第九話 原初の憧れ
それはミルアが幼き頃の記憶。
まだ両親がミルアを村人たちからの悪意から守ることを『我慢』していた時のことだ。
ミルアは母親から絵本を読み聞かせてもらうことが大好きだった。中でも幼子でも楽しめるように簡略された『勇者の伝説』がお気に入りだった。自分と違って強烈な悪意を真っ向から打ち破る強さに憧れたからか。
女勇者セミアとその仲間たちの『伝説』に関する絵本は三桁に達するほどであり、そのどれもが史実に基づいているとなれば、その人気もさることながらどれだけの修羅場をくぐり抜けていたかがわかるというものだ。
『──剣士が魔王の軍勢を食い止め、賢者が魔王による天変地異を防ぎ、聖女と共に勇者は世界から国という国を滅ぼした凶悪な魔王と対峙したのです』
優しく語りかける母親の声。
『──漆黒で世界を覆い尽くし、破滅を招かんとする魔王の力は絶大でした。それでも聖女は魔王の漆黒の破滅を浄化し、勇者の剣はついに魔王を捉えたのです』
その時は、まだ、母親として振る舞うことを『我慢』できていた。だからこそ裏切りの破壊力も高くなったのだが。
『──魔王は倒され、世界は救われました。かくして魔の時代は終わり、勇者の手で人間の理想郷がつくられることになるのですが、それはまた別のお話』
あんなに大好きな『勇者の伝説』だったが、今のミルアにとっては吐き気さえ催す苦い思い出でしかなかった。
それはミルアが犯罪組織『悪龍の牙』の正体に気づく前、冒険者としての実力をつけることが自分を拾ってくれたあの人たちのためになるのだと本気で信じて、尽くしていた時のことだ。
その頃はまだ最上位ランクには至っていなかったが、それでも冒険者ならば誰もが知るほどに有名だった『腐乱繚乱』とミルアは出会っていた。
どす黒い紫のマントを靡かせ、腰まで伸びた錆びたような銀のボサボサ頭に鮮血のように真っ赤な彼女の瞳はまるで悪鬼のように鋭い眼光を宿していた。
今ならば、わかる。
犯罪組織『悪龍の牙』なんて比較にもならないほどに霞む。これこそが『本物』なのだと。
『にっひひ☆ これはこれは、黒い髪に黒い瞳だなんて珍しいものねえ』
『……それが? お前には関係ないよね?』
昔のミルアはまだそこまで経験を積んでおらず、だからこそ『本物』相手でも臆することなくそう吐き捨てられていた。知らず知らずのうちに危ない橋を渡っていたのだと思い出すたびに背筋が凍るものだ。もしもほんの少しの間違いがあればこの時点でミルアの命はなかっただろう。
『ワタシはお金が大好きなのよねえ。それこそお金のためなら命だって賭けられる。だからこそ冒険者なんてやっているんだけど、もちろん競合相手は少ないほうが儲けられるのよねえ』
『前後が繋がってないんだけど? 人の質問に答える気があるわけ?』
『だから迷っているんだよねえ。蹴落とすのは早いほうがいいかなって』
しばらく『腐乱繚乱』は深く、底の見えない真っ赤な瞳でミルアを見下ろしていた。やがて一つ息を吐き、踵を返して、こう言い残したのだ。
『お金にならないのにちょっかいをかけて後悔するのも馬鹿らしいし、今日のところは見逃してあげようかねえ』
それはミルアが冒険者としての経験を積み、生きる糧を得るためなら大抵のことはできるだけの覚悟と力を得た時のことだ。
ゴッ! と迫る炎の塊を埃でも払うように散らし、盗賊の顔面に拳を叩き込む。
本職の騎士団に目をつけられないよう被害を『調整』し、それでいて小さな町の自警団程度ならば軽く潰せるだけの戦力を確保している盗賊団のアジトへとミルアは乗り込んでいた。
それは恋人を凄惨に殺された者からの依頼だった。
あいつらを殺してくれるならば全財産だってくれてやると言った女の顔が今でもミルアは忘れられない。
不謹慎ながらもそこまで強く誰かのことを想えることが羨ましかった。依頼主にとって殺された恋人はそんなにも強く想えるほどに大事で、裏切られることもなかったのだから。
だからこそ、ミルアが手にできなかった何かを得られていた恋人たちを引き裂いた盗賊どもに容赦をするつもりはなかった。
ミルアの拳が唸る。もちろん華奢で幼い彼女の拳が他者から財産や命を奪うことを生業としている盗賊に通用するわけがなかったが、それはあくまで素の身体能力での話だ。
身体強化魔法。
身体という『記号』を徹底的に増幅し、もって盗賊が放つ炎や風といった魔法を殴り散らしていく。
本職の騎士団に目をつけられないよううまく立ち回るだけの狡猾さだけでなく、少数ながらも個々人が並みの冒険者を凌駕するだけの力を持つからこそこの盗賊団は好き勝手に略奪を繰り返してきた。その安全神話が、拳一つでひっくり返る。幼き少女の拳が狡猾さと獰猛さを併せ持つ悪知恵の働く獣を粉砕する。
ものの一分も必要なかった。
構成員が百は超えている盗賊団はこうして壊滅したのだ。
『これは予想外だったなあ』
そこで。
響いた声の方向に視線をやったミルアは気絶した盗賊どもの積み上がったその上に座る男を見据える。
無精髭を生やした、全体的に小汚いおっさんだった。
それでいて、その瞳はどこまでも深い闇をたたえていた。
黒を基調としたボロボロの平服の彼はくつくつと何がおかしいのか肩を揺らす。薄汚れているところ以外は何の特徴もなく、それこそ人混みに紛れれば見失うほどだ。
だけど、それでも。
その時のミルアの本能は最大限の警戒を訴えていた。いずれ最高位ランクの冒険者へと至る『腐乱繚乱』を前にしても何も感じなかったくらいにはその手の感覚は鈍いのだが、彼を前にしているだけで身体の底から冷たいものが湧き上がってきたのだ。
『だが、これこそが醍醐味だよなあ。「巫女」を使えば全ては見通せるのかもしれんが、それじゃあつまんないってもんだ。その辺の匙加減ってもんを「巫女」もちっとは学んでほしいもんだがなあ。あれは優秀だし、俺の望みを叶えようと必死なんだろうが、別に仕事ってわけじゃないんだ。少しは遊び心も大事にしないとなあ』
『あな、た……何者?』
『ただの犯罪者さ。「悪意百般」とでも言ったほうがいいか?』
『なっ!?』
それはあらゆる凶悪犯罪の裏に潜み、背中を押す存在。あるいは戦争にさえも介入して被害をどこまでも広げていくとまで言われている犯罪の増幅装置のごとき男である。
単なる盗賊団が騎士団が出張らないように狡猾に立ち回っていたのは『悪意百般』の介入があったからだろう。いいや、戦争さえも引き起こす『悪意百般』が介入していたのだ。事はそんなに小さなものでもないだろう。
見た目こそ薄汚れた、どこにでもいそうな中年男でも、その本質は国を揺るがすほどの悪意と暴虐に満ちている。
『しっかし、くっくっ。才能も何もない小さな小さなタネを国を脅かすほどの戦力を振るう犯罪集団へと花開かせる方法論を構築して、「量産」でもしてみようと思ったが、まさかこんな序盤で踏み躙られるとはなあ。まあ、暇潰しだしこんなもんか』
『ひま、つぶし……?』
『ああ。どうだった? ちっとは楽しんでもらえたかあ?』
その『暇潰し』がなければ、『悪意百般』さえ介入していなければ盗賊団はとうの昔に騎士団にでも討伐されていたはずだ。そうなっていれば、もしかしたら依頼主の女性は全財産を費やしてでも愛しい人を奪った盗賊団を殺してほしいと怨嗟に縛られることもなく、恋人と共に幸せになれていたかもしれない。
『……けるな』
力の差なんて歴然だった。
相手はあらゆる凶悪事件の黒幕にして、自身もその手で戦争と見間違うほどの殺しを撒き散らしてきた『悪意百般』だ。
勝ち目なんてあるわけがない。
そんなことミルアが一番わかっていた。
だからといって、黙って引き下がれるわけがない。
『ふざっけるなあっっっ!!!!』
ゴッドン!!!! と鈍い音が炸裂した。
決着は一瞬だった。
……地面に倒れたミルアの耳にその言葉は今でもしっかりと残っていた。
『「巫女」が言っていた例の少女は未だ花開かず、か。またいずれ、今度は世界の破滅の瀬戸際で逢おうなあ』
それは犯罪組織『悪龍の牙』が壊滅し、頼る相手を失った幼いミルアが冒険者として命を削りながら死に物狂いで日々を生きる金を稼いでいた時のことだ。
ふと、本屋に足を運んだ記憶がなぜだか脳裏に残っていた。
『……「勇者の伝説」徹底調査、ね』
その頃には母親に読み聞かせてもらった絵本の記憶は苦いものに変わっていたが、それでも手が伸びていた。
ここで目を逸らすのは逃げるようで悔しいなんて意味のない反抗心からだったか。
──女勇者セミアは多くの『伝説』を残しており、倒してきた強敵の数は底知れません。
──だけど、彼女は決して一人の力で『伝説』を残してきたわけではないのです。
──例えば亡霊の王。幽体、すなわち三次元空間より少しズレた領域より現世に干渉する存在であるがために物理攻撃だけでなく普通の魔法さえも無力化する亡霊の王と対峙した際には賢者の魂にさえも干渉する高度な術式に頼っています。
──いくつかの『伝説』において勇者は仲間たちの力に救われています。その中でも最大最強の敵として君臨した魔王戦においても勇者は決定打を与えることはできなかったとされています。
──なぜなら特殊な属性を宿す魔王の魔力は普通の魔法では対抗できないものだったとされているからです。
『……ばっかみたい』
そう吐き捨ててミルアは最後まで読むことなくその本を本棚に戻した。『勇者の伝説』の研究は盛んにおこなれており、新たな文献が発見されるだけで人々が湧き上がるほどだが、その人気にあやかって『それっぽく整えたデマ』で金儲けしようと考える輩も多い。
こうした本もそういった金儲けの一種であり、一般的な説に対して痛烈に反論することで人々の興味をひこうとしているだけなのだ。
女勇者セミアは確かに誰かに頼ることもあったかもしれない。だがそれは例外中の例外であり、もしも仲間の助けがなくとも自力でどうにでもしていただろう。
それほどに彼女は強かったとされている。
それが一般的な説であり、苦い思い出に塗り潰さようともなおミルアの中に残っている憧れでもあった。
勇者の最大最強の敵である魔王。
国という国を滅ぼしたかの邪悪な存在さえも勇者は討ち滅ぼし、世界を救い、理想郷をつくりあげた。それがミルアの信じる唯一絶対の伝説である。……つくりあげられた理想郷は長い時を経て霞んでしまったかもしれないが、長い時を経て語り継がれた『伝説』は今もミルアの胸の中に燃えている。
『私は強くなる。誰にも頼らず、勇者のようにどんな敵だって粉砕して、一人でも幸せに生きていくって決めたんだから』
それはそれとして、監禁生活6日目、ミルアはセリーナ=ティリアンヌ公爵令嬢に押し倒されていた。