人呼んで世界と言う古びた宿場は、 昼と夜との二色の休み場所だ【唐】
人呼んで世界と言う古びた宿場は、
昼と夜との二色の休み場所だ。
ジャムシードらの後裔はうたげに興じ、
バハラームらはまた墓に眠るのだ。
ウマル=ハイヤームの「ルバイヤート」の一節です。
「はっ……。」
息をのむ自分の声にたじろいで、彼女は目を覚ました。窓の戸板の隙間からこぼれ落ちた朝日が、まだらになって彼女の身体に降り注いでいる。ゆっくりと身体を起こした女は、薄い掛布団の下の己の身体の線があらわになっているのを見て目を背けた。翡翠のように美しい緑の瞳が憂いに沈む。
「私は、何も……していないわよね?」
自分を責めるように囁きながら、彼女は翡翠の瞳で己の身体を見つめる。
肌の色が透けるほどの薄いものではあったが、彼女はきちんと寝間着を着ていた。寝巻の袖の部分には乾いて少し茶色くなった血がこびりついている。腕をよく見ると、昨日にはなかったはずの傷が一筋ついていた。
女はゆっくりとあたりを見渡した。見ると、枕元に置かれた小さな水瓶の把手が欠けていて、こぼれた水が乾いたような跡が朝日に照らされていた。外れた把手の破片にもわずかに血がこびりついている。
どうやら、昨晩の自分が咄嗟に水瓶を割り、己の腕に傷をつけたらしい。
「正気に……戻れたのかしら……?」
翡翠の瞳の女は両腕を抱えながら、何かを確かめるように己に問いかけた。
それから悲しげな瞳で、自分の隣に寝かされている少年の顔を見つめた。
「カユ―マルス……いえ、宇航、ごめんね。」
彼女はしばらくじっと少年の顔を見つめた。
「なぜ、わたしたちは”諸王の王”の血をひいてしまったんだろうね。」
やがて彼女は、意を決したように立ち上がった。身体の線があらわになるほど薄い衣の上から、傍らの椅子に掛けてあった布を羽織る。寒さと恐怖と怒りで震える身体を落ち着けるように深呼吸すると、翡翠の瞳の女は少年を残して部屋を出て行った。
部屋を出たところに、屋敷に仕える老婆が座り込んでいた。老婆は翡翠の瞳の若い女に気づくと、うやうやしく礼をした。
「昨夜の儀式は失敗でございます。」
「……そう。」
翡翠の瞳の女は、老婆には目も合わせずに淡々と答えた。
「しかし、我々は善なるアフラ・マズダーの教えを、我らが”諸王の王”が必ず実現してくださると信じております。」
「……昨日の宴で振舞われた葡萄酒。あの中に、眠り薬でも入れたのね?」
「我々は、神のご意思に従ったまで。」
「強引すぎるわ。私はともかく、宇航はまだ12歳よ?」
「カユ―マルス様は、7歳ですぐに入門式の儀式を済ませられ、我らペルシア人をお導きくださっております。姉君として、あなた様もよくわかっておられましょう?」
翡翠の瞳の女は、肩にかけていた布を固く握りしめた。姉弟の背負ったものは、あまりにも重すぎる。
「最近親婚は、我らペルシアより追われし民にとって、アフラ・マズダーをお祀りするのと同じくらい大切な教えでございます。”諸王の王”の血をひく最後の姉弟が、その教えを捨てるなど、あってはならないこと。」
「……黙りなさい。気分が悪いわ。湯あみの支度を。」
「”礼”とは、さまざまな行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などのことだ。”仁”を具体的な行動としてあらわしたものでもある。」
阿倍仲麻呂の言葉にうなずきながら、羽栗吉麻呂は荷物を背負って足早に通りを歩いていく。
「しかし、仁とはいったい何なのですか?」
「おおっ、さすが吉麻呂。良いところに気づくね。」
こう会話に加わっていったのが、白猪真成であった。
「仁とは何か、という説明は簡単なようで難しい。『論語』でもいろんな言葉で説明されているんだ。」
「人を愛すること、という説明もあれば、克己復礼という説明もある。」
そうすました顔で、だがゆっくりと相手に伝わりやすいように口を開いたのが、吉備下道真備である。
「克己復礼?」
「己に克ち礼に復る。つまり、自らの強い意志で、欲望や邪心を抑えて礼儀を正しくすること、という意味だ。」
「うーん、では、仁と礼は、同じもの?」
「人を思いやるということは、ごく当たり前のことだろ? だが、いつでもどこでも、ましてや誰にでもおもいやりをもって人と過ごすなんてことは、弱っちい人間には難しい。だから具体的にこういう風に行動すりゃあいいんだぞ、っていうのを懇切丁寧にまとめたものが礼ってわけだ。」
やや不服そうに会話に加わった僧侶は、玄昉という。
彼らは皆、日本から海を渡って長安までやって来た遣唐留学生たちであった。ちなみに、全員で市場に出かけてあれこれ買い込み、それぞれ荷物を抱えて家路に向かう最中であった。
「なるほど。それで、守るべき礼を、いくつか簡単に教えてもらえませんか?」
遣唐留学生たちは、唐の言葉はもちろん、儒学や仏教などの難解な知識もすでに基礎基本は日本で学んでいる。唐では改めて最新の知識を学び、圧倒されている日々だが、小さな島国で学んだ若者たちの優秀さは、すでに長安では知れ渡っている。
だが、従者の1人である羽栗吉麻呂は、どうやら身分の低い階級出身らしく、なぜか唐の言葉は良く話せたが、儒学や仏教に関する知識はほとんどなかった。
先日、傷だらけになって帰ってきた件もあり、その際に吉麻呂の身体に「悪逆」という入墨が刻まれていることも、遣唐留学生たちは知った。「悪逆」とは、親兄弟を殺めた殺人犯に与えられる刑罰で、本来なら死罪になるほどの罪人であることを表している。
羽栗吉麻呂は、いったい何者なのか。
遣唐留学生たちは気になって仕方なかったが、口は少々悪いが仏に帰依した僧侶である玄昉に「他人の過去を必要以上に掘り返すことは慎むべきだ」と諭され、この件に関しては特に何も知らないふりを続けていた。
さて、この羽栗吉麻呂はどうやらきちんと勉強をしたことがないらしい。唐の言葉は問題なく話せるが、漢字は簡単なものしか読めないというありさまだった。だが、遣唐留学生の従者をする以上、様々な学問の基本的な知識は身につけておかないといけないと考えたようだ。最近では、仕事の合間に遣唐留学生たちにあれこれ尋ねるようになっていた。
遣唐留学生たちも、飲み込みの早い吉麻呂を新たな学友として温かく見守っていた。
「礼の源流となったのは、古の周代における礼で、これを宗法という。具体的に言うと、祖先祭祀、嫡長子相続、同姓不婚、とかかな。」
阿倍仲麻呂は、やや不安定なバランスを保っている荷物に気を取られながらも、完璧な説明をして見せた。
「日本だと同姓不婚は結構適当だよね。百済はもう少し厳しかったって聞いたことあるよ。」
白猪真成が、阿倍仲麻呂の荷物をそっと支えながら補足を入れた。
「細かな礼儀作法は、そのうち王摩詰殿にでも教えてもらおう。我々もまだ細かな礼儀作法は勉強中の身だからな。」
下道真備の言葉に、白猪真成が頷いた。
5人があれこれ話しながら角を曲がって大通りに差し掛かると、人込みにぶつかった。長安では人込みなどそれほど珍しくはないが、今日は妙に人々がざわめいている。冬の風に槐の木の枝が揺れていた。
「何かあったのかぁ?」
玄昉が不満そうに声を張り上げる。
「うわぁ、何だろう、あの服装?」
白猪真成が驚いた声を上げた。
大通りを埋め尽くすように、真っ白な異国風の服を着た人々がゆっくり歩いている。その姿を、長安の人々が物珍しげに眺めてはあれこれ噂していた。
「すみません、これはいったい何ですか?」
仲麻呂が、傍らで見物していた男に尋ねた。
「波斯人の葬列だとよ。こんなに大きな行列は久しぶりだ。大方、波斯の貴族の葬列か何かだろう。」
行列の中ほどでは不思議な音楽が演奏されていて、真っ白な服を着た人々の碧眼の瞳が涙にぬれている。その一角だけは、はるか西の波斯のようだった。
「おっ、もしかしてお前さんたちも異国人か?」
「……ええ、日本から来ました。なぜわかったのですか?」
「まぁ、服装とか髪型の雰囲気だな。おまけにこの地区は異国人が多く住む。それにさっき、そちらの僧侶が異国の言葉で話していた。」
「ええ、そうです。」
「それに、日本人はいつも書物を抱えているからな。長安の市場じゃ有名な話だよ。」
「それにしても、この長安にこれほど波斯人がいるとは、正直驚きました。」
真備が、すっかり驚いたように行列を見渡しながら会話に加わった。行列の人々が歌うように唱える不思議な言葉が、妙に心地よい。
「増える一方だよ。随分前に大食人に故郷を奪われてから、王族も貴族も大勢逃げ込んできた。皇帝陛下の保護の下、いつか故郷に戻る日を夢見て長安で暮らしているそうだ。」
「はぁ、そうなんですか。」
「もっとも、悪い奴らじゃあない。食べ物といい、酒といい、音楽といい、踊りといい、美しい文化を持っている人たちだ。それに商売も上手で、波斯人と付き合っていて損はない。それに何よりも女たちの見目麗しさといったら! 恋人にするにはぴったりだ。兄ちゃん、どうかね? ほら、あの行列の中の……。」
道端の男は大きな声で笑いながら、行列の中ほどで列を組んで歩いている女性たちを指さした。ヴェールを被っていて、顔は良く見えない。
だが、そのうちの1人の後姿に妙に見覚えがあった。
「愛玲……?」
羽栗吉麻呂が、思わず彼女の名前を口に出す。ヴェールの女が思わず振り返った。涙にぬれた翡翠のごとき緑色の瞳が驚きと安堵の色に染まる。
「吉麻呂?」
だが、愛玲はちょっと困ったように微笑んで見せると、行列に流されるように先へと進んでいってしまった。
「驚いたなぁ、吉麻呂ぉ?」
玄昉がにやりと笑って、吉麻呂の肩を叩いた。吉麻呂はわずかに顔を赤らめたが、それを隠すかのように背負った荷物で玄昉を小突いた。
「この葬列は、どこまで行くのですか?」
真備が、道端の男に尋ねる。男は顔をゆがめて、ひそひそ声で言葉を続けた。
「沈黙の塔だろう。」
「沈黙の塔?」
道端の男はため息をついて言葉を続けた。
「波斯人はいい奴らだが、俺はどうしても気に食わないところがある。奴らの信じている神々だ。」
「どのような神を信じているのですか?」
「なんでも火の神を崇めているらしく、神殿にはいつも火がともっていて、波斯人たちはあんな風に真っ白な服を着てその火にひれ伏す儀式をするんだ。でも、気持ち悪いのはここからだ。」
男はさらに声を潜めた。
「奴らは、人が死ぬと、その死体を鳥や獣に食わせるんだ。それが一番の供養だと考えている。気味が悪いだろう?」
遣唐留学生たちは、顔を見合わせた。
「では、この葬列はどこへ?」
「長安の城壁の外に、波斯人の死体置き場があるんだ。いつもハゲワシが飛んでいて、気味の悪いところだ。そこを沈黙の塔と言うらしい。そこで数日間、遺体を放置しておくと、あっという間に骨だけになる。それを崖の洞穴に納めるんだと。」
「……故郷で、似たような葬礼を行ったことがあります。最近は、土葬か火葬が一般的ですが。」
吉麻呂がぽつりと呟いた。だが、男にはあまり聞こえなかったらしい。吉麻呂の言葉には気にも留めずに、さらに声を潜めて言葉を続けた。
「おまけに波斯人は、実の兄弟や姉妹で結婚するんだ。あの美しい胡姫たちも、父親や兄弟と結婚することを選んでしまう。世の中色々なしきたりがあるのは頭では理解できるが、どうにも受け入れがたいよなぁ。」
遣唐留学生たちは、白い行列をじっと見つめた。
自分たちが異国人であるがゆえに、彼らもまた長安の異国人には驚きつつも、良き隣人として接していた。むしろこの長安では異国の言葉を使い、異国の文化に慣れ親しんでいることが一種のステータスとなっていたのだ。
無論、長安には多くのペルシア人が住んでいることも知っていたし、愛玲がペルシア系の女性であることも知っていた。だが、彼女たちがどのような人々なのかを、まだあまりよく理解できていない、というのが正直なところであった。
「なぁ、せっかくだから行ってみないか?」
行列を眺めながら、阿倍仲麻呂が呟いた。
「仲麻呂?」
白猪真成が少し驚いて、幼馴染の顔を見つめた。
「せっかくの機会だ。見聞を広めたい。波斯の人々が、どのように死者を弔うのか。それが日本や唐とどのように違うのか。実際に見てみないとわからないだろう?」
やや間をおいて、玄昉が口を開いた。
「拙僧も賛成だ。元々、波斯人の祆教の教えや儀式がどんなものか知りたかった。こりゃ、寺で坊さんたちから話を聞くより、ずっといい勉強になりそうだ。」
「彼らが許してくれるのであれば、儀式を見学するのも悪くない。」
下道真備も、少し悩んだようだが好奇心が勝ったらしい。
「吉麻呂、お前はどうする?」
阿倍仲麻呂が振り返って尋ねる。
羽栗吉麻呂は、ぼんやりと愛玲のことを考えていた。彼女の翡翠のごとき緑色の瞳は、時折、何かにおびえるように震えていた。
いや、おびえているのだろうか。吉麻呂は思わず息をのんだ。あの翡翠の瞳は、己にかけられた呪いを前になすすべもなく膝を折るしかない彼女の悲哀に濡れ光っているようだった。でもそれだけではない。何があろうと己の意志を貫き、運命を果たそうとする強さに輝いているようにも見えた。
何が彼女の瞳を震わせているのか。その触ったら崩れてしまうそうな美しさに、吉麻呂は心惹かれていたのだ。
あの翡翠の瞳が何を見ているのか、を知りたい。
「行きましょう。でもまずはこの荷物を屋敷に置いてからで、よろしいですか?」
遣唐留学生たちは、いっせいに頷くと、一目散に走り出した。
白い行列には、ペルシア人ではない人々も加わっていた。死者の友人や知り合いの唐人だろうか。それから見物の人々もあれよあれよと加わり、かなりの大人数になっていた。
さりげなく加わった遣唐留学生たちも、行列の人々から話を聞いて、死者がどのような人物であったかをなんとなく知ることができた。
今回亡くなったのは、ペルシア系の貴族の男なのだという。
貴族と言っても、生まれは長安だった。彼の両親は、故郷をイスラム教を信じるアラブ人のウマイヤ朝に奪われてからは、領地も地位も失い、かろうじて持ち出せた先祖の宝を心のよりどころに、長安ではささやかな商店を経営していたらしい。血筋や財力から、唐に在住するペルシア人たちに頼られる存在だったらしく、多くの波斯人が葬礼に参加したというわけだった。
彼は、気前のいい壮年の親父で、葡萄酒やペルシア風の料理を仲間に振舞うことを楽しみにしていたらしい。だがある日、急に体調を崩したかと思うと、家族もろくに看病できないほどあっという間に死んでしまったのだという。
「葬礼の儀式は、カユ―マルス様が滞りなく進めてくださいましたし、こんなに多くの方に見送られて、あの方も満足でしょう。」
真っ白な服を着たペルシア人の男は、遣唐留学生にゾロアスター教の儀式を簡単に説明しながら、そう呟いた。
「残念ながら、これより先は同胞のペルシア人だけしか入れないのです。皆さんはここでお待ちください。」
白い行列が、古びた塔の前で円形になった。その中央に、真っ白なヴェールを被った愛玲と真っ白な衣装を着た少年が立っている。遣唐留学生たちは、人込みの間からようやく死者を寝かせた台を見ることができた。
ちょうどその時、風が吹いて遺体を覆っていた白い布がわずかにめくれた。
「あっ……!」
羽栗吉麻呂が、小さな叫び声をあげた。
「あの、この後はどのような儀式をするのですか?」
吉麻呂は、思わず傍にいた人に尋ねた。白い衣装を着た男は、吉麻呂の顔を一瞥するとおもむろに口を開いた。
「塔に遺体を安置するんだ。カユ―マルス様が御自ら儀式を執り行う。それ以上は、残念だが異教徒には言えない。」
真っ白な服を着た拝火教徒たちが、遺体を担いで唐の中へと消えていく。彼らにはわからない不思議な呪文が唱えられ、祈りの言葉が風の中に消えていく。
彼らの後姿から、羽栗吉麻呂はそっと目を背けた。
その黒い瞳の中に、絶望と後悔の色が光ったのを、玄昉だけは見逃さなかった。




