あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり【日本】
タイトルは、万葉集の小野老の作品です。
小野老は、聖徳太子の命で海を渡った遣隋使の小野妹子の子孫にあたります。
時は、霊亀2年、開元4年、そして西暦716年。いよいよ、私が書こうとした遣唐使たちの物語が大きく動き出す時である。
神武天皇が即位してから1376年の月日が経っていた。当時の天皇は、元正天皇である。日本で5人目の女帝であった。
彼女の真の名は氷高皇女という。
父は草壁皇子。天武帝と持統女帝の正統なる後継者を父とする、誇り高き血筋の女性だ。そして、大宝の世を治めた若き文武帝の姉にあたる。
母の阿閇皇女もまた女帝として即位する運命を生き抜いた女性だ。彼女の先代にあたる元明天皇である。元明女帝は天智帝の皇女であった。飛鳥の藤原京から新たな平城京への遷都、日本各地の記録である『風土記』編纂の詔勅、そして『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造を行うなど、”奈良時代”と呼ばれる時代を作り上げた女帝であった。
彼女の娘である元正女帝も、天智帝と天武帝の双方の血を引く、重要な女性であった。
また母方の曾祖父は、中大兄皇子や中臣鎌足と共に乙巳の変に加わりながら、その後盟友たちに消された蘇我倉山田石川麻呂で、元正女帝は蘇我の氏族の血も引いていた。
石川麻呂の娘たちは中大兄皇子の妃となっていて、蘇我の血を引く皇族は少なくない。
中大兄皇子こと天智帝に嫁いだ蘇我遠智娘は、大田皇女を生んでいる。後に大田皇女は天武帝に嫁ぎ、伊勢斎宮となった大来皇女と、血筋も才能もあったがために謀反の罪を擦り付けられて自害して果てた大津皇子の母となった。突然命を奪われた大津皇子の絶望や、弟の命を救えなかった大来皇女の悲しみは、後に大伴家持の万葉集に残されて、今に伝わることになった。
また、蘇我遠智娘のもう1人の娘である鸕野讚良皇女こそ、後の持統女帝である。
石川麻呂のもう一人の娘である蘇我姪娘も天智帝に嫁ぎ、御名部皇女の母となった。御名部皇女は、天武帝の長男として飛鳥の宮廷を長くに渡ってまとめあげた高市皇子の妃となり、長屋王を生んでいる。この御名部皇女の妹が、草壁皇子に嫁いだ阿閇皇女こと元明天皇なのだ。
この阿閇皇女と草壁皇子との間に生まれたのが、氷高皇女こと元正天皇、珂瑠皇子こと文武天皇、そして末娘の吉備内親王である。吉備内親王は長屋王の正妃となっており、長屋王と吉備内親王との間に生まれた子どもたちは、早くも天皇の孫として丁重に扱われ、将来を期待されていた。
要するに、天武帝と持統女帝の血を引く天皇たちによる平城京の時代の皇族たち、とくに女性たちは、蘇我の血を介して不思議なつながりを持ち続けていたのだった。
慶雲4年、西暦707年。若き文武帝が亡くなった。大宝律令が完成した夜に、飛鳥や長安の人々が上弦の月を見上げてからわずか6年後のことであった。
当時、飛鳥の宮廷の実権を握っていたのは藤原不比等である。彼の娘である藤原宮子が生んだ首皇子が将来の天皇であることは誰の目にも明らかであった。
ところが、藤原氏の血をひく首皇子はまだ6歳の子供でしかなかった。飛鳥の宮廷には、未だ血筋ではなく実力で皇位を継承すべきだという古代の考えが残っている。たった6歳の天皇が生きていける宮廷ではなかった。そこで若くして亡くなった文武帝の母が元明女帝として即位、さらに彼女から娘の元正女帝に譲位されて今に至っていた。
元正女帝と藤原不比等が支配する平城京の幅の広い通りには、数多の人間がうごめいていた。
貴族たちや彼らに仕える者たちの色とりどりの衣装が揺らめいたと思えば、大きな荷物を担いで、大きな声をあげながら進んでいく農民たちの薄汚れた服が力強く揺れる。砂埃の混ざった春の風のせいで、平城京の風景は、まるで春の夜の夢の中のようにぼんやりと温かい何かに包まれていた
まだ春の名残が残る風の中を、18歳の阿倍仲麻呂が駆け抜けるように歩いていた。
「俺はやったぞ。選ばれたんだ。」
人生を変える知らせを受けた青年は、知らず知らずのうちに心のうちの声を外に出していた。彼にとっては、まさに天変地異のごとく重大な出来事であった。だが、その青年の独り言など誰も気に留めない。それほど多くの人が通りを歩いていたのだ。
通りをしばらく歩いていくと、中納言の阿倍宿奈麻呂の邸にたどり着いた。門のあたりで鍋を洗っていた家人たちの中の1人が、仲麻呂の姿を見て慌てて立ち上がり、どこかへ走り去っていった。大方、家の主に甥の来訪を伝えに言ったのだろう。
阿倍宿奈麻呂は、阿倍仲麻呂青年の伯父にあたる。彼は後将軍や筑紫大宰帥を歴任した阿倍比羅夫の嫡男で、今や阿部氏の氏上として一族をまとめながら、中納言として政治の中枢に携わっていた。
宿奈麻呂は幼いころから算術が得意で、宮殿や寺院を建てたり、国家の重要な儀式を行ったりするときに、必要な経費をすばやく洗い出して実行に移す、経営者としての手腕が高く賞賛されていた。この平城京も阿倍宿奈麻呂と多治比池守が造り上げたと言っても過言ではないくらいだ。
「仲麻呂じゃないか。どうしたんだ?」
阿倍仲麻呂が邸の前で息を整えていると、家人に呼ばれて門のところまで下りてきた従兄弟の阿部子島が顔をのぞかせた。
「まぁ、入れよ。父上と兄上はまだ朝廷から戻ってない。」
「いや、伯父上でなくてもいい。子島、お前でいい。」
「なんだよ、急に。」
興奮で支離滅裂な言葉を並べる従兄弟の姿に、阿部子島は怪訝そうな顔をした。
「聞いてくれ。今度の遣唐使に選ばれたんだ。遣唐留学生だ。」
阿部子島は、言葉を失って立ち尽くした。
遣唐使に選ばれるということが、どれほど人間の運命を狂わせるのか、この時代の人は誰もが知っていた。子島の脳裏にも、海の底に消えた人々や、海の向こうの国から帰れなかった人々の名前が咄嗟に何人も浮かんだ。一瞬、従兄弟の名をそこに書き加えそうになって、阿部子島は言葉を失った。だが目の前の、いつもおとなしい従兄弟は、喜びに興奮しきった様子でこちらを見ていた。
「さっき、垂水広人先生の邸に朝廷からの使いの人が来たんだ。唐への留学を目指す人があすこにはたくさん通っているから、きっとここに知らせを送った方が確実に早く伝わると思ったんだろう。朝廷も気が回るね。そこに僕の名前もあった。」
「そ、そうか。」
「垂水広人先生のことは知ってるよね? この前の、って言ってももう10年以上も前だけど、粟田真人殿が率いた遣唐使の通訳として唐に渡ったお方で、今は朝廷に仕える合間に、唐の言葉や詩文を教えてくださっているんだ。」
「垂水先生のことは、俺も知っているよ、仲麻呂。小さい頃は一緒に通ったじゃないか。」
阿部子島はそう言って幼いころの自分たちを思い出した。
彼らの祖父の阿倍比羅夫は、北方で生きる蝦夷や粛慎といった民族と戦い、さらに海を渡って白村江の戦にも加わるなど、この日本の境界線で活躍した人物であった。そもそも阿部の氏族の先祖たちは、外国とのかかわりのある役割を任せられることが多い。要するに、異国の知識を使って朝廷に仕える一族であった。
そういうわけで、阿倍比羅夫の子供たちも、己の子供たちに漢文をはじめとする異国の知識を徹底的に身につけさせていた。
孫である阿部子島と阿倍仲麻呂も、幼いころから勉学に励むよう言われて育った。そして唐の国のことをより学べるよう、帰国したばかりの垂水広人の邸にたびたび通ったのだった。だが、阿部子島は漢詩文にも四書五経にも、そして異国そのものにもあまり興味を持てず、いつの間にか垂水広人の邸にもあまり顔を出さなくなった。優秀な兄や親戚もいるし自分は平凡な官人として生きていくのだろうとぼんやり考えている若者のひとり、それが阿部子島であった。
一方、阿倍仲麻呂は周囲の大人たちが驚くほど熱心に勉強に励み、すでに秀才と噂されていた。最近では、垂水広人の邸で一心不乱に漢籍を読みふけるだけでなく、垂水広人に代わって後輩たちに漢籍の解釈を教えたり、子供たちに唐の言葉の発音の仕方や漢字の書き方を教えてやったりしているらしい。
この春、遣唐使を16年ぶりに派遣するという話が平城京に広まってからというものの、若き秀才の阿倍仲麻呂が、遣唐留学生の筆頭として派遣されるのではないかという噂もまことしやかに囁かれていた。
そもそも今回の遣唐大使に選ばれたのが、仲麻呂の伯父の1人である阿倍安麻呂というのも影響しているだろう。必ずや優秀な甥を一行に加えるに違いないと人々は噂していた。最も、阿倍安麻呂は体が弱く、長い船旅にはとても耐えられないのではないかというのが阿部の氏族の人々の心配の種で、安麻呂の兄にあたる阿倍宿奈麻呂も毎晩ため息をついて酒を飲んでいるらしかった。
また、今回の遣唐押使に選ばれた多治比縣守の存在も大きい。彼は平城京造営の責任者であった多治比池守の弟で、同じく平城京造営に関わった阿倍宿奈麻呂とも関わりが深い。宿奈麻呂はかねてから甥が唐への留学を希望していることを知っていて、縣守に甥の希望をかなえてほしいと頼むことは十分にあり得た。
さらに前回の遣唐使の際に、粟田真人や山上憶良たちが阿倍比羅夫の子供たちを選ぼうとして叶わなかったという噂も拍車をかけた。宿奈麻呂、安麻呂、そして仲麻呂の父である船守も名前が挙がったが、様々な事情で選ばれず、粟田真人などは大変悔しがっていたらしい。ならば阿倍比羅夫の孫たちの中から選ばれるのではないかと、人々は噂していた。
「とにかく、話は分かった。」
阿部子島は従兄弟に向かってきっぱりと言った。
「父上と兄上には俺から伝えておくから、お前は自分の家の者たちにまずは報告しろ。弟だってまだ小さいだろ?」
「ああ、正直に言うと帯麻呂に何と説明したらいいのかわからないんだ。」
やはりまだ興奮を隠せない様子で、仲麻呂は幼い弟の名を口にした。
「せっかく留学できるなら、少しでも長く唐にいたい。でも日本からの遣唐使は20年に1度と決まっている。20年も離れ離れだ。」
「20年か……。俺たちは40歳くらいか? 」
「帯麻呂すら30歳くらいのオヤジだ。」
阿倍比羅夫の孫たちは、年を食った己の姿を想像して思わず噴き出した。2人の間を、春の風が吹き抜けていく。
「とりあえず、お前は自分の家に帰れ。」
「わかったよ、子島。ありがとうな。伯父上への伝言を頼む。」
そう言うなり、阿倍仲麻呂は矢のように飛び出していった。その踊るように足取りの従兄弟の姿を、阿倍子島は何とも言えない表情で見送っていた。
ここで霊亀2年、西暦716年に、真新しい平城宮で権力を握っていた者たちを紹介しよう。
まず母の元明上皇と娘の元正天皇がこの国の頂に立っている。そして、10代半ばの皇太子である首皇子が、祖母と伯母に守られながら成長しつつあった。
この頃、首皇子は同い年である藤原光明子と結婚し、仲睦まじいと評判であった。藤原不比等と県犬養三千代の娘である光明子は、きりっとした意志の強そうな顔立ちに、父や祖父譲りの聡明さも相まって、首皇子にとっては双子の姉のように頼れる女性であったらしい。
さらに、光明子の兄たちも妹の幼馴染にして夫である首皇子のことをやたらと可愛がっており、その血筋と立場ゆえに孤独な日々を送っていた首皇子にとっては実の兄弟のような存在であった。
不比等の長男の藤原武智麻呂は、すでに30代半ばとなり、藤原氏の嫡男として順調にさまざまな職を経験していた。特に若い頃から役人たちの教育環境の整備に熱心で、その姿は父の不比等や祖父の鎌足が知識と学問で天皇の右腕にのし上がったのによく似ていた。この年、文官の人事や教育を担う式部大輔への任官が決まっていて、早速、経書や史書を集めて準備に勤しんでいるらしく、ついこの間も首皇子は大量の書籍を笑顔の武智麻呂から受け取ったばかりだ。ちなみに、光明子はすでに2冊ほど読んで感想を兄に言ったらしいが、首皇子はまだ1冊も読み切れていなかった。
不比等の次男である藤原房前も30代半ばを迎えている。巡察使として東国各地の行政を監察し、北の蝦夷の征討などで功績を上げた。4兄弟の中で一番優秀なのはまだ若い首皇子でもわかるほどだった。持ち前の才能に加えて地方各地を実際に見て回った経験からか、話がとても上手で、目の前に東国の草原が広がっていると錯覚するほどで、首皇子は房前が語る東国の話を夢中になって聞いてしまうのだった。
不比等の三男である藤原馬養は22歳。天真爛漫で明るい性格で、誰とでも親しく話せる不思議な社交性を持つ人であった。2人の兄を持つ弟らしく、政治の駆け引きは兄に任せようと思ってのびのびと勉学に励んだ結果、祖父や父譲りの異国の知識を身に着け、父の権力も相まって今回の遣唐副使に選ばれることになり、準備に追われているらしい。首皇子と光明子にとっては、幼いころから一番近くで遊んでくれた兄のような存在で、面白い遊びも少し危険な遊びも、ぜんぶこの人から教わっていた。
不比等の四男である藤原麻呂は、21歳。まずは経験を積めと美濃介に選ばれて、今は美濃国に住んでいる。優秀な兄と姉に囲まれて育ったせいか、自分の人生をあきらめたようなため息をつく若者に育っていた。話も上手で、音楽にも造詣が深く、仕事も政治の駆け引きもそれなりにこなすことはできるのだが、本人があまり一生懸命に出世しようとしないので、父や兄たちはどうしたものかと頭を抱えているらしい。
また首皇子はこの頃、県犬養広刀自も夫人として迎え入れた。彼女は光明子とは真逆のどこか儚げな美しさのある女性で、手放したらそのまま消えてしまうのではないかと心配になるほど手放しがたい女性であった。光明子と広刀自は、同じ県犬養の血を引く親戚同士であり、それなりの交流はあるらしく、仲良く過ごしているらしい。
行政を司る太政官を統括する知太政官事の座は空席だった。
大宝律令が制定された後、その大宝律令に深くかかわった天武帝の子の忍壁皇子が、まだ若い文武帝を支えるべく知太政官事の座についた。彼の死後は、弟の穂積親王が継いでいたが、昨年、40代の若さで亡くなった。幸いなことに、元明上皇と元正天皇が二人とも精力的に政務に関わっているため、皇族の誰かを特別な地位につけなくてもよいだろうということになったのだ。
ということで、臣下の中で最高位の左大臣の座についていたのは、石上麻呂であった。
石上麻呂の人生も数奇なものである。彼は物部の氏族の者で、33歳の時に壬申の乱に巻き込まれた。彼は大友皇子の側に加勢し、大友皇子が自害するまで付き従ってから、大海人皇子に下った。そのことで逆に「忠誠を誓える者」と高く評価され、天武帝と持統帝の時代からずっと朝廷を支え続けてきた。
ただし、平城京に遷都される際に、石上麻呂は藤原京の保守管理のために飛鳥に取り残されるなど、最近はあまり活躍を見せなくなってきた。本人も年老いていることを自覚し「あとは若いものに任せる」と言っていたという。
その石上麻呂は、つい先日人々に惜しまれながら亡くなった。
よって、現時点の臣下の中で最高位なのは、右大臣の藤原不比等ということになる。
藤原不比等についてもはや説明することなどないだろう。天智帝の随一の忠臣であり親友でもあった中臣鎌足の嫡男にして、未来の天皇の義父。氏の名にもなった藤の花のごとく、皇室と絡み合って生き抜き、日本随一の廷臣の家であり続ける藤原氏の始祖。
当時の不比等は、唐から戻ってきた粟田真人らの提案を受け、早くも己が関わった大宝律令の改定に乗り出していた。理想に飾られた大宝律令から、より日本の実情に合った新たな律令を作るためだ。だが、この改革はなかなか進まず、さすがの不比等でももどかしさを感じるようになっていた。
不比等の下には、中納言として粟田真人、阿倍宿奈麻呂、巨勢麻呂が控えている。
この物語の中で未だ語られていないのは、巨勢麻呂だけだ。彼の第8代の孝元天皇の孫であり伝説の忠臣として知られる武内宿禰の子孫である巨勢の氏族の1人である。朝鮮半島の国々との外交や戦いで活躍した者が多い氏族で、麻呂もまた越後や陸奥の蝦夷の討伐を任され陸奥鎮東将軍を歴任するなど、日本という国の境界線で活躍した男であった。
この時期、朝廷はようやく九州の隼人と呼ばれる民族を押さえつけ、北方の蝦夷との戦いも未だ続いていた。国内のあちこちには海の向こうから渡来してきた人々の子孫が、独自の言葉や文化を守りながら生きており、国の境界線は後の時代の人には想像できないほど曖昧であった。
この時代の平城京を、阿倍仲麻呂青年はただ希望に胸を高鳴らせて駆け抜けていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。