大学の道は明徳を明らかにするにあり、民を親しむにあり、至善に止むるにあり。【唐】
題名は「大学」の一節からとりました。
「いやぁ、俺たち本当に今、長安にいるんだ……。」
「どうしたんだよ、仲麻呂。もう長安にたどり着いてからだいぶ経つぜ。」
ある夕暮れ時、日本から来た留学生の白猪真成は、幼馴染の阿倍仲麻呂を突っついた。
平城京でも異人や異人の血を引く者を見かけることはあった。しかし長安では、行きかう人の半分は”中国”の者ではない異国の人だ。そう信じてしまいそうになるほど、異人ばかりであった。身にまとっている衣装や使っている言葉、話している内容、信じている神々、髪や瞳の色も全く異なる。
当然、東の果ての日本から来た遣唐留学生たちも”異人”だ。
日本人の見た目は中国人と大きくは変わらない。衣装も隋や唐のものを真似ているため、それほど大きくは変わらないはずだった。
しかし長安の人々には何となく違いが分かるらしい。平城京から持ってきた朝服をまとって歩くと、周囲の人から「どこの国から来たんだい?」と声をかけられた。
「日本人の見分け方? 簡単さ。」
と言ったのは、とある市場の商人である。彼は長安の市場にやってきた遣唐留学生たちを見ると、あきれた様子で笑いながら言ったものだ。
「日本人はやたら書物を欲しがる。普通は宝石だの、絹の布だの、もっと綺麗なものを欲しがるのに。」
無理もないだろう。当時の遣唐使はとにかく書物を求めた。当時、日本がとにかく欲していたのは、美しい宝石ではなく、永劫に生きる知識だったのだ。
この年の遣唐使に至っては、玄宗皇帝から与えられた贈り物をすべて市場で売り払い、書物に変えてしまったほどであった。
「さすがに、皇帝陛下からの贈り物を売り払ってしまうのは、良くないのではないでしょうか。」
と、遣唐副使の藤原馬養は心配した。さすが政治の中枢に君臨する藤原家の御曹司である。
「皇帝陛下からいただいたものはどれも立派なものですし、持って帰って人々に見せれば、朝廷への尊敬や憧れにつながりましょう。」
「しかし、馬養殿。我々は我々の帝から、とにかく持って帰れるだけの書物を持って帰ってほしいと命じられている。帝だけではない。そなたの父上からも、そなたの兄上からもだ。」
そう困った顔をして答えたのは、遣唐押使の多治比縣守である。今回の遣唐使の責任者でもあった。
「まぁ、兄はそうでしょう。あの人はとにかく学問が好きですから。」
「武智麻呂殿の気持ちはよくわかる。私だって書物がほしい。だが、これでは足りない。」
「そうなんですよねぇ。」
多治比縣守と藤原馬養は、そろってため息をついた。
「馬養殿、すまないが今から他の者たちに確認して、手に入れたい書物の一覧表をもう一度作ってほしい。もし書名が分からなければ内容でも構わない。なんとか金の工面をしてみようと思う。」
「わかりました。」
「とにかく聞けるだけ聞いて、優先順位もつけてほしい。どの書物を優先させるかは、君に任せよう。」
「かしこまりました。いつまでにまとめましょう?」
「明後日までに頼めるかい?」
「手分けしてまとめます。」
こうして遣唐副使の藤原馬養は、仲間の遣唐使たちに聞きまわって、手に入れたい書物の一覧表を作り上げた。
この作業も一苦労であった。遣唐使たちが欲しい書物の名前を次々と叫び出し、収拾がつかなくなってしまったのだ。あれもこれもと挙げられた書名の中には、あまりにも高価すぎる書物や貴重すぎて国外持ち出し禁止になっている書物、さらには執筆中でまだ出版されていない書物まであって、多治比縣守に提出するまでに半分以上削ったほどだ。
縣守も苦笑しながら担当に官吏に一覧を渡し、渡された唐人の官吏も分厚さに苦笑いしながら受け取ったという。なお、さらにいくつかの書物が「皇帝でも贈れない」という理由で一覧表から削られることになる。
ちなみに、留学生の下道真備と阿倍仲麻呂もどさくさに紛れて欲しい書物の名前をいくつかあげている。そのほとんどが却下されたらしいが。
「いやぁ、お前ら、図々しいにもほどがあるぞ。」
遣唐副使の藤原馬養は、なんとかこの任務を終えると、長安の宮殿で知り合った官吏からもらったという酒の瓶を片手に遣唐留学生の部屋に転がり込んで、そう叫んだ。
ちなみにこの若い遣唐副使は、長安についてからたびたび留学生たちの部屋に転がり込んできた。
遣唐押使の多治比縣守と遣唐大使の大伴山守など、遣唐使の首脳陣は皆、馬養にとっては父親くらいの年齢である。藤原馬養は持ち前の明るさと行動力で、年の離れた同僚たちとも上手くやっていたが、やはり気を遣うらしい。
それに比べると、同じ船に乗り合わせて交流を持った留学生たちとは数歳しか歳か変わらないので、いつの間にか遊びに行くようになっていたのだ。
留学生たちからすると、同年代とはいえ位の高い藤原馬養が部屋に遊びに来るのはあまりうれしくないのだが、一緒に酒を飲んでいるうちにうやむやになってしまい、この小言にいたる。
「遣唐副使殿、またいらしたんですね。」
椅子に座っていた白猪真成がわざと唐の言葉で返す。
「酒はあるぞ。」
と、藤原馬養も唐の言葉で叫んだ。馬養は留学生ほど異国の言葉を上手く操れないが、少なくとも宮殿でそつなく挨拶をこなせるほどの勉強はしてあるらしい。
それから藤原馬養はドサッと音を立てて空いている椅子に座り込んだ。先ほど急な買い物に出かけ、急いで羹を作っていた羽栗吉麻呂が、音を聞きつけてやってきた。吉麻呂はにこりと笑ってガラスの器を並べる。
この透き通った儚い美しさを持つ器も、日本では貴重なものだ。だが、絹の道のただなかにある長安では簡単に手に入るらしく、日本からの留学生にあてがわれた建物には当たり前のように並んでいて、吉麻呂を驚かせたものだ。
「夕食を少し多めに作ってあるんですよ。ゆっくりつまんでください。」
「おおっ吉麻呂君、ありがとう。」
「どうせいらっしゃるだろうと思いまして。皆さんも食べるならよそいますよ。」
「運ぶの手伝うよ。」
白猪真成が椅子から立ち上がった。別々の椅子に座り込んでいた阿倍仲麻呂と下道真備も頷く。
「ケッ、飯だけ食いに来やがって。」
修行僧の玄昉がいら立った声を上げながら立ち上がった、なお、玄昉は本来なら別の宿舎で僧侶たちと共に過ごすはずなのだが、その言動から他の僧侶たちには距離を置かれていて気まずいらしく、しばらくは留学生の宿舎にいることになったらしい。
「短い間だ。いいだろう、玄昉君。ほら、酒もあるぞ。」
「拙僧は酒は飲まん。吉麻呂、拙僧の器に肉はいらねぇぞ。」
「わかってますよ!」
やがてテーブルの上には、野菜がたっぷり入った羹と丸くて大きな胡餅、蒸したての餃子に胡瓜の膾が並べられた。
「お酒と一緒にどうぞ。」
「おお、ありがとう。」
さらに吉麻呂が手際よく用意した果物と胡桃の盛り合わせがテーブルに並ぶ。藤原馬養は早くも若者たちに酒を注ぎ始めていた。従者である吉麻呂も、この宿舎では「無礼講」ということになっているらしく、当たり前のように同じテーブルに座った。
「それでお前ら、本当に図々しいぞ。」
「何かご迷惑をおかけしてしまいましたか、遣唐副使殿。」
白猪真成が箸を片手に返事を返した。
「書物の件だ。」
「ああ、それは大変でしたね。」
白猪真成はそう言いながら餃子に向かって箸を伸ばした。
「俺だってわかるさ。1冊でも多く書物がほしい。できればより重要な書物も欲しい。皇帝陛下もその辺をわかってくださっていたが、全員が眼の色を変えて書物を買い漁ったり、貴重な書物を出せと叫んだり、あまりのことに何か裏があるのではないかと疑われたそうだ。その弁明で大変だったよ。」
「確かに、書物の中には国家機密が書かれたものまでありますから、唐の朝廷も気が張っているのでしょう。」
「真備君、君が挙げた本の名前のせいで、あわや再び白村江の戦かと、こっちは生きた心地がしなかったのだぞ。」
下道真備が要求した本の中に、李善という人が注をつけた『文選』全巻があった。
『文選』は、かつてこの中国大陸の南側で栄えた梁という国の昭明太子が様々な文学作品を集めた書物で、中国文学を学ぶものが必ず読む必読書でもある。
無論、日本の平城京の人々も欠かさずに読んでいた。そして、平城京の人々も『文選』そのものだけでなく、『文選』についての解説や意見が書かれた書物を求めるようになっていた。
さて先日、下道真備と阿倍仲麻呂、そして白猪真成は、国子監へ挨拶に行った。
国子監は、貴族や官僚の子供たちを教育する場で、平城京の大学寮のような場所である。このたび、玄宗皇帝とその兄の寧王李憲の取り計らいで、日本からの留学生たちは特別に国子監への出入りを許されることになり、3人は新たな学び舎へ挨拶へ出かけたのである。
最も、3人の中でも年長ですでに22歳となっていた下道真備だけは、国子監への正式な入学は許されなかった。皇帝の厚意で、国子監の建物への出入りは許されたものの、阿倍仲麻呂や白猪真成のように様々な講義を自由に受けたり、正式な試験を受けることはできない。
それでも国子監の教官たちは、遠い異国からの留学生を歓迎し、早速国子監の建物を案内してくれることになった。平屋建ての平城京の大学寮とは比べ物にならないほどの壮麗な講堂や、あふれんばかりの学生たちに、3人はただただ見惚れた。
特に3人が圧倒されたのは、国子監に併設された巨大な書庫である。
石造りの巨大な建物には所狭しと本棚が並べられている。木で作られた本棚には、滝を登る龍や飛び交う蛍、降り積もった雪景色などの壮麗な彫刻が施されている。こぼれないように細心の注意が払われた灯火が、静謐な闇夜の星空のように瞬いていた。
巻物や書籍が本棚にうず高く積まれ、その棚の書物の内容を書いた木簡が顔をのぞかせている。その書物の一つ一つの文字に、はるか昔の古から伝わった言葉が残されている。何千年と変わらない美しい景色も、顔も知らない先祖たちの生々しい感情も、名前だけを遺して消えていった数多の命も、ここには残されている。
なお、この8年後、この建物は”集賢殿”と呼ばれ、世界中の書物を集めて伝えるための役所となる運命にあった。やがてこのような建物は”書院”と呼ばれ、人々が学び、新たな学問や文化の生まれる場所として東アジアに数多作られるようになっていくのだ。
「うわぁ、真成。見てよ、これ。書物が壁いっぱいに並んでいる。」
「本棚に梯子がついている。すごいな。」
「ここにいる間に、こんなにたくさんの本を、読み切れるのかなぁ。」
「そんなの、仲麻呂にとっては冷めたお粥を食べるようなもんだろ?」
仲麻呂と真成は、思わず興奮して囁き合った。真備はただただ圧倒されて言葉もなく立ち尽くしている。
「あの、先ほどから気になっていたのですが……。もしかして白猪殿は、新羅の方と何か関係が?」
おずおずと尋ねた教官の目は妖しく光っていた。身分を偽って宮殿に忍び込んだ者ではないかと疑っているらしい。
「あっ、えっと、すみません。私は日本で生まれ育ちましたが、先祖は百済に住んでいたようで、今でも家では百済の言葉を使う時があります。どうして、わかったのですか?」
「そうだったのですね。いや、こちらこそ疑ってしまってすみません。3人とも見事な唐の言葉を話されますが、ことにあなたは発音も素晴らしい。けれど時折不思議な言い回しをされるなと気になっていたのです。」
教官はそう言うと、くすりと笑った。
「今の”冷めたお粥を食べる”という表現を聞いて、半島の先祖を持つ友人の口ぶりを思い出しまして、それで思わず尋ねてしまったのです。」
「新羅の方も、この長安に?」
「ええ、もちろんです。もっとも、私の友人は高句麗の言葉を使うと言っていましたが。」
こうして、3人を案内するその道すがら、教官たちは唐の言葉だけでなく新羅や百済、高句麗の言葉までもを操る白猪真成の語学の才に惚れ込んだらしく、盛んにあれこれ尋ねていた。
当代の遣唐留学生は3人とも非常に優秀である。(もっとも、そのうち2人は進士試の答案に名前を書き忘れて不合格となった逸材であったが。)その中でも特に語学力に優れていたのは白猪真成だ。
彼の先祖は、約150年ほどまでに日本に渡ってきた百済の王族の血を引く者で、子孫たちはその言語能力を生かして朝廷に仕えた。ゆえに、代を重ねても家庭内では異国の言葉を使い続けている。かつて幼かった阿倍仲麻呂が親友の家を訪ねた時、真成は両親とは百済の言葉で話し、兄とは新羅の言葉で話し、家にいた親類たちとは唐の言葉で話し、家人とは高句麗の言葉で話すという離れ業をごく普通の顔でやりとげていて、仲麻呂を驚愕させたものだった。
さて、教官が”語学の天才”たる白猪真成に夢中になってしまい、放っておかれる形になった下道真備と阿倍仲麻呂は、ぼんやりと巨大な建物を眺めていた。
「なんてすばらしい場所なんだろう。」
仲麻呂はうっとりした顔で建物を見渡す。
「しかし、立ち入り禁止の場所が多いな。」
真備はやや不服そうな顔で呟いた。
この道案内が純粋な歓迎の儀式ではないことはすぐに分かった。教官たちは立ち入り禁止区域を伝えるために道案内をしているらしい。先ほどの書庫も許可された時間しか入れず、本を持ち出すことは許されない。しかも学生は役人に頼んで書物の一覧を見せてもらい、欲しい本をとってもらわなくてはいけないのだという。
「貴重な書物をじっくり読めると思ったが、思ったよりも不便そうだな。」
真成は、よくわからない異国の言葉で話している。何か発言するたびに周囲の教官たちが驚きの声を上げているのが、こちらまで聞こえてきた。2人は、しばらく黙ったままその景色を眺めていた。
やがて、ようやく教官に開放された真成も加わって、3人は宮殿を後にした。道すがら、真成は教官との会話についてあれこれ話し続けていた。どうやら教官たちは真成の語学の才能に驚いたものの、彼らが古典をそれほど読んでおらず、故事成語や漢詩に詳しくないことを残念がっていたらしい。
「どうやら、『文選』には注釈書があって、国子監ではそれを元にみんな勉強しているらしいんだ。僕や仲麻呂が日本で教わった解釈を話したら、逆に驚かれてしまったよ。」
「だったら、読ませてくれればいいのに。」
真備は少し不満げに呟いた。宮殿の周辺とあって、兵士や官人らしき者が大勢歩いていたが、日本語であれば問題ないだろう。
「でも『文選』の新しい解釈を勉強できるなんて、楽しみだなぁ。」
一方、仲麻呂の方は上の空だ。先ほどから真成が教官から聞き出した新しい情報に胸を躍らせている。
なにはともあれ、こんな風に遣唐留学生たちは”李善が注釈をつけた『文選』”という重要な書物に出会ったのである。そしてその日の夜、遣唐副使の藤原馬養に欲しい書物を問われ、下道真備は迷うことなくそれを要求したのだった。
「李善の『文選』は、国外に絶対に出してはならないという命令が出ているそうだ。宮廷で厳重に保管されていて、外国人には決して見せないようになっているらしい。むしろなぜ李善の存在を知っているのかと、皇帝陛下はお怒りだったそうだ。」
「すみません、馬養殿。僕が国子監で話を聞いて、みんなに話したんです。」
真成が申し訳なさそうに言った。申し訳なさそうなのは口だけで、片手には匙が握られていて、休むことなく野菜の羹をすくっている。
「まぁ、そんなところだろうと理解してくださったらしいが……。頼むからやっかいな書物には手を出さないでくれ。気持ちはわかるが、日本政府でも救えないこともあるんだ。」
藤原馬養はそう言うと、ぐいっと酒を飲んだ。
「さあ、皆さん。どんどん食べてください。餃子は頂き物ですけれど、いつもと味付けが違くて美味しいでしょう?」
玄昉を除く若者たちは、羽栗吉麻呂にすすめられるがままに餃子を頬張った。しばらく熱々の餃子を無心に頬張る音と、遠くの屋敷から聞こえる何かの音楽だけが部屋に響き渡った。
「そういえば、今日も唐の役人に名前のことを尋ねられたよ。獣と同じ名前でいいのか、って。」
突然、藤原馬養が思い出したかのように言った。
「そりゃ、国が違えば名前も違うだろ。獣の強さを名前にして何が悪りぃんだ。」
玄昉が心底くだらないという顔で、遣唐副使を眺めた。
「なぁ、真成。俺はお前がいちいち名前を変える必要なんてねぇと思ってるからな。」
「まぁ、そうなんだけどね……。」
白猪真成も困ったような顔をした。
「その、名前の件、馬養殿はどうされるつもりですか?」
「俺か……。実は、改名しようと思っているんだよね。」
「改名!?」
思わず真成が叫んだ。仲麻呂と真備も思わず唾を飲む。
日本では子供が強く育つようにと、身近な生き物の名前を付けることが多い。「馬養」とか「虫麻呂」といった名前はごく普通だ。しかし唐ではそうではないらしい。庶民のあだ名ならともかく、貴族の本名に獣の名前をつけるなどありえないらしい。そのため、氏や名に獣の字が入る者は、すでに何度も役人たちから改名を進められていた。
「馬養って名前は気に入っているんだ。父上がつけてくれた大切な名前だしな。でも、ちょっとありきたりだし、唐ではあんまり人気がない。」
酒のせいか、馬養はいつもより一層朗らかになっていた。
「考えてみろよ。兄上は武智麻呂だぜ? 武力と智識、まぁ父上も長男だから張り切ってたんだろうな。房前の兄上も、藤原と掛けて凝った名前なのに、3人目の俺は馬養、弟なんて麻呂。ちょっと雑でしょ。」
「あっ、確かに。」
「おいっ、仲麻呂。それ以上言うな。」
「だから、いっそのことここで改名してみようと思ってさ。あくまで漢字だけ。」
「しかし、ウマカイって発音の漢字、あんまりないですよね。」
「そうか、真成君でも思いつかないか……。実は前々から調べていてな、もうすぐお披露目しようと思っているんだ。」
「楽しみにしています。」
真備がぶっきらぼうに答えた。
「それで、真成君も改名するのかい?」
「ええ、白猪の猪の部分が、あまり受けが良くなくて、長く留学するなら唐風の名前を考えてしまえばいいと勧められたんです。でも、先祖代々受け継いだ氏ですし、兄上の許可もなく変えるのは、ちょっと抵抗がありまして。」
「わざわざ変えることはねえよ、真成。拙僧みたいに堂々としていればいいんだ。」
「でも、いちいち名前を聞き返されるのは面倒だよ。」
「本当だよな。俺も仲麻呂って何度も聞き返されてそのたびに漢字を説明するのが面倒くさくて。」
こうして、再び6人は酒に飲まれていった。6人が飲み交わしている様子を、長安の月は静かに見守っていた。
翌朝、玄昉は誰かが扉を叩く音で目を覚ました。
「痛ぇ……。誰だよ、俺の上で寝てる奴は……。」
玄昉は呻きながら半身を起こした。あの後、(僧侶である玄昉以外は)酒に飲まれていき、散々騒いだ後、床で眠り込んでしまっていた。申し訳程度の枕や布団にくるまり、全員が床に伸びている。羽栗吉麻呂だけが既に目を覚まし、台所で何か作っているらしい。昨晩の夕食になるはずだった油潑扯麵なるものを作っているのだろう。
「おい、吉麻呂。客だぞ……。」
「すみません、玄昉さん! ちょっと今、手が離せなくて。代わりに出てもらえませんかぁ?」
台所から、吉麻呂の声が聞こえてきた。玄昉はため息をついてゆっくり立ち上がると、玄関に降りて扉を開けた。
「はいはい、どちらさんですか?」
けだるそうな玄昉の前に、玄昉よりも年下らしいこぎれいな服の利発そうな若者が立っていた。
「あっ、これはこれは。おはようございます。」
若者は恭しく挨拶をする。玄昉は面倒くさそうな顔でそれを見つめた。
「えっと、どちらさまですか?」
「申し遅れました。私は王維と申します。摩詰とお呼びください。」
「で、その摩詰さんは、ここに何の用?」
「その服装、仏門に入られた方とお見受けします。もしや、東の海の彼方にある蓬莱の国から来られた方では?」
「東の海に浮いているのは、仙人が住む蓬莱じゃなくて、人間が住む日本って島国だけどな。そういう意味で言っているなら、まぁ、拙僧は日本の生まれだ。で?」
「なんと。陛下と殿下からお噂はかねがね伺っておりましたが、お会いできるとは何たる光栄。」
「はぁ、それで俺たちには何の用?陛下ってことぁ、宮廷からの使者か?」
「いえいえ、そんな大層なものではありません。私はまだ進士にもならない学生です。」
玄昉は、小難しい言葉を並べ立てる若者を持て余したらしい。いらだった表情で言葉をかけた。
「で、何の用?」
「留学生の方がこちらにいらっしゃると伺いまして。」
「まぁ、いるっちゃいるけれどな。ちょっと今は忙しくて……。」
「そうでしたか……。では、また後日お訪ねします。」
丁寧に一礼をして去っていく王維の後姿を、玄昉は寝ぼけた顔で見送った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。




