流波將月去 潮水帶星來【唐】
「流波 月を将いて去り、潮水 星を帯びて来る」
隋の煬帝の春江花月夜という詩からとりました。
唐の長安の都では、ひとりの若者が上弦の月を眺めて、ため息をついていた。広大なユーラシア大陸を吹き抜けてきた風は、海の向こうの島国の風ほど湿り気を帯びてはいないが、乾いた暑さであたりを心地よく包んでいる。
時は大足元年、西暦701年。
ちょうど、遠く離れた日本では、山上憶良が赤子の泣き声を背に、飛鳥の藤原不比等の邸を後にしている時に、上弦の月を見上げていた頃だった。
この年、李隆基は16歳になった。若者は長安の宮廷の片隅で、頬のニキビを気にしながら欄干にもたれて上弦の月をぼんやりとみあげていた。
李隆基の父は、唐の第8代皇帝の睿宗である。だが、睿宗はすでに皇帝ではない。
睿宗の母、要するに李隆基の祖母が、そのたぐいまれなる叡智と残虐さを持って、則天大聖皇帝として自ら即位してしまったからである。祖母が即位して、早くも10年ほどが経とうとしていた。長い中国大陸の歴史の中でも前代未聞の出来事の連続であったが、建国の立役者だからと何もせずに威張っていた鮮卑族の血を引く貴族たちに代わって、厳格な科挙の試験で選ばれた優秀な官僚たちが政務に関わるようになり、大人たちが恐ろしげに語っていた未来予測よりもずっと平穏な日々が続いているというのが、まだ10代の隆基の感想だった。
李隆基の父祖は、当然のごとく皇帝の一族である。
唐の初代皇帝は、高祖こと李淵である。彼は五胡十六国の西涼の武昭王の末裔であると同時に、鮮卑族の血も引いていた。
漢が滅亡して以降、戦乱の時代となった華北には次から次へと遊牧民が侵入しており、彼らは長い時間をかけて漢民族の中に混ざっていった。そもそも華北を統一した北魏も鮮卑族の拓跋氏の国であったし、そのあとを継いだ隋もまた、鮮卑族の影響を色濃く受けていた。大草原から始まる鮮卑族の血は、北朝の中では名家の証であった。
李淵が生きた時代は、隋の第2代皇帝の煬帝が圧政を強いた時代でもあった。彼は大運河の建設や高句麗遠征といった大事業に着手したが、次第に豪勢な生活に溺れ、暴君と化していき、最後は度重なる反乱の中で国と共に黄泉へ渡った。
煬帝の人生をさらに悲惨なものにしたのは、彼自身が決して暗愚ではなかったということであった。
若いころ、父の楊堅によって隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には討伐軍の総帥として活躍した。匈奴の血を引く母の独孤伽羅が質素な生活に重きを置いていることを感じ取ればそれに従い、母の意に反して華奢な生活を送った兄を追い落として皇太子の座についた。
即位後は、女子供までもを動員して大運河を完成させた。非常に厳しい工事ではあったが、華北の黄河と江南の長江を結んだことで、漢の滅亡以来、分断の歴史を歩んできた中国大陸をひとつにまとめあげたことで、後の中華の繁栄の礎を築いたと言っても過言ではない。さらに、東西交易路のオアシスを支配する高昌に朝貢を求め、西のチベット高原に栄える吐谷渾、南のインドシナ半島に栄える林邑などに出兵し、隋の版図を拡大した。そして煬帝は、朝鮮半島の高句麗を次なる目標と定めた。
高句麗は、当時の東アジアでも大きな影響力を持つ国だった。貊と呼ばれる人々が漢の支配から自立し、魏晋南北朝時代の中国歴代王朝や夫余、靺鞨、百済、新羅、倭国など周辺諸国と攻防を繰り広げ、西暦5世紀には最盛期を迎えた。当時の日本列島の人々からは「こま」と呼ばれていたらしい。
この高句麗の運命を変えたのが、隋という大国そのものであった。
朝鮮半島の国々は、中国大陸と陸続きであるというただそれだけの理由で、常に存亡の危機に立たされていた。高句麗は国境を接する北朝の国々に対抗するために、中国の南朝にも使者を送り、友好関係を築いてきた。もし北朝の国が高句麗に攻め込もうものなら、南朝の国と挟み撃ちにしてやろうというのだ。その南朝の最後の王朝であった陳王朝が隋に滅ぼされたとき、高句麗の命運は尽きたと言っても過言ではないだろう。高句麗はすぐに隋に朝貢したが、いずれ己が滅ぼされることは予感していたに違いない。
とはいえ、高句麗も黙って滅びの時を待つ国ではなかった。隋のさらに北方で力を誇っていた遊牧民の突厥に使者を送り、洪水や農民反乱に苦しむ隋を巧みに翻弄していった。そのため、煬帝の高句麗遠征はついぞ成功しなかったばかりか、煬帝への不満を一段と高めることになってしまった。
そこで煬帝は、高句麗遠征を優位に進めるべく高句麗のさらに東方の国々に興味を持った。高句麗が突厥と結ぼうとしたように、隋もまた友好国を探していたのである。高句麗の脅威に震えながらも力をつけていた百済と新羅が早速これに乗った。
そして、海の向こうの小さな島国にも、この流れに乗ろうとした者たちがいた。それがあの聖徳太子と蘇我馬子である。仏教をはじめとする大陸の文化に強い関心を寄せ、海の向こうから渡ってくる渡来人たちと積極的に交流をして、海の向こうの情勢に詳しかった2人は、長年温めていた遣隋使の派遣に踏み切った。煬帝は、「日出處天子致書日沒處天子無恙」と対等な外交関係を望む小野妹子の態度には暴君らしく立腹したようだが、倭国との友好関係は高句麗遠征に欠かせないと判断し、裴世清を倭国に送った。裴世清は真新しい十二色の冠をそろえた役人たちを従える推古女帝に、煬帝の返事を伝えたという。
だが、煬帝は確実に滅びの道をたどっていた。その事実から逃れるかのように、煬帝は華奢な生活に溺れ、民衆の不満は一層高まっていった。李淵が息子の李世民と共に挙兵したのもこの頃である。
ある日、煬帝は眠れなかったので天を仰ぐと、帝星が勢いを失い、傍らにあった大星が妖しげな光を放っているのを見てしまったという。それを見た煬帝は己の運命を悟り、政治にも忠臣にも一切の関心を示さなくなった。最期は、末息子と共に家臣に真綿で首を絞められたという。じわじわと迫りくる苦しみの中で死んだ煬帝の遺骸の上に、李淵は唐を建国した。
実質的な唐王朝の創設者は、次男の太宗こと李世民である。
父を支えて群雄割拠を平定し、誰よりも唐の建国に貢献した李世民だが、彼は次男であった。皇太子の座は兄の李建成のものであった。建成は酒と女と狩猟が好きな陽気な人物だが、無能ではなかった。むしろ皇位継承をめぐって実の弟と血みどろの争いをしなければいけないことを覚悟できる男であった。建成は自らの兵を整えて弟の世民を討とうと計画を立てた。だが、武徳9年6月4日、西暦626年7月2日に、長安の宮中に参内した李建成は、玄武門で自らの守護兵と別れた瞬間、弟に買収された城門の兵士に一斉に斬りかかられ、命を落とした。こうして、次男の李世民が太宗として即位した。
太宗は、唐の領土を広げ、北方の突厥を従えさせた。また優秀な家臣たちの意見をよく聞いた。賦役や刑罰の軽減、三省六部制の整備、軍隊の強化にも努め、学問や文化も花開いた。彼の治世を、人々は”貞観の治”と呼んだ。あまりに平和な時代だったため、人々は自分の家に鍵をかけなくなったという。泥棒も人殺しもいなくなってしまったからだ。旅人は食料を持たずに旅に出るようになった。旅先で出会った人々が御馳走でもてなしてくれるからである。
ちなみに、この太宗の時代に日本からは最初の遣唐使が訪れている。舒明天皇の命令を受けて、犬上御田鍬に率いられた彼らは、貞観の繁栄を謳歌する長安を目の当たりにし、倭国に帰って唐の制度や文化を学ぶべきだと強く進言した。なお、この舒明天皇の息子が天智帝と天武帝である。
しかし太宗の後継者をめぐって、再び争いが起こった。足の悪い長男の李承乾は、太宗の寵愛を受ける弟の李泰を憎むようになっていた。彼らの対立を重く見た太宗は、2人の弟である李治に皇位を継がせることにした。
唐の第3代皇帝、高宗こと李治は病気がちで、母の兄であり父の忠臣でもあった長孫無忌に政治を任せていた。そんな彼の後宮には、一人の若く美し、才知にあふれた女性がいた。彼女の名は武照、後の武則天である。
武則天は門閥貴族の血を引く財産家の家の出身で、父から高度な教育を受け、周囲から愛されて育った。しかし12歳の時に父が死ぬと、親族から虐げられ、13歳で太宗の後宮に放り込まれた。美しく賢い照は、すぐに高い地位に昇りつめたが、彼女の聡明さを恐れた太宗によって次第に遠ざけられるようになってしまった。中国史上随一の名君ですら恐れるほど、彼女は聡明だったのだ。
宮廷の片隅に追いやられた武照は、同じく宮廷の片隅で生きてきた李治と出会った。
李治は武照との恋に落ちた。太宗の死後、武照は一度宮中を退いたが、後宮の争いに巻き込まれる形で再び戻った。数多の妃たちを次々と虐げ、31歳の時に武照は李治こと高宗の皇后となった。則天武后の誕生である。
その後、彼女は病気がちの高宗に代わって政治の実権を握ると、身分にかかわらず優秀な者を登用し、己に忠誠を誓う者で宮廷を固めた。則天武后すら名宰相だと重きを置いた狄仁傑、北方の契丹族の侵攻に際して迅速な政務処理を見せた姚崇、17歳にして科挙の最難関である進士に登第した宋璟、そして後に李隆基の人生を変える張説。優秀ながら身分の低かった彼らが国政の中枢に躍り出ることができたのは、則天武后の聡明さのおかげだった。
さらに、長年の課題であった朝鮮半島の平定にも乗り出した。新羅と組んで百済と高句麗を滅ぼし、海の向こうの倭国を白村江で破った。高宗が崩御すると、我が子の李顕が第4代皇帝の中宗として即位したが、中宗の愛妻である韋后の血縁者を要職に登用したことを口実に、娘の太平公主を使って中宗を廃位、韋后ともども都から追い出した。その弟の李旦が睿宗として擁立されたが、母に逆らうことなどできず、則天武后は引き続き政治の実権を握った。
そして天授元年、西暦690年、則天武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを則天大聖皇帝と称した。
李隆基は、確かに武則天の孫であり、唐の皇帝の一族である。だが、祖母の聡明であるが故の残酷さを鑑みれば、己の立場がいかに危ういものかを覚悟しなければならなかった。加えて、彼には慎ましくて音楽を愛する兄の李成器もいた。兄は誰からも愛される穏やかな人で、即位すれば必ずや名君になるだろうと、隆基は思っていた。要するに、李隆基が即位する可能性は限りなく低かった。
李隆基は再び上弦の月を見上げてため息をついた。
この世を生きるのだから、せめて生きていてよかったと思えるような一生を送りたい。そしてなるべくなら人に迷惑をかけず、唐の国を良くしていきたいと考えていた。だが、この宮廷の端くれで月を見上げることしかできない己に何ができるのだろうか。囲碁は好きだったが、この国には囲碁の名人が大勢いたし、琵琶を演奏するのも好きだったが、音楽では兄にかなわない。
「いっそのこと、皇帝陛下に願い出て異国に旅にでも出てみようか。」
隆基はぼんやりとつぶやいてみた。ただ風の音だけが、16歳の少年に返事を返した。
「相王の兄上、こちらにいたんですね。」
不意に声をかけられて、相王こと李隆基は後ろを振り向いた。10歳になる妹の李玉真だ。周囲からは玄玄と呼ばれている。最近は難しい字も書けるようになり、兄や姉たちに得意げに見せて回っていた。まだ無邪気なところもあるが、おとなしくて心優しい少女だ。
「玄玄、もう夜遅い。姉上のところで寝る支度をする時間だよ。」
隆基は玄玄の背丈に合わせてかがむと、優しく妹に声をかけた。
「叔母上が、兄上や姉上と一緒に食べなさいと茘枝の実をくださったの。早く食べたほうが美味しいって。」
「太平公主様が?」
「父上に御用があったみたい。」
「ふーん。」
隆基は、妹が抱えている駕籠の中を眺めた。
華南から届けられた茘枝が駕籠一杯に盛り付けられている。この甘くてみずみずしい果実は寒い地域では育たないので、長安の都では貴重なものだ。おそらく、華南から宮廷に献上されたものなのだろう。
「せっかくだから寧王の兄上とも呼ぼう。金仙も呼ぼうか。」
「ええ、そうしましょう、寧王の兄上と金仙の姉上を呼んでまいります。」
玉真は駕籠を抱えたまま、無邪気に走り去っていった。李隆基は、妹の後ろ姿を眺めながら、茘枝の送り主である太平公主の事を考えた。
太平公主は、高宗と則天武后の間に生まれた皇女である。両親ともに皇帝、兄もまた2人とも皇帝という中国史上たぐいまれない高貴な出自を誇る女性だ。母である則天武后の美貌と叡智、そして苛烈な残虐さを誰よりも受け継いだ娘でもある。 武則天はこの娘を誰よりも愛し、自分の傍に置いてあれこれと相談しているらしい。
苛烈な残虐さを持つ女性ではあったが、弟の家族には何かと優しい笑顔を向けてくれる。それがいつか裏切られることは覚悟していたが、その笑顔が偽りのものではないことも甥として信じていた。
「相王の兄上! 寧王の兄上と金仙の姉上を呼んでまいりました!」
玉真に引きずられるように、2人の若者が庭先に現れた。
「玄玄、わざわざ呼んでくれてくれてありがとう。」
22歳の長兄の李成器が困ったように笑いながら、得意げな妹に礼を言った。それから、弟の隆基の耳元にそっと囁いた。
「恭はお預けを食らってご立腹だ。代わりに何とか機嫌をとってくれないか?」
「兄上。」
隆基は兄の福々しい顔を睨みつけてやった。温厚な兄夫婦は仲睦まじく、日が暮れれば夫婦でゆっくりと時間を過ごしているのは弟として重々承知だ。
「冗談だよ。妹は大切にしろって笑って送り出してくれた。」
「弟をからかうのはやめてくれませんか?」
「いや、だって面白いんだもん。かわいい弟と一緒にいるのは楽しいしさ。」
成器はそう言って隆基の頭をぽんぽんと撫でた。
「まっ、この季節の夜は長いしな。」
「兄上……!」
「寧王の兄上、玄玄の前で変なことをいうのはやめて。恭様にも失礼よ。」
妹の金仙が、わざと頬を膨らませて言った。最近は大人ぶっておしとやかにしているが、まだ子供だ。兄の言っている冗談の半分も分かっていないのだろう。成器は笑って妹の視線をかわすと、玉真の駕籠をのぞき込む。
「兄上、姉上、早く食べましょうよ!」
玉真にせかされて、3人は駕籠の中の茘枝を手に取った。隆基も皮をむいて、みずみずしい果実を口にする。茘枝が、妙に口の中に残った。
内史として政務を任せられている狄仁傑は、窓の外の上弦の月を見上げてため息をついた。
彼は、宮廷の片隅で女帝の孫たちが微笑ましく果実をほおばっていることなど、露ほども知らなかったし、ましてや海の向こうの飛鳥の都で山上憶良が同じ上弦の月を見上げながら家路についていることなど知るはずもなかった。
「お疲れですな、懐英殿。」
姚崇が書類から顔を上げてそっと声をかけた。宋璟と張説も黙ってうなずく。
「民からの上奏をきちんと読むのは、我々の務めだ。各々方、今一度気を引き締めよう。」
武則天の宮廷を支える廷臣たちが、寝る間も惜しんで民衆から集められた上奏文を読んでは議論をかわしてきた。皇帝に届くかもしれないというわずかな希望に駆られて、多くの人々が意見や質問を紙に書いて送りつけてくる。すべてを皇帝が読むことができないが、せめて皇帝に近い自分たちだけでも読もうという決意で、彼らは読み続けていた。
「この、意見は面白いな。ちょっと読んでみてくれ。」
張説が見せた文章を、3人が覗き込んだ。
「西域の商人からか。」
「西の果ての拂菻で、鼻の削がれて追放された王が、突厥可薩部の一族と結んで再び玉座を狙っているという噂だ。西域の商人たちが、投資するか否か悩んでいるらしい。」
「しかし、拂菻は体に不自由のある者は王にはなれないのだろう?」
「最果ての国だからな、よくわからないというのが正直なところだ。」
拂菻というのは、波斯国のさらに西にあるという大国で、かつて西域都護の班超の部下の甘英が行こうとした大秦の後継にあたる国らしい。「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする」というから驚きだ。時折西の最果てから使者を送ってきていたが、最近は西域のあたりに拂菻出身の商人がよく絹や調度品を仕入れに来る他、長安の都にも拂菻人がよく訪れていた。やや赤らんだ白い肌に、青や緑の不思議な色の大きな瞳で、景教によく似た神を信じる、話の上手な者たちだ。自分たちの国のことは”ローマ”と呼んでいるらしいが、波斯国の者曰く、大昔の大秦とは神も政治の仕組みも話す言葉も変わってしまい、”ローマ”という名前しか受け継いでいないらしい。
ちなみに、波斯国の者は自分たちを”ペルシア”と呼んでいた。ここ百年程、回教という神の前での平等をうたう宗教が急速に広まってついに回教の国が現れるまでになり、何やら不思議な儀式する波斯国の者がこの長安にも大勢いた。
「それにしても、この商人の文章は読んでいて面白いな。言葉の選び方は乱暴だが、まるで詩でも読んでいるようだ。」
宋璟は、上奏文をじっくりと声に出して読みながら笑った。
「最後に、自分の息子が生まれたことを上手に読み込んでいるのもいいな。母君が太白の星の夢を見て身ごもったというのもめでたい。」
姚崇もにこやかに笑って頷いた。
「この赤子が、将来穏やかに生きられるような世であってほしいな。どんな子に育つのだろうか。」
狄仁傑が静かにうなずくと、宋璟は若い笑い声をあげた。
「大酒飲みになったり、諸国を放浪したり、はたまた父親譲りの文才で我々の同僚になるかもしれませんよ。」
4人はひときしり笑った。
彼らはまだ知らなかったが、この赤子が後の”詩仙”李白である。李白の父は西域を仕事場にする商人だったらしく、李白も旅の中で生まれた。そのため、李白本人も自分がどこで出生したのかよく知らないらしい。旅に生きた”詩仙”らしい話である。
「さぁ、次の上奏文に取り掛かるとしよう。」
4人はまた、書類の束を手に取って読み始めた。夜が更けていき、上弦の月がゆっくりと姿を消そうとしていく。昼間よりも涼しい夜風が部屋の中にまで入り込んで、灯火を揺らした。
「山西の地方官からの報告書に気になることがある。王処廉という男からだ。ある村で流行り病が起こったらしい。幸い、すぐに気づいて村の出入りを閉ざした上に、近く寺の僧たちから食料や薬草を送って助けたそうだから、大きな犠牲は出ていないようだ。」
姚崇が書類を指さしながら、同僚たちに声をかけた。
「皇帝陛下の、全土に仏門の寺を建てる計画がこんなところで役に立つとは。」
張説の言葉に、狄仁傑が眉をひそめた。
武則天は即位以降、仏教に深く帰依して各地に大寺院を建設させている。無論、寺院を建てるためには資金も労働力もそれなりにかかる。狄仁傑や姚崇はそれを度々諫めていたが、女帝にそれを受け入れてもらうのは難しい。
それほどに、武則天は聡明だったのだ。そして人よりもずっと聡明であるがゆえに、自分と肩を並べられない凡人に厳しい。”なぜ私でもできるのに、皆はできないのか?”と美しい顔をゆがませるのだ。それが、彼女の苛烈なまでの残酷さを生み出していた。
武則天とて、大寺院の建設に必要な資金や労働力のことは十二分に理解している。理解したうえで決断しているのだから、下手な暴君よりもずっと扱いが難しいと狄仁傑や姚崇は常々思っていた。
無論、それは宋璟や張説もよく理解していたが、彼らはまだ少し若かった。武則天の機嫌を損ねるような言葉を時折使ってしまう。今はまだ優秀であるからと見過ごされているが、いつどこで恨みを買うかわからない。狄仁傑も姚崇も、この優秀な同僚を失いたくないと心の底から思っていた。
「ほう、この男も最近息子が生まれたらしい。なんでも、赤子の母君が仏教を深く信じていて、寺に通っているから得られた情報らしいぞ。」
「そうか、西だけでなく、東でも子が生まれたのか。何はともあれ、めでたいな。」
狄仁傑が静かに微笑んだ。
やはり彼らはまだ知らないが、この赤子が”詩仏”王維である。後に詩人としてだけでなく、尚書右丞にまで昇りつめた官僚として、また絵にも優れ”南画の祖”とも呼ばれた高潔な男だ。
「しかし、最近は上奏文に我が子の自慢を書くのが流行っているのでしょうか? ああ、よかった。この楊玄琰と言う男の文には子どものことは書いていない。」
宋璟は笑いながら新しい上奏文に手を伸ばした。
彼らは思いもよらなかったが、この男こそ、あの傾国の美女である楊貴妃の父なのである。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
中国の人たちは本名ではなく字で呼び合うはずですが、字や称号が分からない人もいたので、雰囲気で呼び合ってもらっています。