あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ【日本】
タイトルの和歌は、橘諸兄が晩年に宴の席で詠んだ、友人の長寿を祝う歌です。
興福寺の金堂は数年前にできたばかりで、朱色の柱や黒い甍が青空に輝いていた。
金堂からは僧侶たちの読経の声が漏れ聞こえ、金堂の前の回廊で囲まれた広場に重低音となって響いている。時折掃除道具などを抱えた僧侶が通るばかりで、あたりには静謐とした空気が漂っていた。
浅緋の闕腋袍姿で腕を組み、回廊の柱に一人寄りかかって読経の声をじっと聴いていた葛城王は、黒い甍の向こうの突き抜けるような青い空を眩しげに見上げた。
葛城王が生まれ故郷の飛鳥を離れ、平城京にやってきてから6年ほど経った。真新しい奈良の都は朱色の柱や白い壁、黒い甍が光り輝く真新しい都で、6年経った今でも眩しさに目がくらむ。いつの頃からか、この奈良の都は「青丹よし」という言葉と共に語られるようになった。朱色の柱も白い壁も黒い甍も美しい。だが一番美しいのは、澄み渡るような空の青と、遠くに連なる若々しい山の緑だと、誰もが答えるだろう。鮮やかな色が互いをより一層鮮やかに染めあげるのが、この平城京であった。
葛城王はこの時、32歳。ちょうど青年から壮年に足を踏み入れる歳であった。後に臣籍降下し橘諸兄と名乗って奈良の政治劇の重鎮となる男である。
この頃、母の再婚により藤原不比等との親族関係というたぐいまれなる立場を手に入れ、いよいよ昇りつめようと足を踏み出した頃であった。
葛城王はこの時、臨時に作られた馬寮監という役職を任じられていた。その名の通り馬の管理をする役職であったが、馬だけでなく騎兵そのものや武器の管理も任される、軍事的に重要な役職である。
血筋としてはやや嫡流から離れてはいたが、順調な出世を重ねている葛城王は、長屋王と並ぶ皇族の期待の星であった。
長屋王も葛城王も優秀だと評判であったが、性格はあまり似ていないというのがもっぱらの噂だった。秩序を重んじ厳密な判断を心がける長屋王に比べると、葛城王は周囲の人の思惑と上手に付き合いながら柔軟に判断する。意見の異なる者がいれば、宴の席でじっくりと話し合い、妥協点を探っていくのが葛城王であった。
また、長屋王は接待などをあまり好まない質であったが、葛城王は普段から様々な人と交流し、人脈を広げることに腐心している傾向にあった。
加えて、趣味も真逆であった。長屋王はどちらかというと漢詩を好んでいたが、葛城王の方は和歌の方が好きであったらしい。
ちなみに、この2人は妻を通じた義兄弟でもある。葛城王は、藤原不比等の娘である藤原多比能を正室としていた。多比能の母は幼くして亡くなったため、三千代が母代わりになって面倒を見ていたこともあり、葛城王にとっては筒井筒の幼馴染のような存在であった。一方長屋王は、藤原長娥子を妻の一人として迎えている。長娥子は実家の不比等の邸に住んでおり、長屋王が妻のもとを訪れるたびに、不比等や三千代と会話を重ねているらしい。
つまり、不比等と三千代は、この先政治がどう転がろうと、自分たちの子供が常に権力者であるよう采配しているのだ。駒にされた子どもたちは、そんな両親の権力欲を恐れながらも、上手くその道を歩んで栄達していくより他ない。
葛城王もその一人であった。
「葛城のお兄様、こんなところにおられたのですね。」
不意に声をかけられて隣を向くと、人懐っこい笑顔を浮かべた少女が立っていた。鮮やかな色を重ねた装束が、彼女がたぐまれなる身分の女性であることを物語っている。
「安宿媛か。こんなところに一人で来て、大丈夫なのか?」
葛城王は、輝くばかりの笑顔を見せる妹を見てため息をついてみせた。
葛城王の妹は、皇太子の首皇子の妃であった。本名を藤原安宿媛という。しかし、そのはつらつとした美しさと聡明さ、そして何よりもたぐまれなる血筋から、彼女は光明子という名で呼ばれるようになっている。おそらく、親族の誰かが安宿媛の評判を高めようと画策したのだろう。長屋王あたりが嫌がりそうな姑息な手である。
「東宮様にはお話してあるし、お父様もお母様も良いと言ってくださったわ。多比能お姉さまもいるし。それにこのお寺、宮殿からすぐじゃない?」
「多比能も来ているのか?」
「あらお兄様、知らなかったの?」
葛城王の妻の多比能は、両親の勧めもあって宮中に女官として仕えている。義母のから高級女官としての在り方を学び、皇太子に嫁いだ妹を支える術を身に着けていた。妻を陰謀と嫉妬が渦巻く宮中に出仕させることに全く不安がなかったわけではない。だが、己の母の橘三千代がいる限り、多比能に害が及ぶことはないだろう。また、妻が宮中で影響力を持ってくれるというのは夫としても頼もしかった。
葛城王と光明子は、母を同じくする兄妹である。父が違うため、皇族と臣下に分かれているが、母の県犬養の氏に連なる者として幼いころからよく一緒に過ごしていた。
県犬養氏の先祖は、天地開闢の時に現れた神魂命という神である。大王の直轄領である屯倉を守る品部の人々をまとめてきた氏族だが、中央の権力からは遠ざかっていた。
その県犬養氏が権勢を誇るきっかけとなったのが、県犬養三千代であった。三千代は10代の半ばで宮中に上がり、天智天皇の娘で草壁皇子の妃となった阿閉皇女に仕えた。後に阿閉皇女が元明女帝として即位したため、三千代も宮中での地位と影響力を高めていった。
その三千代は、宮中に仕えるという立場からか、皇族の美努王に嫁いだ。
美努王は敏達帝の子の難波皇子の子孫である。壬申の乱の時、父で筑紫大宰として九州をまとめていた栗隈王を、近江の大友皇子の使者の刃から守った話が有名だ。しかし、その後も美努王は要職を歴任はしていたが、国の頂に立つ人ではなかった。
そこで三千代は、新たな夫を求めた。それが藤原不比等であった。
宮中で絶大な影響力を誇る三千代と政治で圧倒的な権力を握る不比等が結びつき、この夫婦の野望は現実のものとなりつつある。不比等の息子たちは、親の七光りを存分に受けて出世を重ね、不比等の娘たちは次世代の有力者たちに嫁いでいった。この子どもたちは、いわゆる”奈良時代の主役”となっていく運命を仕組まれた子どもたちであった。
「今、多比能お姉様は、お坊様にお布施をお届けしているわ。」
「ついこの間も興福寺に贈り物をしたばかりじゃなかったか?」
「私は仏の教えを守りたいだけよ。仏の教えが広まれば、この国はもっと幸せな国になる。」
「しかし安宿媛、仏の教えはあくまで心構えに過ぎない。結局は、私たちの行動が全てを決めるのでは?」
「お兄様はいつもそう。仏の教えを学ぶ暇があれば、田んぼを耕したり種をまいたりした方が、ずっと世の中のためになるとおっしゃるのでしょう?」
光明子はそう言って微笑んだ。鮮やかな微笑は、まさに平城京に咲いた美しい花のようだった。
「無論、仏の教えは素晴らしいものだと思っている。しかし経典を覚えたら国が栄えるわけではない。その教えを自らの手で実行しなければ国は変わらないだろう?」
葛城王はそこまで言うとため息をついた。
「そこを履き違えて、仏の教えを知るだけで良いと思ってはいけない。」
「お兄様のおっしゃることも、もっともね。でも、私はまずは仏の教えを広めることが必要だと思う。お父様たちが作った律令に仏の教えが加われば……。」
光明子はそう言いながら、葛城王が寄りかかってる柱の隣の柱に寄りかかり、澄み渡るような青い空を見上げた。
「それで、葛城のお兄様。お話があるのでしょう?」
葛城王はため息の混じった笑い声をあげた。
「さすが、我が妹だな。」
「毎月、私がお寺に行く日は決まっているから。」
葛城王は、もう一度澄み渡る青い空を見上げた。「青丹よし」という言葉通り、朱色の柱や白い壁、艶やかに輝く黒い甍が、残酷なほど美しい青空を際立たせている。妹にどう話を切り出そうか口の中でいくつか言葉を選んだが、諦めて口を開くことにした。聡明な妹はもはや話の内容も分かっているだろう。だからきっと、姉であり兄の妻である多比能に席を外させたのだ。
「県犬養広刀自殿は息災か?」
「……ええ。悪阻がひどくて苦しそうだけど、少し体調が安定したそうよ。」
そう静かに答える妹の表情に、さっと影が差した。
高貴な人の習わしとして、首皇子は複数の夫人を抱えることになる。光明子は夫人の中でも筆頭の地位を占めていたが、皇子を産まなければその影響力は弱まってしまう。妹に己の政治生命を託した兄たちが権力を握るためには、何よりも光明子が宮廷を生き抜くためには、誰よりも早く男の子を生まなければならなかった。
しかし周囲の期待もむなしく、16歳の光明子に懐妊の兆しは見られなかった。
そんな中で、首皇子の夫人の一人である県犬養広刀自が懐妊したという話が、平城京を駆け巡ったのである。
広刀自は、三千代と同じ氏族の出身である。実家はそれほど権勢があったわけではないが、ちょうど良い年齢であったため夫人の1人として首皇子の後宮に入ることになった。娘の光明子の身に万が一のことがあっても、生家の県犬養氏の影響力が削がれないよう暗躍した三千代の思惑が多分に入っていたのだろう。
兄から見れば、光明子は男勝りで快活な妹であった。兄弟に混ざって邸を駆け回って育ったじゃじゃ馬である。しかし兄たちの背中を追って女ながらよく学んだ。兄たちが気づいたころには、じゃじゃ馬だった妹は、はつらつした美しさと思慮深い聡明さを併せ持つ、平城京随一の女性に育っていた。
首皇子と光明子は同い年で、皇族と臣下の身分であるにもかかわらず、幼いころから共に遊んだり勉強したりした幼馴染である。もっとも、父の不比等をはじめ、周囲の大人たちが2人を許嫁とみなしていたからでもあったのだが。
首皇子はどちからというと心優しく穏やかな性格で、幼い頃はしっかり者の光明子に手を引かれて後をついていくような子どもであった。結婚してからも、幼馴染として、頼れる姉のような存在として、首皇子は光明子を大切にしている。儀式などには共に参加するし、2人で平城京の各地に作られた寺院を訪ねることも多い。
だが首皇子は、はつらつした幼馴染にはない、どこか儚さをたたえた美しさを持つ広刀自にも惹かれていた。最初に男の子を生むのは、藤原光明子か県犬養広刀自か、と平城京の人々は噂しあっていたのである。
結果、最初に身ごもったのは県犬養広刀自であった。
光明子と広刀自は、周囲が思っているほど互いを憎んではいない。同じ県犬養氏に連なる者同士であったし、夫を支える妻として手を取り合っていきたいと互いに考えていたし、互いが自分にない魅力を持っていることも十分承知していた。
それでも、この話題が辛いものであることを、兄である葛城王は十分に想像することができた。
「悪阻が落ち着いたら、お天気のいい日を選んで、東宮様や広刀自様と一緒にお寺にお参りに行こうと話しているわ。」
「そうか。東宮様は?」
「とても喜んでいらっしゃるわ。最初の子どもですもの。」
「俺からしたら、 安宿媛も東宮様も十分子どもだがな。」
光明子は兄の言葉に笑って見せた。
「それで、お兄様は何をお考えなの?」
「……お前も知っている通り、人は父と母の両方の血を受け継ぐ。」
「つまり、父の氏族だけでなく母の氏族も重要である。そう言いたいのね?」
「そう、誰の腹から生まれたか。それは人生を左右する。時に皇位継承をも左右する。」
「そして、帝が母を通じてどの氏族の血を引いているのかが重要になる。」
淡々と言葉を返す妹の痛々しいほどの聡明さに、葛城王はいたたまれない気持ちで言葉をかけた。
「……つまり、藤原氏の命運は、お前が握っている。」
「……わかっているわ。」
遠くの空で鳥が羽ばたく音が聞こえてくる。もの悲しくなるほど澄み渡った青空の下、朱色の柱に寄りかかった16歳の妹の表情は、きれいにまとめられた豊かな黒髪に隠れて見えない。
「……すまない。」
「いいのよ、お兄様。わかっている。」
「俺は、藤原じゃない。だがお前は血を分けた妹だ。幸せに生きてほしいと思っている。」
「それで、お兄様。何を言いたいの?」
遠くから低く響く読経の声が途切れた。しゃんしゃんという金属を打ち鳴らす音がかすかに聞こえてくる。葛城王は風の音にかき消されそうな小さな声で囁いた。
「家族を守るためには、己の手を汚さなくてはいけない時もある。」
妹は黙りこくっていた。遠くからまた読経の声が響いてくる。
「不比等殿と我らの母上は、家族のためなら心を鬼にできる強い人だ。この先、世がどうなろうと子どもたちが生き残れるよう、手を打ってくださった。」
光明子は青空を見上げながら、こくりと頷いた。
「しかし、まだ十分ではない。我らの敵になりそうな人物は、早いうちに排除しなくては。」
「……志貴皇子様は野心のないお方よ。」
「私よりはずっと皇位に近い。」
葛城王はそう言って、自分をあざけるかのように笑った。
「壬申の乱の時に、天武帝と持統帝の前で盟約をかわしたのは、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河島皇子、忍壁皇子、そして志貴皇子の6人。30年前に皇位を継ぐ可能性があった実力者たちだ。」
「それは、30年前の話よ。」
「じゃあ、お前は長屋王の北宮王家をどう見る?」
光明子は再び黙り込んだ。本人がどう考えていようと、高市皇子の子である長屋王たちが首皇子に次ぐ皇位継承候補になっていることは、平城宮に生きる人々にとって周知の事実だ。
「今や、生きておられるのは志貴皇子様だけだ。当然、志貴皇子様の御子たちは皇位継承の可能性がある。特に春日王と湯原王の母君は、天武帝の血を引く託基皇女様だ。」
「確かにそうだけれど、あの人たちは本当に野心がなくて和歌のことばかり考えていらっしゃる風流なお方よ。それにお子の難波女王様と白壁王様を、使用人もいない小さな家でごく普通の人々と同じように育てられていらっしゃる。馬養のお兄様が見かねて、読み書きを教えに行った。そんな人たちが皇位を狙うなんて思えない。」
「それでも、私よりはずっと皇位に近い。」
低く響く読経の音に、風の音が加わる。それらを包み込む青い空はどこまでも澄み渡っていた。
「不比等殿がここまで権勢を極められ、我ら兄妹がその恩恵にあずかっているのは、不比等殿が将来の帝である東宮様の祖父だからだ。だが、我ら兄妹はまだ帝に血を分けていない。俺たちの立場は、脆いんだ。」
「……私は、何も聞いていないわよ。お寺で偶然会ったお兄様と他愛ない話をしただけ。」
光明子が、ぞっとするほど冷たい声で言い放った。聡明すぎるがゆえに、両親の作り出した闇にも気づいてしまう妹の暗い顔を、葛城王は胸に刻み付けた。
「わかったよ。俺も何も話さなかった。」
その時、中門を鮮やかな服の女性が通り抜けてこちらに歩いてきた。
「あっ、多比能お姉さま!」
光明子が、いつものような朗らかな声をあげた。多比能も片手を優雅に振って妹に応える。
奈良の都を飾る言葉は「青丹よし」だ。その言葉通り、朱色の柱や白い壁、黒い甍が、澄み渡る青い空の下で輝いている。その青空の下の、夫と同じ浅緋の衣の妻は、平城京の誰よりも美しく輝いて見えた。
「多比能を守るためなら、俺は何でもするよ。」
ため息のように絞り出た異父兄の覚悟を、光明子は密かに自分の胸に刻み付けた。
光明皇后が亡き夫の遺志と娘を守るために、異父兄の葛城王と異母姉の多比能の間に生まれた橘奈良麻呂を獄死させる、41年前であった。
太陽が傾き始めた頃、下道真備は、県犬養石次の館に戻った。遣唐留学生に選ばれた喜びに加えて進士試に甲第で合格した喜び、それから共に机を並べる学友と出会った喜びに浮かれて、頭がぼんやりとしていた。
屋敷の門のあたりには県犬養の氏族に仕える家人たちが2人いて、1人はごしごしと壺をこすり、もう1人は汲んできた水を壺にそそいでいる。台所の方からはもくもくと煙がたなびいていて、米を炊くあの甘美な匂いがあたりを包んでいる。
「ああ、真備殿。おかえりなさいませ。今晩はご主人様の姉君の三千代様のお子様の葛城王様と佐為王様がいらっしゃっていまして、旦那様がささやかな宴でもしようとおっしゃっております。真備殿をはじめ、学生の皆様もぜひご参加ください。」
家人の壺をこすっていた家人が、大きな声で真備に話しかけてきた。真備はゆっくりと頷く。
「準備ができたらお呼びしますね!」
「ありがとうございます。石次殿にもよろしくお伝えください。」
宴はあまり豪華なものではなかったが、葛城王と佐為王は出された料理を褒め、叔父の石次も上機嫌だ。
佐為王も兄に負けず劣らず優秀な人物だ。つい数年前にようやく官位を得たほどの若さであったが、非常に優秀なので早くも皇太子の首皇子の教育係にどうかという噂が流れている。兄とはやや歳が離れているが、仲は良い。弟はずっとそばにいて勉強を教えてくれた兄のことを好いていたし、兄も何かと自分の真似をして付きまとう弟に愛しさを覚えていた。今でも、読んだ書物や仕事中に考えたことなどをとりとめもなく議論し合うのがこの兄弟の安らぎの時間であった。
石次の意向で家人たちにも酒や御馳走の余りが配られたため、台所の方からは家人たちの歌声が響いてくる。学生として部屋を間借りしている下道真備も宴席の末席を賜り、「若者はどんどん食べろ」と周囲から食べ物を次々と渡され、辟易としていた。
宴はすでに無礼講となりつつある。酒を飲んで機嫌がよくなった石次が、台所で騒いでいた家人たちを呼び寄せ、彼らが酒の勢いに乗って歌ったり踊ったりしている。皆笑いながら手を叩き、次々と踊りに加わっていった。
「そなたが、噂の進士下道真備殿か。」
不意に隣から声をかけられて隣を振り向くと、浅緋の闕腋袍をゆったりと着た葛城王が、盃を片手に隣に座っている。
「あっ、葛城王殿下。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。お酒をすぐに……。」
「いいよ。叔父上が面倒を見ている学生なら、俺の弟みたいなものだろう?」
葛城王はそう言って慌てる真備を笑って制止すると、にやりと笑った。
「それに、もう酒はやめておくよ。多比能に叱られる。」
「はぁ、わかりました。」
「それにしても、此度の進士試は語り草になると持ちきりだ。まぁ、あの長屋王のことだから、決まり通り君の名前しか記録に残さないだろうが、我々の記憶には3人ともきっちり刻み付けられたよ。」
真備はバツの悪そうな顔をして頷いた。
「しかし、長安か。随分と遠いね。長安では何をしたいかね?」
「ええと、全てを学びたいと考えています。」
そこまで緊張した面持ちでいた真備は、そこでふとおかしくなって頬を緩めた。
「自分でもおこがましいですが、全てを。大唐の全てを学んで帰って、この日本のために役立てたいと思います。」
「そうか、全てか。」
葛城王そう言って盃にわずかに口をつけると、おもむろに口を開いた。
「じゃあ、全てを学んで帰ってきたら、手伝ってくれるか?」
葛城王の声は、宴には似合わないほど静かで、何かに思いつめた声だった。
その声を聞いて、真備は、葛城王に関する数多の噂を思い出した。非常に優秀な皇族であったが、父の血筋はあまりよくない。母も父を捨て、新たな権力者に取り入った。こうして平城京の実権を握る藤原不比等に連なることができたが、天皇家の嫡流に絡みつきながら帝を支える藤原氏には加われない、哀れな王子。
だが彼もまた、ようやく小さな花を咲かせた日本を想い、必死で生きている者であった。そのためなら、どんなことでもするだろう。己の下した決断の責任を一生背負い続ける覚悟を決めているのだ。
その覚悟を決めた声に、真備は妙に心惹かれてしまった。
「……もちろんです。私なんぞで役に立つのなら。」
何かにとりつかれたように答えた真備を見て、葛城王は小さく笑った。哀れな王子の笑い声が、宴席の笑い声に溶け込んでいく。
「この世に役に立たない人間なんていない。どんなに些細に思えることでも、よくよく考えてみると世の中を動かしているものだ。」
葛城王はそう言って盃を掲げ、大部屋の中心で踊っている家人たちを指さした。
「この一見どうでもよい宴も、巡り巡ってこの国を変える重要な宴かもしれない。あそこで踊っている家人が、明日とても重要な仕事をやりとげ、叔父上の評判に繋がって、県犬養氏の未来を変えるかもしれない。世の中はそういうもんだ。だから、君が唐に渡るのも、きっとどこかの誰かの役に立つさ。」
「……あなたにまたそう言っていただけるよう、唐でも勉学に励みたいと思います。」
真備の言葉に、葛城王はどこか嬉しそうに頷いた。
「そういえば真備殿、山上憶良殿という方はご存知か?」
「ええ、もちろんです。実は今日も阿倍仲麻呂殿と白猪真成殿から話を聞きまして、日記を読みに行く約束をしているのです。」
「おお、そうか。それじゃあ大伴旅人殿のことをご存知だね。」
葛城王はそう言って頬を緩めた。
「憶良殿や旅人殿は和歌が大変上手で、私もいろいろと教えてもらったんだ。」
「殿下は、和歌がお好きなんですね。」
「ああ、あまり上手ではないがな。まぁ、上手な人と歌を掛け合って、自分の歌をより良くしてもらっている、というところだ。」
葛城王はそう言って、少し照れた表情を浮かべた。
「真備殿は、和歌は得意か?」
「いえ、あまり上手ではありません。もっと上手に詠めるようになりたいのですが、もはや歌にもなっていないと笑われて。何をどうしたらいいのかわかりません。」
「昔、あの志貴皇子様がおっしゃっていたのだが、よく周囲を観察することが秘訣だそうだ。山の中を流れる冷たい小川や、池で羽を休める鳥をじっと見つめる。すると自分の心が震える瞬間があるらしい。その一瞬を正確に切り取って歌にすれば、自然の景色だけでなくその時の心の震えも自然と歌に込められていく、とおっしゃっていたな。」
「わかるようで、難しい感覚ですね。」
「ああ、そういえば。志貴皇子様から頼まれて、県犬養の家人たちに用意させていた物があったのをすっかり忘れていた。」
葛城王は、ちらりと真備の方を見ながら言った。
「本当であれば、私か母上、あるいは叔父上がきちんと挨拶をして渡すべきだが、皆忙しくて時間がない。困ったものだな。」
「……あの、もしよろしければ、私が届けましょうか?」
真備は、おそるおそる口を出した。
「志貴皇子様が、大変和歌がお上手で文化に精通したお方だという評判はずっと聞いていましたし、壬申の乱の頃を詳しく知っていらっしゃる数少ない方であるとも聞いています。もし叶うのであれば、お話を伺いたいと思っていました。それに私は岩次殿に大変お世話になっています。唐に行く前にお役に立てることがあるのであれば、ぜひ。」
「……そうか。それはよかった。私も、これから唐に渡る若者が日本の文化や歴史をきちんと学ぼうという姿勢は良いと思う。叔父上にも後で話しておこう。」
その時、酔っぱらった家人の1人が真備の腕をつかんだかとおもうと、踊りの場に引きずり出された。たちまち真備は周囲の人々の歌声や笑い声に包まれる。その真備の姿を葛城王は目を細めて見つめていたが、やがて宴席から姿を消した。
宴の客人であった葛城王は、弟の佐為王と共に、夜が深くなる前に自分の邸へ帰っていった。一方、真備は酒と踊りに疲れて、自室に戻るなり倒れ込んで寝てしまった。
個人的な妄想ですが、橘諸兄は飲み会で上手に立ち回って出世を掴むタイプのおじさんだと思います。
万葉集に宴会で詠んだ歌が残っていたり、あれだけ荒れた奈良の政治劇の中で天命を全うしたし、橘奈良麻呂の乱の後に宴会を禁止する命令が出たりしていたので。
きっと、ここぞという時に腹を割って交渉に挑むのが上手なコミュ力の高いおじさんです。




