03 イチオシに保護されました
工房の横にあった母との家は売られて、取り壊され、何も残っていない。
私が帰る場所は、身の丈に合わない豪邸だ。
後見人になるからと、この地に引っ越してきた叔父家族が住んでいる。
かつては伯爵家が所有していた邸宅には、使用人まで雇っていた。
手入れが行き届いていない赤絨毯の廊下を歩き、叔父の執務室へ向かう。
ノックすると、椅子にふんぞりかえって座っている叔父がいた。
人相が悪く、目の下にくまができている。ここ最近、叔父は特に苛立っていた。
「なんだ?」
「叔父様、今日、ギルド長のヴァルダッサーレ様が工房に来ました。叔父様が推進された薬品によるなめし法を見て、規定違反と言われていました」
「なんだと? なぜ、そうなる!」
急に怒鳴られ、体が震えた。私は両足を踏ん張って、淡々と言う。
「ギルドが規定するなめし法に、あの薬品は使いません。使用禁止と言われて――」
いい終わる前に、叔父が大股で近づいてきた。腕が振り上げられ、手のひらが私の顔に向かう。刹那。頬に衝撃が走り、私は横に倒れた。
「なぜ、薬品を隠さなかった!」
じんじんと痛む頬のまま、私はのっそりと動く。
「ギルドの監査があったので……」
「言い訳するな!」
叔父は私の胸ぐらを掴んで、引きずるように持ち上げる。首がしまって、苦しい。
「ギルドがなんだ! 工房の所有者は私だぞ! さっさと働け!」
乱暴にほうり投げられ、体が床に滑った。
口の中がきれたらしい。血の味がする。
私はのっそりと体を起こし、叔父を睨む。
「次、ヴァルダッサーレ様に見つかったら、言い訳できません。あの薬品は使いません!」
毅然と言ってみたら、叔父が手を振り上げた。
「子どものくせに口答えをするな!」
叩かれたって、嫌なものは嫌なのだ。
こんなわからずやに母の工房を、私の宝を汚されてたまるか。
叔父の暴力に、屈したくなどなかった。
腫れた頬のまま、叔父の執務室を出ると、従妹のフランカがくすくす笑っていた。
艶のあるブロンドヘア。まっすぐ伸びた髪は腰まであり、彼女が動くたびに装飾品のように揺れる。尤も私と違うのが、胸のサイズ。
私の平たい胸とは違い、フランカは女性らしい丸みを帯びた肢体だった。
真新しいジャケットに、プリーツスカート。学園に通っている同じ年のフランカは、制服姿だ。
「やだあ、ライラったら。不細工な顔がさらに不細工じゃない」
フランカは調子に乗った叔父を真似をして、私をコケ落としたいだけ。無視するに限る。
「お父様に歯向かおうなんて、馬鹿ねえ。あ、あんたの夕食ないからね。食べたきゃ、自分で作りなさいよ」
キャハハ!と声が背中から聞こえて、かっと怒りが腹に溜まった。
食事がないなんて、いつものことだ。
母が亡くなってから、私は家族で食卓を囲ったことがない。
でも、それを悲嘆しない。フランカと一緒に食べるのは、お断りだし!
フランカの嗤い声を聞きながら、私は家を飛び出していた。
あと2年もすれば、私は成人する。
後見人がいなくても私は独り立ちできる。それまでの我慢だ。
そう思っても、腫れた頬は痛くて、涙で視界がにじんだ。
――早く、大人になりたかった。
***
「工房で寝よっかな」
広場の隅にある水飲み場で、ポケットに入っていたタオルを冷たくする。
腫れた頬をタオルで冷やしながら、とぼとぼと歩いた。
こんな顔で工房に帰ったら、パウロたちに見つかって、心配をかけるだろう。
そう思うと、工房にも戻れない。
ふと顔を上げると、空は綺麗な色になっていて、カラスが鳴きながら飛んでいる。
私も、帰りたい。早く、家に帰りたい。
「家……なくなっちゃったんだよなあ……」
12歳の私では、家を失うことを止められなかった。
母を失って、泣きじゃくる子どもでしかなかった。
失ったものは、あまりにも大きい。それに気づいても、私は沈む太陽を眺めるしかできない。
「夕焼け……綺麗だな……」
呟きながら、私はスンと鼻を鳴らした。
「……ライラさん?」
声をかけられ、ゆっくりと振り返ると、橙色をまとったルキーノ様がいた。銀色の髪がキラキラと宝石のように輝いている。
あまりにも神々しくて、涙がひっこんだ。
「今から工房に行こうと思っていたんですけど……その怪我、どうしたんですか」
顔を覗き込まれ、後ろに一歩、下がる。
「いえ、ちょっと……」
どう言い訳しよう。叔父に殴られましたとは、恥ずかしくて言えない。
ろくでもない身内がいるなんて、知られたくはない。
「……他に怪我は……」
オパールの瞳が私をじっと見ている。その状況に耐えきれず、私は笑った。
「大丈夫ですよ。ちょっと、ぶつけちゃって……」
はははと、笑ってみたもののルキーノ様は眉根をひそめていた。そんな姿も絵になる。本当に美しい顔だ。
イチオシを見ると、嫌なことはどこか遠くなっていく。綺麗なものを見ると元気がでてくるということだろう。
私はつとめて明るく声をだした。
「あ、靴はどうですか? すれたり、痛むところはないですか?」
「それは全く……気に入ったので、お代を払いにきました」
そういって、ルキーノ様は財布を取り出す。飴色になって、いい色合いになった革財布だ。大切に使い込んでいるのだろう。
「これで足りますか?」
紙幣を渡され、ぎょっとする。
「これでは、多すぎます!」
「そう……ですか? ギルドの証明書が付いていましたし、足りないぐらいでは」
「いやいやいや。私の腕では半額ですっ」
私は慌てて、紙幣を半分、押し返す。納得がいかない顔をされたが、私はこほんと咳払いをした。
「では、そのお金で、また何か作らせてください」
にっこりと笑うと、ルキーノ様は目をぱちくりとさせる。薄く開いていた唇が、穏やかな形に持ち上がり、柔らかく微笑まれた。
「……じゃあ、そうします。代わりに、食事でもいかがですか?」
「お気遣いなく! 今はこんな顔ですし!」
そういうと、ルキーノ様の顔色がすっと冷えた。
「やはり、食べれないほどの怪我なんですね。詰所に行きましょう。手当をしないと」
「えっ、わっ」
ふいに手首を握れ、体がぴょんと跳ねた。10センチメートルは飛べた。
ルキーノ様の手はすごく熱い。
「や、やややややっ だ、だだだだいじょうぶ、ですっ」
そういったものの、ルキーノ様の力は強くて、離してくれなさそうだ。
もだもだしている私に向かって、ルキーノ様が冷えた目になる。
「ライラさん。歩かないなら、おんぶしますよ?」
私を見下ろすルキーノ様は、壮絶な色気を放っていて――そして、怖かった。
「……あ、歩きます」
顔をひきつらせながら、とぼとぼと足を動かす。
ルキーノ様は嘆息して、手首から手を離した。
「行きましょう。ライラさんが心配です」
目を潤ませながら切なげに言われてしまい、私はこくんとうなずいた。