズムを正当化するための思弁的虚飾へと利用、変容していく様を目の当たりにした時、竜馬は思弁と現実の大幅な乖離、つまり、壮大な理想を掲げながら、実際に行っていることは全くの全体主義であるという、あまりにも皮肉な事実に回帰したのだ。
八紘一宇、五族協和。耳障りの良い言葉で飾られたそれらは、本質的には世界平和を意味するはずだった。しかし、ナチスドイツや日本の軍部が行っていることは、どう見ても世界征服、他国への侵略に他ならない。哲学などという大仰な建前を並べ立てるまでもなく、何が善であり、何が悪であるかは明白であり、最終的には必ず正義が勝利するだろうと、竜馬はつねに信じていた。究極の真理というものは、いつの時代も、驚くほどシンプルなのである。




