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雨ごもる三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降ちつつ【日本】

タイトルは安倍虫麻呂の和歌です。

「父上、何かあったのですか?」

 月は雲に隠れて見えず、夜の闇は一層深まって、奈良の都を包んでいった。そんな中、慌ただしくこっそりと屋敷を出ようとした阿部船守あべのふなもりは、長男の阿倍仲麻呂あべのなかまろに呼び止められてバツの悪そうな顔をしてみせた。

 18歳になる彼の長男は見事に遣唐留学生に選ばれ、彼の兄は名誉ある遣唐大使となった。その知らせが今日届き、長男は夢見心地な1日を満喫していた。今日の夕食時に祝いの言葉をかけてやれば、図に乗った長男から唐の言葉で返事を返され、思わず苦笑いしか返せなかったものだ。次男の帯麻呂おびまろのため息をきいて、家の中が1日中こんな調子であったことを父は悟った。

「いや、ちょっと。」

「宮中で何かあったのですか?」

「そういうわけではないんだがな……。」

言葉をはぐらかす父に、仲麻呂は冷めた目線を送った。よく見てみると、宮中に出仕するときの朝服ではなく、質はいいが目立たない普段着だ。

「母上に申し上げた方がよろしいようですね。」

どうやら長男は、父の浮気を疑っているらしい。船守はため息をついてこっそり耳打ちした。

安麻呂やすまろの兄上のところに行ってくるだけだ。」

「安麻呂の伯父上のところですか!」

仲麻呂はぱっと華やかな顔をして見せた。

「共に唐に行くので、伯父上の体調が良い時を聞いてご挨拶に伺おうと思っていたのです。今晩は調子がいいのですね。ならば私もすぐに支度をしてまいります。」

 そう言うと、仲麻呂は軽やかな足取りで廊下を駆け出した。父はその後ろ姿をため息をついて見送る。長男の仲麻呂は人見知りでおとなしく性格だと世間では言われているが、親しい者や家族の前では目立ちたがり屋だし少し軽率な一面がある。こうなっては、兄の邸に同行させるほかないだろう。人前では礼儀正しく振舞うよう口を酸っぱくして言ったので大きな面倒事は起こっていないが、同年代の友人と喧嘩でもしないかどうかが少し不安ではあった。



船守ふなもり、内密にと言っただろう?」

 筑紫大宰帥であった阿倍比羅夫あべのひらふの次男の阿倍安麻呂あべのやすまろの邸の一室に、比羅夫ひらふの末息子である船守ふなもりと孫の仲麻呂なかまろの親子が足を踏み入れた瞬間、比羅夫の長男である阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろが呆れたような声でため息をついた。阿倍宿奈麻呂は中納言として平城宮の政治の中枢に参画しながら、この阿部あべの氏族をまとめあげている。

「そう言っている宿奈麻呂すくなまろの兄上のところは2人ですか?」

船守は末っ子らしい意地悪な物言いで兄を軽く睨むと、2人の甥に笑いかけた。

駿河するが、軍団の訓練で活躍していると中務省でも評判だ。よくやっているな。子島こしまはまた随分身長が伸びたじゃないか。」

船守ふなもりの叔父上もお元気そうで何よりです。」

阿倍駿河あべのするがが丁寧な礼を返す。その横で阿部子島あべのこしまがにやっと笑った。

「まぁ船守、そこに座れ。仲麻呂なかまろ、遣唐留学生の件は聞いているぞ。宮中でも評判だ。」

宿奈麻呂に促されて、船守と仲麻呂は座り込んだ。仲麻呂は思わず屈託のない笑顔を見せる。

「今日、粟田真人あわたのまひと殿とお会いしたのだが、仲麻呂の話を聞いて大変喜んでおられた。自分の生きているうちに阿倍の氏族の若者に長安を見せてやることができて感無量だと。」

「そういえば、前回の大宝の遣唐使の時には宿奈麻呂の兄上の名前も挙がっていたのですよね?」

船守も目を細めて長男の姿を眺めながら囁いた。

「ああ、私にも内々に話があった。少し興味はあったんだが、阿倍御主人あべのみうし殿が氏上うじのかみとして断ったらしい。ああ、言い忘れていたが、広庭ひろにわ長屋王ながやおうのところに呼ばれていて今日は来れないそうだ。」

「それは仕方がないな。あのお方の目はごまかせない。」

 部屋の中央で長兄と末弟の会話をじっと聞いていた阿倍安麻呂あべのやすまろが、静かに口を開いた。その言葉に、宿奈麻呂と船守も黙ってうなずいた。

 阿倍広庭あべのひろにわは、かつて右大臣であった阿倍御主人の子で、この兄弟たちにとっては親戚にあたる。優秀な人物であることはもちろん、式部卿の長屋王ながやおうと大変仲が良く、年齢や身分を超えて夜な夜な日本の未来を語り合っているらしい。さらに自分の娘の安倍大刀自あべのおおとじを長屋王に嫁がせており、生まれた賀茂女王かもじょおうを溺愛しているという話で有名だ。

 長屋王の父は天武帝の長男の高市皇子たけちのみこ、母は天智帝の皇女の御名部皇女みなべのひめみこで、血筋も才能も申し分のない期待の星だ。未来の帝が、天武帝と持統帝の子である草壁皇子くさかべのみこの血を引き、かつ平城京で一番の権力を握る藤原不比等ふじわらのふひとの血を引く、首皇子おびとのみこであることは誰の目にも明らかであった。だが彼はまだ若く頼りない。そこで首皇子おびとのみこを支える宰相として、さらには中継ぎの天皇として、長屋王と妃の吉備内親王きびのないしんのうをはじめとする”北宮王家”の存在感は日に日に大きくなっていた。

 この長屋王は非常に真面目な性格で有名であり、人事を司る式部卿として宮中を厳しく締め上げた。特に「式部卿の自分がいない場で勝手に人事を決めることを禁止する」という決まりを作った時は、あまりの厳しさに阿部の氏族たちも身を寄せ合ってどうしたものかと頭を抱えたほどだ。無論、長屋王が正しいことをしていることは誰もが分かっていたが。

 そして、今から阿倍比羅夫の子供たちがやろうとしていることを、長屋王は絶対に許さないだろうということを、彼らはよく知っていた。



「さて、これからやろうとすることを知っているのはこの場にいる者だけだ。広庭ひろにわにも詳細は話していない。秘密は必ず守ってくれ。」

 宿奈麻呂は、顔色の悪い安麻呂とその子の虫麻呂むしまろ、妙に楽し気な船守と浮かれた表情の仲麻呂、そして自身の子の駿河と子島をゆっくりと見渡した。

「結論から言うと、俺はかわいい弟の安麻呂を唐に行かせられない。広目ひろめのこともあるしな。」

 阿部広目あべのひろめの名が出た瞬間、安麻呂と船守の表情が暗くなった。

 阿部比羅夫には4人の息子がいた。宿奈麻呂すくなまろ広目ひろめ安麻呂やすまろ船守ふなもりの4人でいつも一緒に、海の向こうで逞しく生きている父の帰りを待っていたのだ。だが広目は伊勢の斎宮に関する仕事を任せられた直後に急な病で死んでしまった。あれほど元気であった兄弟のあっけない死は、彼らに大きな傷を残している。

「あの、そのことなんですけれど、以前父上が遣唐使の候補に選ばれた時に御主人みうし殿が氏族として反対して話がなくなったのですよね。」

駿河がおずおずと切り出した、

「安麻呂の叔父上の体調が良くないことは皆様もご存じのはず。父上が阿部の氏族の代表として反対すればよい話ではないでしょうか?」

「それで済めばいい話なんだが、安麻呂も普段はこうやって起きていられるし、気をつけさえすれば宮中に出てこれる。何度も言っているんだが、大丈夫だろうと聞いてもらえない。ましてや、人事の責任者は長屋王だ。」

宿奈麻呂はそう言ってため息をついた。それをかき消すかのように船守が口を開く。

「悪いお方ではないんだがな。きっと殿下は仮病を疑ってここまで見舞いに来るぞ。たぶん広庭ひろにわ殿と賀茂女王かもじょおうもくっついてくる。」

「まぁ、彼らには悪気なんてないんでしょうけどね。」

子島の軽口を宿奈麻呂の冷たい視線が跳ね返す。

「あっ、父上。今のは場を和ませる冗談で……。」

「ということで、今から俺たちは、かわいい弟の安麻呂を本当の病人にしてやることにする。」

「えっ?」

 へらへらと頭を下げていた子島が、素っ頓狂な声をあげた。仲麻呂も思わず伯父の顔を見つめる。一方、船守は面白いいたずらを思いついた幼子のような笑顔で懐を探り、乾燥したキノコを取り出した。

「家人が間違えて買ってきたキノコだ。こいつを食べると倒れて吐いて、熱も出るし肌には赤い出来物ができるらしい。こうして苦しみながら死ぬんだとか。食べられるキノコとよく似ているんだが、この裏の黒い模様が毒キノコの証なんだそうだ。」

「我が一族としては申し訳ない限りだが、そんな謎の病にかかった者を唐に送るわけにはいかないからな。きっと殿下も諦めてくださるだろう。」

宿奈麻呂と船守は口々にそう言うと、満面の笑みで安麻呂に詰め寄った。

「ちょっと、兄上!船守!それは毒だろう!?俺を殺すつもりなのか!?」

 安麻呂が病弱とは思えない叫び声をあげて兄弟の手を振り払おうとして、逆に転んだ。大きな音を立てて倒れた安麻呂に、船守からキノコを受け取った宿奈麻呂が覆いかぶさる。暴れる安麻呂を船守が押さえつける。まるで子供がじゃれているようであった。

「少しずつなら死なないそうだ。うおっ、痛い!」

「体調は心配だが、帝のご命令なら、私は唐にだろうが天竺だろうが黄泉だろうが、どこへだって行ってやるぞ。離せって!」

「兄上、いいからおとなしく飲み込んでください。兄上の体調じゃ唐にも天竺にも行けないですって。」

 3人の大人たちが暴れまわり、部屋の灯明が消えそうなほど揺れる。駿河が慌てて駆け寄り、火が消えないようにそっと遠ざけた。

「命なんぞ惜しくない。わたしひとりの……。」

「お前だけの命じゃないんだぞ!俺はかわいい弟が異国で死んだ知らせを受け取りたくない!」

「鼻をつまむな!」

「口を開けろ!安麻呂!」

「安麻呂の兄上!」

 取っ組み合ってじゃれる3人の父親たちを、駿河、子島、虫麻呂、仲麻呂の4人はどうしたものかとぼんやり眺めていた。

「兄上、これ、俺たちも安麻呂の叔父上を押さえつけたほうがいいのかな?」

子島がそっと隣に座る兄の駿河に囁いた。

「父上たちは放っておこう。そんなことより、仲麻呂、留学の件、本当におめでとう。従兄弟として嬉しく思っている。」

「ありがとうございます。」

「しかし、留学生となるとしばらく離れ離れだな。身内として素直に喜べない気持ちもある。父上の事で母上も俺も頭がいっぱいだが、仲麻呂のことも結構心配しているんだぞ。」

虫麻呂がぼそっと呟いた。その向こうでは、安麻呂の断末魔の叫びと、宿奈麻呂と船守の高笑いが響き渡っていた。




「安麻呂の兄上、調子はどうですか?」

「最悪な気分だ、船守。」

ひどい顔色で兄弟を見上げる安麻呂の姿を、宿奈麻呂は満足げな顔で見降ろした。

「早速、明日式部卿に面会して、昨日、遣唐大使就任の祝いの言葉をかけに弟を訪ねたらひどい病だったと伝えよう。」

「安麻呂の兄上、例のキノコは渡しておきます。予備は奥方に。長屋王殿下はもちろん、誰か人が訪ねて来た時は、少しかじって食べてくださいよ。」

「それから、しばらくは病を理由に仕事を休め。1か月も苦しんでいれば、代わりの遣唐大使が選ばれるだろう。」

兄の言葉を聞いて、安麻呂はため息をついた。

「ふがいないけれど、助かった。唐に行きたい気持ちは本当だ。だが、この体では十分に役目を果たせないだろうことも承知していた。どう身を引くべきか悩んでいたところだったんだ。」

そこまで言うと、安麻呂は甥の方を向いた。

「仲麻呂、お前は体が丈夫だし本当に優秀だ。きっと唐でもうまくやっていくだろう。少し寂しいが、海の向こうから甥の評判が聞こえてくるのを日本で待っているよ。」

「伯父上、ありがとうございます。」

伯父の少し寂しそうな、それでもどこかほっとしたような表情を、仲麻呂は脳裏に刻み付けた。

「そういえば仲麻呂、旅人たびと殿の邸にはいつ頃行くのかい?」

突然、伯父の宿奈麻呂に話しかけられ、仲麻呂は首を傾げた。

旅人たびと殿、とは?」

「船守、まだ息子に話していなかったのか?」

「ああ、その話か。すっかり忘れていた。前の遣唐使で唐に行かれた山上憶良やまのうえのおくら殿が、在唐時に書いた日記を大伴旅人おおとものたびと殿に預けているらしい。いつでも読みに来てよいとのことだ。」

「あの山上憶良殿の日記ですか?」

「そうだ。憶良おくら殿は今は伯耆国ほうきのくににいらっしゃって、都で話を聞くことができない。ただ中務卿なかつかさきょうの大伴旅人殿と親しく、そろそろ遣唐使が派遣される頃で誰かの参考になるだろうと日記を預けていたそうだ。同じ中務省で働いているから、船守からとうに話を聞いていると思ったんだが。」

「初耳です。」

「父には、兄としてきつく叱っておこう。」

「宿奈麻呂の兄上、ひどいですよ! 仲麻呂、旅人殿に聞きたいことがあればいつでも言いなさい。今度は責任をもって伝えよう。」

「ありがとうございます、父上、伯父上。」

仲麻呂は父にわざと冷たい視線を送り、伯父には心を込めて頭を下げた。それを見て、従兄弟の子島がにやっと笑った。

「さて安麻呂、私はそろそろお暇させていただく。明日の朝も早いんだ。虫麻呂、そなたの母上に騒いで悪かったと伝えてくれ。」

そう言うと、中納言阿倍宿奈麻呂は兄弟たちに礼儀正しく一礼をした。駿河と子島も立ち上がった。

「最近、朝早くに小さなお客さんが訪ねてくるから、ゆっくり朝寝坊もできないんだ。」

子島が困ったような表情を浮かべて見せた。

「小さなお客さん?」

虫麻呂が従兄弟に尋ねる。部屋を退室しようとしていた宿奈麻呂が後ろを振り返って言った。

藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ殿の御子の仲麻呂なかまろという少年だ。算術に興味を持ったらしく、御父上を質問攻めにしているらしい。武智麻呂むちまろ殿が困っているのを見かねて、御父上の不比等ふひと殿が『孫に算術の話をしてやってくれ』と頼んできたんだ。」

「父上はただの算術好きだから、こういう話をすぐ引き受けちゃうんだ。おかげでこっちは……。」

「子島、明日は早起きして武智麻呂むちまろ殿のご子息と一緒に勉強でもしたらどうだ?」

「えっ、父上!」

従兄弟の気の抜けた悲鳴を聞いて笑いながら、船守と仲麻呂もゆっくりと立ち上がって安麻呂に一礼をすると、部屋を後にした。



 

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


皆様も重々承知だと思いますが、吉備真備や阿倍仲麻呂の幼少期についてはわからないことばかりなので、ほぼ推測です。調べられる限りは調べていますが、基本的には創作なので、気を付けてください。

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