あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢へもう一度姿を露わすであろう?【日本】
タイトルは、芥川龍之介の『桃太郎』の一節からです。
ある日の暮方の事である。一人の青年が、平城京の羅城門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下では、色とりどりの服に身を包んだ大勢の人が雨の中を行きかっていた。丹塗の美しい大きな円柱に、蟋蟀が人間に踏まれまいと一匹とまっている。蟋蟀に己の頼りない姿を重ねながら、青年は柱をじいっと見つめた。
色のない薄汚れた白っぽい服を着た農民の集団がぞろぞろと門を通り抜ける。話しぶりからして、都の近くの田畑を耕す者たちらしい。市場で物を売り買いした帰りらしく、慣れた様子でいくつもの都の地名をわめいていた。
その中の薄汚れた農民の青年が、門の下で蟋蟀のようにじっとしている色のついた質のいい服を着た青年をちらりと見た。蟋蟀の青年は思わず睨み返す。不安と恐怖にまみれた怒りが黒い瞳の中できっと光った。農民の青年は怪訝そうな顔をして仲間の方に戻っていく。
蟋蟀の青年は、右の頬に出来た大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。雨は、羅城門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍先に、重たくうす暗い雲を支えている。
21歳の青年、下道真備は、蟋蟀と共に平城京の羅城門から雨粒を見つめて立ち尽くしていた。
どこまでも続く甍の美しい平城京に、下道真備が住むようになったのはわずか半年ほど前である。理由は簡単だ。この青年は、大和の人間ではない。故郷はここからずっと西の、真金吹く吉備国である。
真備の氏は下道で姓は朝臣。先祖は、崇神帝の時に四道将軍として瀬戸内海のあたりを平定した皇族の吉備津彦命と稚武彦命の兄弟だ。彼らの鬼退治の話は「桃太郎」という名で令和の世にも知られているのだから驚きだ。
吉備津彦命と稚武彦命の兄弟の子孫たちは、その後も吉備国造として広大で豊かな吉備の国を支配したのだという。その話を証明するかのように、先祖の墓であるという巨大な塚が故郷のあちこちに残り、幼い真備の遊び場にもなっていた。
最も、先祖たちは大和の大王にかなり抗ったらしい。吉備前津屋、吉備田狭、それから吉備稚媛を母とする星川稚宮皇子などの名前が今でも語り継がれている。
だが律令も整った今、大和の天皇に逆らおうとする者などいない。吉備の一族も欅の木の梢のように広がって別れていき、今では「吉備津彦命の子孫」を名乗る様々な氏族のぼんやりとした集合体でしかない。共通するのは先祖の名前と、吉備を故郷としていることくらいだろう。
下道真備の父の下道圀勝は、吉備の国と大和の飛鳥の都を行き来しながら暮らしていた。都では帝を守る兵士の1人として働き、右衛士少尉にまで昇りつめた。吉備の国では下道郡を支配する一族につらなる者として吉備の人々に慕われていた。
飛鳥の都に官人として仕えていた父は、大和国とのつながりの深い豪族の娘と出会って妻とした。それが下道真備の母である。
母の遠い先祖は、海の神である綿積豊玉彦命である。その海神の子孫である椎根津彦は、吉備国の速吸門という湾岸で彦火火出見という青年に出会った。彼こそが土地を求めて東へ向かっていた神武天皇その人である。その縁がきっかけで、椎根津彦は倭国造に任じられ、兄弟たちと共に大和国の豪族となった。
母の氏族もまた、欅の木の梢のように広がって、いくつもの氏族に別れていき、「海神の子孫」で「大和国を故郷と呼ぶ」様々な氏族のぼんやりした集合体といったところだ。長い時間を経て、もうすでに朝廷での実権は皆無に等しいが、下級官人の端くれとして生き続けている。
さて、倭国造の子孫たちは、吉備国とも深いゆかりを持つ。そもそも遠い先祖が吉備国の生まれであるし、子孫たちの中には大和国から吉備国に移り住んだ者もいた。
海で働く部民たちを率いた吉備海部の氏族たちがまさにそうである。彼らはかつて”速吸門”と呼ばれた児島湾に移り住んだ。先祖がかつて住み、大王家に仕えるきっかけとなった場所に、長い時を経て子孫が戻ってきたのである。
この時代の人々の記録はあまり詳しく残っていないが、倭国造の子孫にあたる豪族たちは吉備国を「故郷」としてとらえ、特別な思いをいだいていたらしい。
余談だが、吉備海部の氏族たちはその後、瀬戸内海を通り抜けて玄界灘を超え、朝鮮半島へ飛び出していった。
はるか昔の雄略帝の御代に生きた吉備海部赤尾は、吉備上道弟君と共に、朝鮮半島の新羅を討つよう命じられた。吉備上道弟君の父は吉備上道田狭。あの星川皇子の乱の登場人物たちである。
雄略帝といえば、”大悪天皇”とも”有徳天皇”とも呼ばれる、非常に力の強い帝であった。ゆえに、多くの恨みを買っていた。吉備国を強大な力で支配する吉備臣の氏族たちも、この帝を敬いつつも恨んでいた。
特に吉備上道田狭は一人の男として雄略帝を心の底から憎んでいた。ある日、宮中で妻の稚媛の美貌を友人に語っていたところ、それ偶然を聞きつけた雄略帝に妻を奪われたからだ。田狭が帝の命令で朝鮮半島の任那に赴いていた最中の出来事であった。
そこで田狭は復讐のために新羅の国と手を組もうと企んだ。ちょうどその時に同郷の吉備海部赤尾と息子の吉備上道弟君に新羅征討の命が下ったのである。田狭は息子と合流し、雄略帝に反旗を翻そうと身構えた。
だが、稚媛の夫と息子による復讐は果たされなかった。彼らの裏切りを知った弟君の妻が、大和朝廷に密告してしまったからである。弟君は妻の手にかかって死に、田狭は朝鮮半島のどこかに消えていったという。
さて残された稚媛も黙ってはいない。雄略帝の死後、田狭と引き離された後に雄略帝との間に生んだ星川稚宮皇子に皇位を奪うよう反乱をそそのかし、吉備本国も田狭の妻を救おうと援軍を送った。だが、最後は稚媛も星川稚宮皇子も、大王家に仕える武人の大伴室屋に殺された。
以来、吉備国は大和朝廷から厳しい目を向けられるようになり、大王に匹敵するほどの力を徐々に削がれていくようになったのだった。この真金吹く吉備国が大和朝廷に対抗しうる独立した勢力として最後に咲き誇って見せた時代を、吉備海部赤尾は生きていたのだ。
この翌年、つまり西暦464年、雄略帝が即位してから8年目で、神武帝の即位から1124年経った年に、いよいよ倭国は朝鮮半島に軍隊を送り込んだ。
倭王の武そして獲加多支鹵大王こと雄略帝は、家臣の膳斑鳩を中国大陸の南に栄えていた宋の国に送り、新羅が倭国に従わないことを責め立てさせた。これを宣戦布告と受け取った新羅の慈悲王は、同じ朝鮮半島の高句麗に助けを求めた。
早速高句麗の兵士が新羅に大勢やってきて、戦いの準備を始める。その高句麗の兵士の1人が急遽、高句麗本国に戻ることになり、慌てて1人の新羅人を従者に選んだ。
ところが、この高句麗の兵士が「新羅はもうすぐ高句麗の領土になる」と口を滑らしたのだ。
高句麗の裏切りを知った新羅人の従者は、何としてもこの危機を故国に知らせようと必死に考えながら馬を引いた。しばらく歩くと、この従者は腹痛に悩んでいるふりをし始めた。腹を抱えてゆっくりふらふらと歩いていく。やがて一行からも遅れ、高句麗の兵士の姿が見えなくなった。その瞬間、この新羅人の従者は決死の覚悟で故国に引き返し、「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」と叫んだ。
鶏は、新羅の言葉で高句麗を例える時によく使われていたのだ。この言葉を聞いた新羅の人々は救援に見せかけて侵略しようとしてきた高句麗の兵士を一人残らず殺してしまった。
はずだった。だが、たった1人逃げおおせた高句麗人の兵士が、新羅での惨状を故国に伝えた。今度は高句麗王の長寿王が怒り狂う番だ。高句麗はすぐさま軍隊を朝鮮半島南部の筑足流城に集めると、兵士たちによる宴会を始めた。敵国との最前線で、踊ったり歌ったりしている高句麗の兵士たちは不思議と恐ろしげに見え、新羅の兵士たちは眺めているばかりで攻め込めない。
そこで、新羅は今度は任那に援軍を求めた。任那は海の向こうの倭国とのつながりが深く、要するに敵であったはずの倭国に援軍を依頼したも同然である。
最も、今も昔も東アジアの国際情勢は複雑怪奇で、手のひら返しも裏切りもよくあることである。隣の国である以上、全くかかわりを持たないわけにはいかなかったし、先祖から受け継がれた愛憎入り混じったどろどろとした感情を互いに抱え続けている。助けを求めたい気持ちも、助けてやりたい気持ちも、殺してやりたい気持ちも、全部本物であった。きっと東の果ての豊かな風の恵みをたっぷり受けるこの地域に住む人々は、未来永劫こういう相反する複雑な気持ちと向き合っていく運命なのだろうと、私は勝手に思い込んでいる。遣唐使の停止を提言したのも、それなのに遣唐使について語ろうとしているのも、私のそういう祈りから出た行動なのかもしれない。
さて、新羅から救援を求められた倭国は、嬉々として朝鮮半島に軍隊を送った。これで「新羅を助ける倭国の方が、地位が高い」ということを証明することができるからだ。膳斑鳩、吉備下道小梨、難波吉士赤目子が軍隊を率いて筑足流城に向かい、わざと撤退するふりをして高句麗の軍隊を誘い出し、奇襲作戦を仕掛けたのだという。
吉備下道小梨にとっては、同族の田狭と弟君らによる”吉備国の反乱”で地に落ちた大和朝廷からの信用をなんとか回復させようと必死の戦いになったのだという。倭国造の血を引くが吉備国を故郷とする吉備海部赤尾がこの戦いでどのように活躍したのかは、残念ながら記録に残っていない。
吉備海部の氏族からは、吉備海部難波という男も生まれている。彼は高句麗から訪れた使節を高句麗に送り届ける役目を負ったのだが、日本海の荒波に恐れをなして、使節たちを海に放り投げてしまった。
難波は悲しげな顔で朝廷に戻り、「大きな鯨に船を壊され、命からがら戻ってきた」と嘘の報告をして見せた。
当然、敏達帝もおかしいと気づき、加えて高句麗から施設の安否を問う使いが訪れたため、難波は厳しく罰せられたのだという。
なお、この敏達帝の朝廷には、大連の物部守屋と大臣の蘇我馬子がおり、後宮には皇后として後の推古女帝が控えており、飛鳥の都では厩戸の前で生まれた聖徳太子が海の向こうの新たな知識に目を輝かせていた。倭国が”日本”に変わる瞬間が目前まで迫っていた時代であった。
さて、吉備海部の氏族の立場は苦しくなった。だが朝廷は朝鮮半島への影響力を強めることを悲願としている。そのためには、瀬戸内海を通じて朝鮮半島に結びつきを持つ吉備の人々の力が必要であった。吉備海部羽嶋は、そういう氏族と朝廷の期待を一身に受けて朝鮮半島の百済に向かった。百済の王に仕えていた日羅を帰国させるためである。日羅の父は九州の火国出身で、朝鮮半島で活躍した大伴金村に仕えた火葦北阿利斯登と言う武人だった。日羅は非常に優秀な人物で、百済王がなかなか手放さないのを連れ帰って来いというのが羽嶋の任務であった。
なお、日羅は帰国後、吉備でもてなされた後に向かった飛鳥の都で、一人の優秀な皇子に出会い、朝鮮半島の進んだ知識を教えたという。その皇子の名が聖徳太子であることは、誰でも想像できるだろう。
余談が過ぎてしまったが、後に唐の長安でも日本の平城京でも名をとどろかせた吉備真備の生い立ちを語るうえで、真金吹く吉備国を故郷とする人々の話をしておきたかったのだ。
前述のとおり、倭国造の子孫にあたる豪族たちは吉備国を「故郷」としてとらえ、特別な思いをいだいていたらしい。
そんなこともあり、大和国の豪族の娘と吉備国の豪族の息子の結婚は当たり前のように周囲に祝福され、ある程度生活が落ち着くと母は吉備国に移り住んだ。真備の両親はその後も、大和国の母の実家と吉備国の父の実家を行き来しながら暮らしている。
だが、幼い子供に長い道のりを行き来させるのは危険だ。2人の長男の真備は、吉備国の祖父の家で幼少期を過ごし、飛鳥の都から土産物をどっさり抱えて帰ってくる父を待ち望む日々を送った。兄弟の乙吉備、直事、廣も共に吉備道中国で育った。
母の身長を追い越したくらいから、朝廷で働くために平城京に向かう父や実家の大和国の祭祀に参加する母と共に何度か上京し、平城京の羅城門をくぐった。どこまでも続く甍の美しさに言葉を失ったことを、真備は今でも鮮明に覚えている。
だが、この平城京に実際に住むようになったのは20歳を過ぎてからだ。半年ほど暮らしてある程度の道は分かるようになったし、知り合いもそれなりに増えた。それでも通りですれ違う艶やかな都の人々が「吉備の田舎者が歩いている」と噂しているように聞こえて、時折たまらなく不安になる。今日もそれで、南のはずれの羅城門まで来てしまったのだ。
今日の午前中は大学に顔を出していくつかの書物に目を通した。大学というのは朝廷に仕える官僚を育てるための教育機関で、主に貴族や下級官人の若者が通う。幼いころだった優秀だった真備は、吉備や大和の親族や父の同僚たちから勧められ、大学の一員となった。
そしてつい先日、進士試の試験を受けたばかりだ。進士試は人事を司る式部省が行う官吏登用試験で、『文選』や『爾雅』に加えて時事問題を踏まえた文章なども出題される非常に難しい試験である。そのくせ、国家戦略を踏まえた出題の秀才試や儒学に関する知識を問う明経試に比べると、合格しても得られる官位が低く、あまり人気のない試験だ。
本当であれば真備も秀才試に挑戦したいところではあった。だが、血走った眼で勉学に励む大学の先輩を差し置いて田舎者が受験したいと言えなかった。朝早くから夜遅くまで分厚い書物にかじりつき、何度も解答を書きなぐって真っ黒になった筆と手を呆然と眺め、疲れ果てて急に気が狂ったように泣きじゃくったり笑い転げたりする大学生たちを目の当たりにし、怖気ついたというのが正直なところだ。
そんなこともあり、真備はほとんど注目されない進士試を受験することにした。試験の雰囲気が分かって、今後の勉学の励みになればいいと思っていたのだ。ちなみに、進士試の試験会場にいたのは真備を入れて3人だけだった。
午前中は書物を開いて有名な詩をいくつか書き写して一通り勉学に励んだ後、午後は弟たちへの土産物でも探そうと平城京の市場を歩き回っていたのだ。だが、また道行く人が自分を笑っているように感じていたたまれなくなった。人込みが辛くなって、気が付くと朱雀大路の南に足を向けていた。
羅城門から外に広がる水田や草原をぼんやり眺めて考え事をしていると、どこからから雨雲が集まって雨が降り出した。降り出した雨に慌てふためいて走ってゆく都の人々を見て、真備の胸の中にあった怒りとも恐怖とも名付けられそうなむかむかした感情はすっと消えていった。先ほどまで雨に打たれてセンチメンタルな想いに浸りながら朱雀大路を歩いて帰ろうと思っていたが、今度は雨の中を歩くのが嫌になってしまった。
そういうわけで、下道真備は、平城京の羅城門の下で雨やみを待っていたのだった。
参考文献:
芥川龍之介『羅生門』1915年