第16話ニューディール政策
「世界で初めてジョン・メイナード・ケインズの理論を取り入れた」と、後世の経済学者はしばしばニューディール政策を評する。しかし、それは時間軸の大きな誤謬だ。ケインズの主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』が発表されたのは1936年。一方、フランクリン・ルーズベルトによるニューディール政策が実施されたのは、それよりも3年早い1933年のことである。その政策の 原案 は、世界に先駆けて大恐慌からの脱出を果たした日本の高橋是清が陣頭指揮を執った「時局匡救事業」と、驚くほど多くの共通項を有しているのだ。
今日に至るまで、ニューディール政策はその功罪について、経済学者や歴史学者によって多角的な解釈が試みられている。しかし、その本質を捉えるためには、この激動の時代を生きた、坂本竜馬、フランクリン・ルーズベルト、ケインズ、高橋是清、そして石橋湛山といったキーパーソンたちの、国境を超えた、時代を超えた、深いつながりを無視することはできない。
ニューディール政策も、高橋是清の時局匡救事業も、そして後に体系化されるケインズ経済学も、その根底には一つの大きな潮流、壮大な物語、「グランドナラティブ」が存在する。では、この「世界平和」という名の大きな物語は、一体誰によって紡ぎ出されたのだろうか。もちろん、その答えは一人しかいない。革ジャンに革靴、ジーンズにカウボーイハットを粋に着こなし、レイバンのサングラスの奥に鋭い眼光を宿し、立派なあごひげをたくわえ、額には忘れることのない大きな傷跡が刻まれた、謎めいた日系アメリカ人「Ray Sakamoto」こと、本名、坂本竜馬。二度目の人生においても、彼はやはりとんでもないことをやらかしていたのである(笑)。
それは、ちょうど竜馬が95歳から100歳を迎える頃の出来事だった。90代という年齢にもかかわらず、竜馬の毛髪とあごひげは確かに白髪に染まっていたが、毎日のように上質な肉や濃厚な乳製品、新鮮な魚料理を頻繁に食し、その肌は驚くほどつやつやと輝き、瞳の奥には若者にも劣らない鋭い光が宿っていた。畢竟、とても50歳そこそこの美男子にしか見えなかったという。
しかし、歴史のあやというものは常に繰り返される。世界平和、大きなリベラル化の動きの後に、必ず保守的な反動が押し寄せるものなのだ。21世紀に、バラク・オバマ大統領が世界平和への希望を灯した後、ウラジーミル・プーチン大統領による世界征服の野心が始まったように、20世紀初頭においても、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策、高橋是清の時局匡救事業というリベラルな潮流の後に、イタリア・ファシスト党のムッソリーニ、ナチス・ドイツのヒトラー、そして日本においても東條英機をはじめとする急進的な軍部が反動的に台頭するのである。
フランクリン・ルーズベルトは、大統領就任前のラジオでの熱弁で、アメリカ国民にひとつ約束した。「私が大統領に就任したならば、必ずや1年以内に、あの恐るべき大恐慌前の物価水準へと経済を回復させる!」と。
そして、1933年3月4日、ルーズベルトが第32代アメリカ合衆国大統領の重大な責務を担うと、その翌日、日曜日にもかかわらず、彼は「対敵通商法」という異例の権限を発動し、国内の全ての銀行を一時的に閉鎖するという大胆な措置に出た。ラジオを通じて国民に語りかけ、1週間以内に全ての銀行の経営実態を徹底的に調査させ、国民の いのちである預金の安全を完全に保障することをおおやけに約束したのだ。この大胆な行動によって、アメリカ全土を覆っていた銀行の取り付け騒ぎは、驚異的な速さで収束へと向かった。ルーズベルトは、1933年の大統領就任直後から、過去に例を見ないほど大胆な金融緩和政策を断行したため、アメリカ経済を蝕んでいた金融危機の収縮は、劇的に停止したのである。
ルーズベルトは、国民との約束を果たすべく、次に述べる「最初の100日間」の施行後に、歴史的な「グラス・スティーガル法」を制定する(これにより、連邦預金保険公社が設立され、銀行業務と証券業務の分離が安全に確立された)。
さらに、ルーズベルトは連邦議会に懸命に働きかけ、景気回復と雇用確保のための新たな政策を矢継ぎ早に審議させ、「最初の100日間」という迅速な期間に、以下のドラスティックな法案を次々と成立させた。
* 緊急銀行救済法
* TVA(テネシー川流域開発公社)などによる、 に示されるような大規模な公共事業の実施
* CCC(市民保全部隊)による国家的スケールでの大規模雇用創出
* NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮と最低賃金の 保障
* AAA(農業調整法)による農産物の生産量調整
* ワグナー法(全国労働関係法)による労働者の権利擁護
そして1935年、ルーズベルトは「第二次ニューディール」と呼ばれる新たな段階へと政策を進化させる。それは、単なる失業者への手当給付や生活保護といった消極的な支援から、失業者の積極的な雇用へと軸足を移す転機だった。その先鞭として設立されたのがWPA(公共事業促進局)であり、この機関を通じて、数百万という失業者が公共施設の建設や国家的スケールでの公共事業に従事することになった。
対外的には、それまでの保守的な保護貿易主義から自由な貿易へとイデオロギーを転換し、大統領の強大な権限による関税率の変更や、外国との互恵的な通商協定を締結する権限が議会によって承認された。 数学的なプロジェクトとしては、公共事業促進局が実施した「対数表プロジェクト (Mathematical Tables Project)」が挙げられる。
この数学的なプロジェクトにおいて、対数表の精度を飛躍的に向上させるための斬新な試みが行われた。これは、弾道計算や複雑な近似計算の精度を飛躍的に向上させ、第二次世界大戦時におけるアメリカ軍の驚異的な着弾命中精度の向上、そして決定的なマンハッタン計画における爆縮レンズ(ZND理論)の開発に、大きなヒントを与えたと言われている。
これらの大胆な政策によって、アメリカ経済は1933年を1番底として、1934年以降、明確な回復基調を示すようになった。しかし、NIRAやAAAといった一部の政策は、最高裁判所によって「公正な競争を阻害する」として違憲判決を受け、その政治性に影を落とした。さらに、積極財政によるインフレの進展と政府債務の大幅な増大を受け、政府は財政政策・金融政策の引き締めを行った結果、1937年から1938年にかけて、失業率が一時的に再上昇するという残念な結果を招いた。その後、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦したことによる、アメリカ合衆国史上最大の増大率となるGDPの大幅な増加によって、アメリカ合衆国の経済と雇用は、ついに恐慌から完全に立ち直り、目覚ましい拡大を遂げることになる。
結局のところ、名目GDPは1929年の値を1941年に回復し、実質GDPは1929年の値を1936年に回復し、失業率は1929年の値を1943年に完全に下回る、という良好な経過を辿ったのである。
ニューディール政策以降のアメリカ合衆国では、連邦政府の歳出やGDPに対する比率が大幅に増大し、連邦政府が強大な権限を持って全米の公共事業や雇用政策をアクティブに動かすこととなり、さらに第二次世界大戦によって連邦政府の権力強化と行政的な巨大化が加速し、アメリカ合衆国の社会保障政策を国民的スケールで普及させる好循環をもたらした。
ニューディール政策の本質とは、社会民主主義政策そのものだったと言えるだろう。竜馬がアメリカに渡ってきてから50年以上もの間、つねにに考え続けてきた、経済、世界、そして、人間そのものの本質。
マルクスの『資本論』を深く読み解き、ジョン・デューイ、バートランド・ラッセル、西田幾多郎、石橋湛山ら総合知的な知識人たちと周到な議論を重ね、ジョン・ロックフェラー、アンドリュー・カーネギーといった野心的な資本家たちとともに毎日のようにウォール街に入り浸り、昼夜を問わず懸命に思索し続けてきた決定的な哲学。それが、フランクリン・ルーズベルトという強力な仲間と手を組んだことによって、最高のかたちで日の目を見ることになったのである。
しかし、経済学者ミルトン・フリードマンは冷静に指摘する。「1929年から1933年の期間と、1933年から1941年の期間は、明確に異なるものとして考察されるべきである。同様な恐慌ではなく、財政的な収縮を終焉させたのは、銀行休日、金本位制からの離脱、金・銀の購入計画といった一連の大胆な金融政策であったのはおそらく間違いない。世界的な恐慌を無事に終焉させたのは、第二次世界大戦と、それに伴う大規模な軍事支出である」と。
日本の著名な経済学者、宇沢弘文もまた、同様の見解を示す。「結局のところ、ニューディール政策がどのような経済政策的な結果・成果をもたらしたかが完全に明らかになる前に、第二次世界大戦という未曽有の大規模な大災害に突入してしまった」と説明する。さらに宇沢は、「フリードマンが中心となって、ニューディール政策のすべてを否定する保守的な経済史観が展開された。ロナルド・レーガン政権の頃には、ニューディール政策はもはや完全に否定された」と、その後の保守的な反動を指摘している。




