第十話 触れ合うほどに近く
「………………………………、」
あれだね、人間って本気で驚いた時には声すら出ないものなんだね。いやまあ寝起きにベッドから起きようとして体勢を崩してのアレソレというだけで押し倒されているからといって特別な意図があるわけでもないし──
「ふっふ。こんなに近いとドキドキしてしまいますわね」
ちょおっ!? そういう反応はよくなくない!?
小悪魔チックに挑発的な笑みを浮かべるとか、セリーナ様が上から覆いかぶさるような体勢も相まって邪な考えが止まらなくなるんだけど!?
落ち着け、私っ。
深呼吸、深呼吸するのよ!!
「ひっひっふうーっ! がはっ!? い、息が……苦しっ」
「何をやっているのですか、ミルアさま?」
うわあん完全に呆れられちゃっているようー!
いや、これでいいのよ。醜態晒したお陰でさっきまでの変な空気はなくなったんだからさ!!
……これで嫌われちゃったりとかないよね? ねっ!?
ーーー☆ーーー
それからも今日は何かが違った。
食事中には公爵令嬢らしくもなくはしたなくも『あーん』ってセリーナ様お手製のパンを食べさせようとしてくれるし、朝風呂には当然のように一緒に入ろうとするから緊張しちゃってゴスロリチックな服を脱ぐのに手間取っている時に『お手伝い』って感じでセリーナ様の手で脱がせてもらっちゃったし、全体的にボディタッチが多いし、とにかくいつもと違ったんだけど!?
これまでだって公爵令嬢と平民の距離にしては近かったけど、比べ物にならないくらいの急接近なのよ!!
「……監禁などという絶好の機会はもう二度と訪れないかもしれないのです。これまではミルアさまを騙すことに躊躇がありましたけれど、そんなこと言っている場合ではありませんよね」
ぼそっと(流れでベッドの上に並んで座ることになった)セリーナ様が何か言っていた気もするけど、私はそれどころじゃなかった。
本当なんだってのよ!?
ただでさえセリーナ様と朝からずっと一緒ってだけでもドキドキが半端ないのに、こんなの聞いてないよう!!
私にとってセリーナ様は憧れでありながら憎悪の対象でもあって、自分でもうまく整理ができないほどに心揺れ動く特別な人なのよ。だからこそ、血の繋がりにも親切ぶったにこやかな笑みにも裏切られておきながら性懲りもなく信じたいなんて思ってしまったのよ。
だめだってわかっていて、それでも我慢できなかったから。だったらもう最後まで信じ抜くしかない。それで今回もだめだったらその時はどうしようもない人生に見切りをつけるしかない。
だから、そう、だから。
こんなの刺激が強すぎて処理できないよう!! 私をどうしたいの? 人の感情かき乱して楽しいかこんにゃろーっ!!
「ミルアさま」
「ひゃっふう!?」
「あ、驚かさせてしまいましたか」
「い、いや、大丈夫だよ、セリーナ様」
まあ驚かせた云々なら朝っぱらからずっとだけどね! もしも人間の感情を数値化できるならとっくにカンストしちゃっているっての!!
「それで、どうしたの?」
「いえ、その……せっかくですし何かしませんか?」
「何か……」
う、うおう。
別になんてことのないお誘いなのに、なんだって邪な発想ばかりしちゃうんだよう!! 脳内ピンク色かよ!!
ダメだ、空気を変えないと。
小難しいアレソレでなんとかしないと!!
「あっ。そうだ、そうだよ!!」
私はふと目についたそれを手を伸ばし、引き抜いて、セリーナ様の前に掲げた。
「魔法、教えてください!!」
本棚に詰まった魔導書。
はっはっはっ! 術式の理論やら何やら小難しい話をしていれば脳内のピンク色だって吹っ飛ばせるってものよ!!
ふっふーん! 私は伊達に平民でありながら名門魔法学園に通うことになっちゃったわけじゃないのよっ。これぞ天才の閃きってヤツよね!!
と、そう思ったんだけどなあ。
なんで! 私は後ろからセリーナ様に抱きしめられる形で魔導書を読み聞かせさせられているんだよう!?
吐息が耳にかかる度に背筋に刺激の強すぎる震えが走る。同じお風呂に入って同じように身体を洗って、ここ数日はほとんど同じ食事を口にしていたはずなのになぜだかセリーナ様からは私と同じ女とは思えないくらい甘い匂いが漂ってくる。
というか、もう、こんなの反則だよ!
背中に当たる柔らかなものの正体とか考えちゃったら脳内ピンク色が加速するに決まっているじゃあーん!!
「──術式に不備があったり制御範囲以上の魔力を注ぎ込むことで魔法が発動しないことや暴発したりすることがありますけれど、それを逆手にとって他者の術式を書き換えて無力化したり操ったりするのがこちらの改変術式ですね。実際には他者の術式を書き換えるには術式に編み込まれた様々な防衛網を突破する必要があるのでわたくしでも初歩的な魔法の改変に数ヶ月ほどかかるのですけどね。主に魔法による封を中身を破損させずに安全に取り出すためなど用途は限られます」
うん。
「──時間とは過去から未来へと流れるものであり、概念としては確かに存在します。つまり目に見えないだけで『時間という記号』を抽出することは可能であり、それを足がかりとして時間に干渉するのがこちらの時間魔法ですね。時間停止は王家秘蔵の魔法ですのでわたくしでも理論すら目にする機会はありませんけれど、掌サイズの範囲内であれば物体の時間を巻き戻すことで破損をなかったことにするくらいはこちらの術式でも可能です。流石に効果範囲は無機物であるなどと限られますけどね。ちなみに王家秘蔵の時間魔法の対象に制限はないと聞きますのでまさしく最強の魔法と呼べるでしょう」
ふむぬむ。
「──魂とは三次元空間よりズレた領域に存在する魔法の燃料である魔力の源と言われています。そして魔力とは生命力とも呼ぶべき、命に大きく関わる因子となります。また記憶や人格を司る、『人間の生きている気配のようなもの』を宿すものと考えられてます。俗に言う幽霊とは死した人間の魔力が揺蕩い、その魔力に死した人間の強烈な想いがこびりつき、人格『のようなもの』を周囲に漏らすことで死した人間のように見える魔力の塊のことを指します。つまり魔力を使えば記憶や人格はともかく、『人間の生きている気配のようなもの』を再現することはできます。となれば適当な肉の器に魔力の塊を放り込んで自在に操れば人工的な生命体『のようなもの』として人々は認識する、そういった人間の感覚に重きに置いてようやくこの術式は生命創造魔法と呼べるでしょう。世界にはこのような紛い物ではない、本物の生命創造魔法が存在するとも言われていますけれど、それはまさしく神の奇跡でしか不可能とわたくしは考えています」
なるほどね。
「ここまでで何か理解できない点はありましたか?」
はっはっはっ! 今この状況で何も理解できるわけないじゃんっ。
まだ小難しい術式の理論の話にすら突入していないとかって以前にこんな風に抱きしめられていたらドキドキしてセリーナ様が何を言っているのかほとんど耳に入らないからね!!
こうして誰かに抱きしめられることなんてもうないと思っていた。血の繋がりがある両親も親切ぶったにこやかな笑みを浮かべたあいつらも平気で抱きしめてきて、信じていいのだと思い込ませてきた。だからこそ抱擁ってヤツにはいい思い出はなかったから、断固として拒否するものだと思っていた。
それが、こんな、私ってばちょろすぎない!?
まあぐーたら働かずに一生過ごしていたいなんて望むような軟弱者が一度決めたことを貫き通す強さを持っているわけもないんだけどっ。
今が幸せならそれでいい。
刹那的な生き方しかできないから私はどこまでいっても『こんな』で、だけど、まあ、わかっていたってこんなにも強烈な誘惑には抗えるわけないよね。
「ねえセリーナ様。私のこと、最後まで裏切らないでよね」
「っ」
気が緩んでいたのか、あまりにも幸せすぎて不安になったのか、『それ』は意識せずに漏れていた。こんな泣き言、漏らすつもりはなかったのにさ。
ああ、だけど、やっぱり抱きしめられるんじゃなかった。
こうして触れ合っていなければ、セリーナ様の身体が強張るのもわからなかったかもしれないのにさ。
……こんなの、私のこと『騙している』って言っているようなものじゃん、ばか。
ーーー☆ーーー
「ここに僕の最愛が監禁されているのだね。待っていてください、今すぐに助けてあげますから!!」
ゴッッッ!!!! と。
その別荘を覆う防衛魔法へと第一王子グルス=イミテーションフロンティアの一撃が襲いかかる轟音が炸裂した。
極大の唸り、あるいは誰かの意思だけを反映させた不自然なまでの予定調和の実現のために見えざる手が世界をかき乱す。




