我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて【日本】
タイトルは長屋王の歌からとりました。
平城京の人々の本当の故郷はまだ飛鳥、という時代です。
「仲麻呂!おーい、仲麻呂!」
雨上がりのさわやかな朝に、聞きなれた声が響き渡る。阿倍仲麻呂は眠い目をこすりながら弟の帯麻呂にいくつかの漢字の発音を教えてやっていたところだった。そこへ白猪真成という若者が部屋に飛び込んできた。
「おい、真成。朝っぱらからうるさいぞ。」
「さては仲麻呂、昨日は愛しのあの人とお楽しみだったか?」
「残念ながら、父上と一緒だったよ。」
「帯麻呂、それは本当か?」
「ええ、本当ですよ。」
「ふーん。」
自分から話をふったくせに、真成は興味のなさそうな顔で座り込んだ。仲麻呂に恋人がいないことくらい、友人として重々承知だ。そろそろ妻を迎えても良い年頃ではあったが、近いうちに遣唐使を派遣するらしいという噂が流れてからと言うものの、仲麻呂はさらに書物に向かうようになってしまい、書物が恋人という日々を送っている。どちらにせよ、遣唐留学生となれば十年以上帰国できない。今、恋人を作るわけにはいかないだろう。
真成は帯麻呂の隣に座ると、机の上に広がった書物をじっと見つめた。さすが中納言の甥である。貴重な書物を自宅に取り揃えており、こうやっていつでも勉強することができるのだ。最も、字の癖から、まだ幼いころの仲麻呂が人から借りて懸命に写し書きしたものらしいことを、真成は悟ったが。
「有西都賓問於東都主人曰、か。『両都賦』なんか引っ張り出してくるなんて、もう心は長安かい?」
真成はいくつかの文面から、仲麻呂が『文選』の最初の巻を引っ張り出して弟に教えているらしいことを悟ると、にやりと仲麻呂に笑いかけた。
「真成、もう知ってるのか?」
「知ってるさ。昨日の大学寮じゃみんなその話をしていたよ。今回の遣唐留学生は歴代で最も優秀じゃないかと。」
「真成、すまない。今日のうちには挨拶に行こうと思っていたんだ。」
阿倍仲麻呂は、父親そっくりのバツの悪そうな顔をした。昨日は遣唐留学生に選ばれた嬉しさで有頂天になってしまい、あちこち駆け回った割には挨拶すべき人にほとんど会えていなかった。幼いころから共に学んだ学友たちのことなど、すっかり頭から抜け落ちていたと言っても過言ではない。
「俺こそ、すまない。今日には挨拶に行こうと思っていた。」
親友の言葉に、仲麻呂は顔を上げた。期待と不安が混ざった高揚感がゆっくりの胸の中から湧き上がってくる。
「……ということは、まさか、真成も?」
「ああ、遣唐留学生だ!」
真成の希望に満ち溢れて弾んだ声に、仲麻呂は思わず身を乗り出した。
「真成と一緒に長安に行けるのか!」
「そうだ!俺たち、平城京だけじゃなくて長安でも机を並べることになったんだ。」
2人の若者は、若さと希望が詰まった手をがっつりとを組んで喜びを分かち合った。
白猪真成は、阿倍仲麻呂と同年代の若者である。出身は河内国。都に暮らす官人の息子で、幼いころから机を並べて勉強した幼馴染だ。成績は阿倍仲麻呂に準ずる二番手に甘んじていたが、異国の言葉や文化、特に朝鮮半島の言葉に関しては仲麻呂よりも達者であった。
それもそのはず、白猪真成は今でも家の中では異国の言葉を使う習慣を残す渡来人の氏族の出身だった。
真成の父の白猪氏の先祖は、百済の人である。百済王の辰斯王の後裔の王辰爾の甥の胆津が、吉備国にある大王家の領地の白猪屯倉の管理を任せられたことから、白猪という氏を名乗るようになったそうだ。その後、吉備国の児島湾のあたりにあった児島屯倉の管理も任されたらしい。この児島湾のあたりを拠点にしていた吉備海部氏の話は、以前にしたとおりである。
真成の母の氏は井上である。母の氏族もまた、河内国に住む渡来人の子孫であった。東漢氏につらなる一族で、文筆や外交で活躍した一族だ。そういった血を引いていることもあり、真成は幼いころから徹底的に異国の言葉を叩きこまれ、勉学に励んできた。
真成は性格は明るく社交的で、故郷の河内国にはもちろん、平城京でも友人が多い方だ。引っ込み思案で、垂水広人の塾や親族の邸に通う他はあまり外出せず、所属したばかりの大学寮にも必要最低限しか顔を出さない仲麻呂とは真逆の性格で、いろいろなところに顔を出し、周囲の若者たちにも慕われていた。むしろ仲麻呂が同世代の若者の間であまり浮いていないのは、真成のおかげと言っても過言ではない。
「それで仲麻呂。遣唐使の話だけじゃなくて、もっとすごいことがあったんだよ。すぐに大学寮に顔を出してくれ。」
「あそこはあまり好きじゃないんだ。他人の目も怖いし。」
「そんなこと言っていないで、行くぞ。本当にすごいことなんだって!」
そう言って、白猪真成は立ち上がった。
「なんだよ、そんなに重要なことなのか?」
「ああ、すごいぞ。」
仲麻呂はため息をつくと、弟に向かって呟いた。
「帯麻呂、兄は大学寮に行ったと皆に伝えておいてくれ。勉強はまた今度教えてあげるから。」
「わかりました、兄上。お気をつけて。」
阿倍仲麻呂はのろのろと立ち上がって、外に出るための質のいい服に着替えると、待ちくたびれた様子の白猪真成と連れ立って表に出た。
大きな荷物を抱えた農民や急ぎ足の家人、立派な服を着た貴族たちが道を行きかっている。「馬が逃げてしまったので見つけた人は連絡してほしい」という木簡が地面に突き刺さった角を曲がり、2人は朱雀大路に出た。平城宮への入り口である朱雀門の赤い屋根を目指して歩きながら、真成が口を開いた。
「聞いて驚くなよ、進士試の結果が出て、何と今回、甲第の合格が出たらしいんだ。」
「……ついに合格者が出たのか?」
「らしいぜ。」
先日、阿倍仲麻呂と白猪真成は進士試の試験を受けた。
高級官僚を目指す若者のほとんどが秀才試を受けるので、正直に言えば2人とも受けるのであれば秀才試を受けたかったところではあったが、阿倍仲麻呂は周囲の目を気にして秀才試を受けたいと言えず、白猪真成も自分より優秀な仲麻呂を差し置いて受けたいと言えず、2人とも秀才試を受験しなかった。ところがそれを大人たちは「勉強をなまけようとしているのではないか」と疑い、試験の内容が難しい割には得られる官位が低いので人気のない進士試を受験するように手続きを進めてしまったのだ。
試験会場にいたのは、阿倍仲麻呂と白猪真成、あとは最低限しか大学寮に顔を出さない仲麻呂ですら数度しか見かけたことのない若者の3人だけだった。真成曰く、その若者は吉備出身でなかなか優秀らしいという噂の人物で、歳は仲麻呂たちより2歳ほど年上らしい。真成ですらあまり話したことがないらしく、それ以上のことは分からなかった。ただ、なんとなく3人とも本気の受験ではないことは悟ったものだった。
「人数は?」
「聞いていない。というか怖くて聞けなかった。」
朱雀大路に植えられた街路樹の若葉が輝いていて、青空によく映えていた。馬に乗った官人が2人、駆け足で南へ向かっていく。色鮮やかな服を着た身分の高い女性が供の者を連れて大路を横切っていく。何かの道具を抱えた勇ましい男たちが汗を光らせて歩いてゆく。どこかから逃げて来たらしい鶏が人々に踏まれまいと首を振っていた。そんな中を、2人の若者は歩いていく。
「大学寮に行けば結果が分かるのか?」
「ああ、今日発表されるらしい。でも昨日から今回は進士試で甲第の合格がいるらしいという噂が流れているんだ。」
「なんだ、噂か。」
「遣唐留学生の発表もあったから、とにかくいろんな噂が飛び交っている。俺の兄貴が次の新羅使らしいとか。そうそう、阿部安麻呂殿の噂も流れているよ。」
「安麻呂の伯父上の噂が?」
仲麻呂は昨晩の父親たちの取っ組み合いを思い出しながら、何も知らないふりをして尋ねた。
「体調があまり良くないから、辞退されるのではないかという話だよ。本当なのかい?」
「確かに、安麻呂の伯父上はあまり体が丈夫じゃないから、家族はみんな心配しているよ。」
大きく開かれた朱雀門の入り口には、衛士が幾人か待ち構えていて、厳しい目で門を通り抜ける人々を見つめていた。2人は慣れた様子で門をくぐり、式部省の建物があるあたりを目指して歩きはじめる。平安の大内裏も巨大で私もうっかりしていると道を間違えたり時間に間に合わなかったりすることがあったものだったが、平城宮も負けず劣らず広大な宮殿であった。
しばらく歩き続けて、ようやく式部省の建物に足を踏み入れた。官人たちが何かを見ながら話し込んでおり、どこかの省庁から走ってきた使部が木簡を抱えて歩き回っている。2人は官人たちを眺めながら足を進め、学生たちが机を並べる大学寮の区画にようやくたどり着いた。
「おっ、真成に仲麻呂じゃないか。」
顔見知りの学生が2人を見ると顔を上げて声をかけた。
「ああ、どうも。」
真成が挨拶を返す。仲麻呂は黙って会釈をした。
「進士試の件で、奥の部屋にお偉いさんが来ている。すぐに挨拶に行くようにとの伝言だ。」
「お偉いさん、って?」
「式部卿殿だ。」
思わず2人は顔を見合わせた。仲麻呂がそっと囁く。
「長屋王だ。」
「ええっ。」
真成も小声で驚いて見せた。
「真成、試験で何かあったのか?」
「俺だってわかんないよ……。とりあえず仲麻呂、行くぞ。」
学生たちの視線を浴びながら、2人はおそるおそる奥の部屋へ足を踏み入れた。仲麻呂は恐怖と怒りで唇をかみしめていた。真成もめずらしくおびえたような表情を浮かべている。
奥の部屋にいたのは2人だけだった。
奥の上座に座っているのは、立派な服を着た青年とも壮年ともいえる年代の男だった。彼がこの都の実力者の1人である長屋王である。宮中や親族の集まりなどで見かけたことはあったが、まだ若い仲麻呂と真成が長屋王と直接言葉を交わすのはこれが初めてであった。非常にまっすぐでまじめな性格で礼儀作法などにも口うるさいというのがもっぱらの噂で、大学寮の若者たちだけでなく、宮中の官人や貴族たちからも恐れられている。
一方、手前の下座には若い男が微動だにせずに座っていた。仲麻呂や真成とさほど変わらない歳である。一瞬こちらに向けた横顔を見て、仲麻呂は共に進士試を受けた吉備国出身の学生であることに気づいた。
「そなたたちが、阿倍仲麻呂殿と白猪真成殿であるな?」
長屋王が静かに口を開いた。仲麻呂と真成はとっさに丁寧な中国式の立礼をした。
「殿下、お待たせしてしまい、申し訳ございません。」
真成が恭しく言うと、長屋王が静かに笑った。
「そんなに堅苦しくならなくてもよい。下道真備殿のことは知っているな? 2人とも真備殿の隣に座られよ。」
「ありがとうございます。」
「失礼いたします。」
仲麻呂と真成が長屋王の前に座ると、長屋王は目を細めて口を開いた。
「おお、そなたが阿倍仲麻呂殿であるな? 伯父上の宿奈麻呂殿とどことなく似ておられる。御父上の船守殿は変わりないか?」
「……はい、父は元気です。」
「それはよかった。そちらが外記の白猪広成殿の弟君の白猪真成殿だな?」
「はい、そうです。兄のことをご存知でしたか?」
「ああ、何度か言葉を交わしたことがある。まだ若いが、太政官から陛下に申し上げる奏上文をとても丁寧に書かれる優秀な人だ。それに外交に関して素晴らしい見識の持ち主であった。そなたは良い兄上をお持ちだ。」
「ありがとうございます。兄にも申し伝えておきます。」
長屋王はゆっくりと3人の若者を見渡した。
この時、長屋王は妙に感慨深いものが胸の中にこみあげてきて、きゅっと胸が苦しくなかったように感じた。喜びと寂しさが同時にやってくるような不思議な感覚だ。
ここに並んでいる優秀で希望に満ち溢れた若者たちが、これから先の未来を作っていくのだろうという喜びや期待が、長屋王の胸を満たしていた。未来を託すの事の出来る優秀な若者を育てることは、平城宮の大人たちの心の底からの願いだったからだ。
いや、それだけではない。今、平城宮で政治をつかさどっている大人たちを、育てた大人たちの願いでもあった。元明女帝、元正女帝、石上麻呂、阿部御主人、粟田真人、下毛野古麻呂、巨勢麻呂、阿倍宿奈麻呂、そして藤原不比等。律令の整った国を目指し、奈良の平城京への遷都を成し遂げ、静かに次の世代へ襷を渡そうとしている。
また、皇位継承や権力をめぐって悲しい出来事が度重なった飛鳥の時代を、歯を食いしばって生きた大人たちの願いでもあった。若くして亡くなった草壁皇子に無実の罪で消えた大津皇子、天武帝の意志を守り続けた父の高市皇子、残された持統女帝を支え続けた忍壁皇子に、天智帝の血脈を守る川島皇子と志貴皇子。皇位と権力をめぐって親兄弟が殺し合う時代を終わらせようとした大人たちの願いは、まだ若い首皇子の存在にかかっていた。
それからさらに上の世代の大人たちの願いでもあった。蘇我馬子、推古女帝、あの聖徳太子。中大兄皇子に中臣鎌足。隋や唐に渡った小野妹子や犬上御田鍬。激動の東アジア情勢を生き抜くために、大王に権力を集中させ、天皇を中心とする新たな”日本”を作り上げようとした人々だ。
この国を花開かせたいと願った数多の人々の想いが、目の前に座っている希望に目を輝かせた3人の若者を生み出したのではないか。ようやく探していたものを見つけた時のような喜ばしい気持ちで、長屋王は胸がいっぱいになっていた。
しかし、それと同じくらい、もの悲しくて寂しくて悔しくて切ない気持ちもこみあげてきていた。長屋王ですらその気持ちをうまく言葉にして説明することができない、胸がつかまれたような苦しい気持ちだ。
長屋王はもう一度ゆっくりと3人の若者たちを見渡した。
彼らはこれから唐に渡り、繁栄を極めた長安の都を目の当たりにし、数多の名士と交流し、勉学に励むのだろう。うらやましくないと言えば嘘になる。長屋王も若かりし頃、漢文や漢詩を必死に学んだ。唐に行きたいという気持ちは若い頃から胸の内にくすぶっている。しかし、己の年齢と立場、そして血筋を考えれば、もう唐に渡る機会はないに違いない。若者たちに対して大人げない妬みを持っているから、唐に行けない己を憐れむ切ない気持ちになっているのだろうか。
それとも、二度と彼らに会えないかもしれないという寂しさなのだろうか。おそらくこの若者たちは十年は故郷に帰らないだろう。海を渡る船旅は危険も多い。無事に帰ってこれるとは限らない。彼らを遣唐留学生に選んだということは、彼らにそれだけの覚悟を迫るということでもあった。
それに十年後、果たして自分は生きているのだろうか。長屋王は自嘲気味に自分に問いかけた。
元正女帝は長屋王の妻である吉備内親王の姉で、要するに伯母にあたる。そのため女帝は姪の婿である長屋王のことを大変信頼しており、まだ若い首皇子の補佐役にと考えているらしい。またもう1人の妻である藤原長娥子は藤原不比等の娘であり、長屋王は平城京の真の権力者である不比等の信頼も得ていた。
加えて、長屋王自身も、父からは天武帝の血を、母からは天智帝の血を受け継いでいる。皇族出身の太政大臣として歴代の帝を支えた父が遺した権力と財産も受け継いでいた。長屋王と吉備内親王による”北宮王家”の存在感が日に日に増しているのは十分理解していた。そして2人の息子である膳夫王が、天武帝と持統女帝、草壁皇子、文武帝の血を引く首皇子に並ぶ皇位継承候補になりつつあることも悟っていた。
それは決して喜ばしいことではない。
長屋王は常々、自分が斑鳩の山背大兄王の二の舞になってしまうのではないかと危惧していた。山背大兄王は聖徳太子と蘇我刀自古郎女の子で、有力な皇位継承候補だった。だが栄華を誇る蘇我入鹿と対立し、斑鳩寺で”上宮王家”は自らその血脈を断つことになった。
長屋王の願いは、国の改革を進めることであった。律令を現実に即したものに変え、その分きちんと守らせることが、今の日本には必要であると常々考えている。
最も、これを考えているのは長屋王だけではない。大宝律令を編纂した粟田真人は唐で実際に運用されている律令格式を目の当たりにして常々改定を訴えていたし、同じく大宝律令を編纂した藤原不比等はすでに大宝律令の改定に乗り出していたほどだ。律令制の矛盾を訴える声も多く、改革が必要だという意見はそれなりに広まっていた。
だが、粟田真人や藤原不比等もだいぶ歳を重ねてしまった。その次の若い世代は、大宝律令の改定には消極的だ。若い頃から律令が整っていることが当たり前の世代で、上の世代ほど律令の必要性を感じていないことが背景にある。また必要以上に大宝律令をありがたがって、改定するのは恐れ多いなどと言っている者もいた。現実に即していない律令は、形骸化させたままにしておき、臨機応変に現場で判断すればいいと考えている者もいる。つまり、国の改革を進めるにはある程度の権力が必要だ。
だが、天皇に即位したいとは思わない。もしそうなれば、首皇子を次の天皇にしようとする人々と血で血を洗う争いになりかねない。草壁皇子の直系子孫に皇位を継承させるという暗黙の了解の下、皇位継承を安定させて、壬申の乱のような悲劇を二度と繰り返さないという持統女帝の願いを踏みにじることになる。皇族同士での争いなど、長屋王は求めていなかった。
そこで長屋王は、父の高市皇子のような生き方を目指していた。政務を司る太政官の責任者として、そして皇族の第一人者として、天皇を支えながら国の改革を進め、日本をより素晴らしい国にする。
だが、今の長屋王は、一歩間違えれば首皇子の敵になる。見送った遣唐留学生が帰国する時に出迎えられるかもわからない身であった。
長屋王は、もう一度じっくりと、阿倍仲麻呂、白猪真成、下道真備の希望に光る黒い瞳を見つめた。それから喜びと寂しさが同時にやってくるような不思議な感覚をかみしめる。やがておもむろに口を開いた。
「さて、本題に入ろう。君たちはこの度、遣唐留学生に選ばれた。海を渡って入唐し、日本のために彼の地の様々な知識を学んでほしい。」
3人の若者は神妙な顔を頷く。長屋王も静かに言葉を続けた。
「なぜあまたの若者たちの中から、君たちを選んだのか。理由は先日受けてもらった進士試だ。」
「あの、その進士試の件なのですが……。」
「おいっ、真成。」
真成がおずおずと結果を尋ねようと顔を上げた。仲麻呂は小声で親友を止める。式部卿の話を学生が遮るなど言語道断だろう。真備はそんな2人に冷たい視線を向けた。
「真成殿、何か聞きたいことがあるのかね?」
「はい、殿下。あの、実は私と仲麻呂は、まだ結果を知らないのです。合格なのか、それとも落第なのか、教えていただけないでしょうか?」
長屋王は、少し驚いた顔をしたが、やがて思わずこみ上げてきた笑いをこらえきれず、上品な笑い声をあげた。
「安心したまえ、真成殿。仲麻呂殿はもちろん、真備殿もまだ結果を知らない。これから話すんだから。」
長屋王はそう言うと3人の顔を見渡した。
「結論から言おう。下道真備は甲第で合格、阿倍仲麻呂と白猪真成は落第だ。」
その瞬間、仲麻呂と真成は同時に隣を向いて、真備の顔をまじまじと見つめた。思えば、この吉備国から来たという青年の顔をじっくり見たのはこれが初めてだ。ニキビの後がわずかに頬に残っているが、端正な顔立ちだ。
その真備の方は口をわずかに開いたまま、驚きの表情で長屋王を見つめた後、ゆっくりと隣に座る落第の学生たちの顔の方を向いた。勝ち誇った顔でも、喜びに満ち溢れた顔でもなく、どうしたらいいかわからないという放心状態の顔だ。
これが、世に名高い阿倍仲麻呂と吉備真備、そして平成の世になるまで忘れ去られていた井真成の出会いであった。
「さて、ここからが重要だ。しっかりと聞き給え。」
長屋王の低い声に、3人はようやく我に返って前を向いた。
「もちろん真備殿の答案は素晴らしかった。非の打ち所がない満点の解答だ。甲第での合格にふさわしい。だが、それと同じくらい優秀な答案があと2枚あった。」
長屋王はそう言うと、仲麻呂と真成に笑いかけた。
「ところが、その2枚には名前が書いていなかったんだ。」
その言葉に、真成と仲麻呂は奇声を上げた。
「えっ、名前……?」
「まさか、書き忘れた……?」
真備は再び、口をわずかに明けた驚きの表情で隣の2人を見つめている。長屋王はわざとらしい大きなため息をついた。
「無論、君たちのことをよく知っている人が読めば、筆跡からどちらのものか判別することもできた。それに3枚とも甲第で合格なのだから、3人とも合格にしても構わないという意見もあった。」
「では、2人とも合格にしては……?」
今まで一切口を開かなかった真備が身を乗り出した。なぜか仲麻呂や真成よりも必死そうな顔をしている。
「しかし進士試とはいえ国家の重要な管理任用試験。規則はきちんと守るべきだろう。ゆえに、下道真備は甲第で合格、阿倍仲麻呂と白猪真成は落第だ。」
3人の若者は何とも言い難い表情でため息をついた。三者三様のため息に長屋王はまた上品な声で笑うと、言葉を続けた。
「さて諸君、ちょうど遣唐使の派遣が決まり、誰を留学生として送り出すか皆で話し合っていたところだ。優秀な人間が3人もいて、しかもまだ若い。このまま日本で任官するよりも、唐で素晴らしいものを学び、さらに見識を深めてはどうかということになった。もう話は伝わっていると思うが、改めて聞きたい。諸君らは、唐に留学したいか?」
阿倍仲麻呂は、黙って、しかし力強く頷いた。白猪真成も頷いたが、その目に一瞬、新しい世界への不安の影がよぎったのを長屋王は見逃さなかった。下道真備は困ったような笑みを浮かべながら、それでも静かにうなずいた。
「では、頼んだぞ。」
そう言うと、長屋王は3人に笑いかけた。今まで見せていた表情よりもずっと柔らかい笑顔だった。
「しかし、実にうらやましい。私も大唐をこの目で見てみたいものだ。それに仏の教えについてもっと詳しく学びたい。仏の教えを政に採り入れれば、民は幸せに生き、国はより豊かになると聞く。その教えを早く知りたいのだ。」
なんでも聞かないと気が済まない好奇心旺盛な幼子のような口調の式部卿に、3人は思わず顔を見合わせた。
「改めて、自己紹介をさせてくれ。」
式部省の建物を揃って出た瞬間、白猪真成はくるりと体の向きを変えて、下道真備の方を向いた。真備はやや驚いた表情で、助けを求めるかのように仲麻呂の方を見たが、観念したようにうなずいた。
「僕は白猪真成。河内国の出身だが、育ったのは平城の都で、先祖は百済の人。父と兄は宮中に仕えていて、僕も文筆を叩きこまれた結果ここにいるって感じだ。唐に行くのは夢だったから嬉しいけれど、日本の友達と離れ離れになるのは寂しいと思っていたから、仲良くしてくれよ。ほら、仲麻呂も自己紹介をしろよ。」
仲麻呂は照れくさそうな表情で口を開いた。
「僕は阿倍仲麻呂。えっと、都で生まれ育った。」
「こいつの伯父さんは中納言の阿部宿奈麻呂殿、お祖父さんはあの阿倍比羅夫殿だ。こんなひょろっとしているけれど名門の御曹司ってわけ。」
「そんなことはないよ。うちは分家だし。えっと、ずっと唐に憧れていて、今回留学生に選ばれたのはとても嬉しいと思っている。」
「こいつは昔から優秀なので都じゃ有名だったんだ。まさか名前を書き忘れるうっかりやだとは思わなかったけれどな。」
「真成、少し黙ってくれよ。真成とは幼馴染みたいなものなんだ。ちょっと賑やかだけどいいやつなんだ。」
「じゃあ、君の自己紹介をしてくれるかい?」
真備はやや緊張した面持ちで口を開いた。
「吉備下道真備。出身はご存知の通り、吉備国、最近では備中国とも呼ぶらしいけれど、ここよりずっと西の方で、都には慣れていないんだ。書物を読むのが昔から好きで、唐に行けるなんて夢みたいだよ。」
「せっかくだから真備、これから一緒に準備をしていこうよ。もちろん仲麻呂も一緒にな。」
真成は、まだ固い顔をしている真備と仲麻呂の肩を叩いて言った。
「そういえば真備、君は今、どこに住んでいるの?」
「ああ、県犬養石次殿の邸の部屋を借りているんだ。」
「県犬養の?」
真備はこくりと頷いて話を続けた。
「最初は母の実家の親戚の家から通おうとしたんだけれど、平城宮まで遠くて、歩くのも大変だし、何度も迷子になってしまって困っていたんだ。そうしたら、大学寮に目をかけてくださっている藤原武智麻呂殿がみかねて声をかけてくださって。地方出身の困っている学生に、邸宅の余っている部屋を案内するよう一族で取り組んでいるらしい。それで藤原不比等殿の奥方で、県犬養の出身の、橘三千代様の弟の邸を紹介してくださったんだ。」
「それ、すごいや。橘三千代って言ったら、宮中の影の権力者だぜ?」
真成が声を潜めて囁いた。
「食事や洗濯の面倒も見てもらっているし、石次殿だけでなく、三千代様や御子たちも気にかけてくださっている。勉学に集中できたのはそのおかげだ。」
「それはよかった。本当に良かった。」
仲麻呂はそう言って頷いた。
「そういえば、今度みんなで大伴旅人殿の邸を訪ねないか? 父上が聞いてくださったんだが、先の遣唐使で唐に渡られた山上憶良殿の日記が、旅人殿の邸に預けられているらしい。きっと役に立つだろうからいつでも読み来て構わないとのことだそうだ。」
「それはいいな。俺はいつでも行けるぜ。真備は?」
「できれば朝は大学寮で勉強をしたい。昼過ぎなら都合がつくと思う。あとは出発前に一度、吉備に顔を出さないと。それに必要なものをそろえなくては。」
「そうだな。ひとまずまたここで会って、都合がいい時に行こうよ。じゃあ、またな。」
3人の若者は手を振って別れると、それぞれの帰る場所に向けて歩き出した。雲の合間から見える透き通った青空が、彼らの青春をそっと見守っていた。
いよいよ、遣唐留学生を語るうえでは欠かせない井真成の登場です。
21世紀に入ってから明らかになった真成については謎が多く、日本名は不明なままです。渡来系の葛井氏(当時は白猪氏)や井上氏の出身ではないかと言う説を採用させていただき、名前や活躍した時期が似ている葛井広成の弟である設定にさせてもらいました。
彼が何者か、もう真実は分からないけれど、おかえりなさいを言ってあげたいですね。