もしわが生涯にめぐみ下らば おんみの顔みて、眼を輝かさむ【唐】
タイトルは紙本墨書南番文字から、もっというとラシード=ウッディーンの『集史』からとりました。
夕暮れの長安には、早くも灯りがともり始め、妖しく光っている。
日本の平城京とは比べ物にならないほど巨大な都には、これまた日本の平城京とは比べ物にならないほど様々な人がうごめいていた。
その夕暮れの長安を、1人の日本人の若者が急ぎ足で歩いていた。手には空の大きな籠を抱えている。彼の名前は羽栗吉麻呂。日本から来た留学生に仕える従者である。
吉麻呂が足早に向かっていたのは、市場である。長安で買い物と言えば、西市か東市ではあるが、遣唐留学生たちが住む建物のある区域からはやや離れている。今からでは日没までに戻れないだろう。陽が落ちるとすべての門が閉まるからだ。長安をぐるりと囲む巨大な城壁の門はもちろん、それぞれの区域を隔てる小さな門も閉まってしまう。こういった点でも、形ばかりの羅城門しかなかった日本の平城京とは比べ物にならない。
幸いなことに、留学生たちが住む建物から余り離れていないところに商店が集まっている場所があり、そこに行けば大抵の日用品や食料は手に入った。そのため、吉麻呂は大慌てで夕食の材料を買い足しに出かけていたのである。
建物が取り壊されて広場のようになった場所を中心に、いくつもの商店が立ち並んでいる。広場には露天商まで出ていて、夕暮れ時にも関わらず賑やかだ。夕暮れの淡い光に包まれて、広場の隅の槐の木の濃い緑の葉が鮮やかに輝いている。
この辺りは役人や貴族たちの邸も多く、通りも小奇麗だ。さらに世界中から長安に集まってきた異国人も多く住んでいるらしく、広場に並んだ品物も物珍しいものばかりだ。
吉麻呂は広場に並んだ品々を眺めまわしながら、夕食の献立を思い浮かべた。
「刻んだ野菜を今から煮込めば、羹はできる。干し肉を刻んだのを加えれば、少しは豪華になるだろう。」
元々、今夜は長安で近所の者に教わった油潑扯麵なる料理を振舞おうと考えていた。幅の太い麺を茹でて皿に上げ、刻んだ野菜を上にのせ、その上から熱々のごま油をかけるという、このあたりの庶民のごちそうらしい。
大陸の麺の存在は、渡来してきた人々から聞いて日本でも知られている。だが日本人の間では、よほどの物好きの裕福な者が、噂で聞いた作り方を真似て自慢げに食べる程度である。吉麻呂自身も、雑穀をひいて粉にしたものをこねて、餅のようにして食べることはあったが、それをわざわざ細長い形にして食べることは初めてだった。
長安に来てすぐの宴で麺という料理を味わったと、興奮しきった遣唐留学生たちから聞いた吉麻呂は、早速市場の者に作り方を聞いて材料をそろえ、今日は朝から小麦粉をよく練って準備していたのである。
ところが慣れない料理に苦戦し、今夜の夕食の時間までに生地を寝かせる時間が足りないことに気づいてしまった。そこで、 油潑扯麵は明日の夕食に回すことにし、今夜の夕食を急遽作り直すことになったのだ。
「あとは、主食が必要だなぁ……。小麦粉が余っているから、餃子もいいかもしれない。けれど、今から作るとなると……。」
油潑扯麵の代わりに、野菜がたっぷり入った羹と餃子を作ろうと考えていたのだが、今から小麦粉をこねて皮を作り、餡をひとつひとつ包む作業をすると考えると億劫だ。
困りかねてもう一度市場を見渡した吉麻呂は、露天商の天幕の下に並べられた緑色の野菜を見つけた。
「あっ、胡瓜だ!」
西から伝わってきたのだという胡瓜という野菜は、最近の吉麻呂のお気に入りだ。さっぱりしてみずみずしい味はまるで果物のようだったし、生で食べても漬物にしてもおいしい。細かく切って並べておくだけで、酒の肴になる。
ひとまず胡瓜を手に入れようと、吉麻呂は手を伸ばした。
「おじさん、この胡瓜を……。」
「あら、いい胡瓜ね。」
同じ胡瓜を掴もうとした人物が、この長安の都にもう1人いたらしい。羽栗吉麻呂は驚いてその手の主を見つめた。
夕暮れの長安には、早くも灯りがともり始め、妖しく光っている。淡い夕暮れの色に包まれて、長安の赤や茶の建物は柔らかく輝いている。広場の隅の槐の木の濃い緑が、やがて来る夜の気配を漂わせていた。
手の主は白く長いヴェールに身を包んでいた。彼女もまた驚いた様子で振り返る。
ヴェールの下にはまとめられた黒髪が隠されていて、深い翡翠ごとき緑の瞳が、羽栗吉麻呂を見据えた。
その翡翠の瞳の中に、希望と哀愁が入り混じった不思議なきらめきを見たような気がして、吉麻呂は思わず息をのんだ。
「あっ、ごめんなさい。」
翡翠の瞳の女は慌てて腕をひっこめた。
「いえ、こちらこそ、申し訳ありません。」
吉麻呂は気まずそうにしている女をそっと見つめた。
頭からヴェールをかぶる女はやや珍しいが、異国人の多い長安ではよく見かける姿でもある。ヴェールの下の服装は長安に住む唐の人々とほとんど変わりないが、顔立ちがやや西域風だ。先ほどの言葉は完璧な唐の言葉で、複雑な発音も正確に使いこなしていた。長く唐に住んでいる異国人の女なのだろうと、吉麻呂は咄嗟に判断した。
「考え事をしていて、周りが良く見えていなかったようです。」
「きっと、大変な悩み事だったのですね。」
「いえ、大した悩みじゃありません。あなたの方が、きっと立派な悩み事を抱えているんじゃないでしょうか。」
「そんなことを言われると、余計にあなたの悩みが気になりますわ。」
翡翠の瞳の女は、ヴェールの下で楽し気に微笑んだ。
「教えてくださらない?」
「がっかりしますよ?」
吉麻呂はわざともったいぶって言い放った。この女の楽し気な表情を見ると、こちらも楽しくなるように感じたからだ。
「構いませんわ。」
翡翠の瞳の女は、嬉しそうに返事を返した。
「実は私は、ある屋敷に仕える者なのですが、夕食の献立に悩んでおりまして。」
「あら、それなら急がないといけないじゃない!」
翡翠の瞳の女は、夕暮れの空をちらりと見上げて声を上げた。
「お宅には何があるの?」
「野菜と干し肉があるので、羹を。後はあの方々のために、お腹がいっぱいになるようなものを作って差し上げようと思っていて、今から急いで餃子を作れば……。」
「今からだと少し大変よ。」
「仕方ありません。先に野菜で羹や膾を作ってお出しして、その間に餃子を蒸せばなんとかなります。」
「ほかに料理をする方々はいらっしゃるの?」
「いえ、今は一人です。」
「一人でお屋敷のことを?」
「お屋敷と言っても、最近来たばかりでまだ荷物もほとんどありませんし、お仕えしている方々も若い学生なので、それほど忙しくはないんですよ。」
「でも、今から一人で餃子を包むのは大変……そうだわ!」
翡翠の瞳の女は、目を輝かせて声を上げた。
「たしか、我が家も今日は餃子なのよ。たくさん準備してあるから、少し持って行って。」
「それはちょっと……。」
「たくさんはないから、主食も買わないといけないけれどね。あそこで売っている胡餅を山ほど買って、果物や胡桃と一緒に出しておけばいいでしょ?」
そう言いながら、翡翠の瞳の女はつかつかと胡餅を売る天幕に向かって歩き出した。全身を包む白いヴェールが、淡い夕暮れに包まれて輝いている。吉麻呂はため息をつくと、諦めて歩き出した。
「随分、異国風な食卓になりますね。」
「あら、そう?」
翡翠の瞳の女はくるりと振り返って笑った。
「でも、ここは長安よ。」
胡餅と胡瓜を詰め込んだ風呂敷包みを抱えた吉麻呂は、結局この翡翠の瞳の女の屋敷に行くことになってしまった。夕暮れはより深い赤に染まっていく。
「遠慮しなくていいわ。いつも作りすぎちゃって、余っちゃうの。だから親類や近所の人にもらってくれって頼んでいるくらいなの。むしろ助かるわ。」
女はいそいそと歩きながら、聞いてもいない家のことをあれこれ話し始めた。
「それで、哀れな従者に餃子を恵んでくださるあなたは、何という名前なのですか?」
吉麻呂は、少しいらだったように尋ねた。この女の事は妙に気になったし、笑った顔を見るとこちらも嬉しい気持ちになる。だが急に誰ともわからない者に家に連れていかれるのは良い気分ではない。ましてや、ここは”異国”だ。
「……愛玲と呼んで。このあたりに住んでいるの。あなたは?」
「羽栗吉麻呂。」
「珍しい名前ね。もしかして、異国の人?」
「海の向こうの日本から。」
「あっ、じゃあついこの間、長安にたどり着いったっていう日本からの遣唐使にお仕えしている方なの?」
「ええ、そうです。遣唐留学生の皆さんにお仕えしているっていうか、世話しているというか、面倒見ているというか。歳が変わらないし、皆さん分け隔てなく接してくださるので。」
「じゃあ、やっぱり羹と胡餅だけじゃ足りないわ。」
広場からそれほど離れていない白い壁の屋敷に、愛玲は吉麻呂を連れて行った。
長安の建物はどれも四合院の形をしている。中庭を取り囲むように細長い建物が配置されていて、外からは厚い壁にさえぎられていて中の様子はうかがえない。愛玲に言われるがままに白い屋敷に足を踏み入れた吉麻呂は、思わず驚きの声を上げた。
「あっ……。」
そこは日本でもなければ唐でもなかった。
建物は白く乾いた煉瓦で作られていて、夕暮れの赤い光に染められながらも白亜に輝いていた。植物をかたどった複雑な文様が刻まれた柱が並び、複雑な模様が編み込まれた絨毯が壁や床を覆っている。咄嗟の出来事で吉麻呂にもよくわからなかったが、どうやらずっと西の文化がこの屋敷には息づいているらしい。
庭には葡萄の木が植えられ、その下には数人の女が集まって何かを話しながら手を動かしている。中庭のテーブルの上の皿には、包まれたばかりの餃子がぎっしりと並べられていた。
愛玲が女たちの元に歩いて行って何か声をかけた。吉麻呂にも分からない異国の言葉だ。女たちは愛玲の話を聞くと何度も頷き、おもむろに立ち上がってどこかへ駆けて行った。
「吉麻呂、彼女たちがすぐに餃子を包んでくれるそうよ。」
「愛玲、君は一体……?」
吉麻呂は愛玲の翡翠の瞳を見つめて、思わず尋ねた。希望と哀愁が入り混じった不思議なきらめきがその瞳の中にあった。
「祖父が異国の人なの。ここよりもずっと西から、この国に来た。」
愛玲はそう言って微笑んだ。だが、なぜか吉麻呂には彼女が微笑んでいるように見えなかった。
「さぁ、餃子をもらって行って。留学生の皆さんにもよろしく。」
女たちから皿ごと包まれた餃子が、大きな胡餅の包みの上に載せられた。ずっしりとした重さが味を保証しているようだった。
「ありがとう、愛玲。今度、お礼の品を持ってきます。」
「そんな、こっちが勝手に押し付けちゃったんだし。」
「いえ、お礼をさせてください。」
愛玲は少し困ったような顔をしてうろたえた。微笑んでごまかそうとしているが、逃れようのない悲しみの色がそこにあった。
「じゃあ、愛玲。今度一緒に市場に行きませんか?」
「えっ……?」
愛玲の困ったような驚きの表情に、吉麻呂は咄嗟とは言え自分で口走ってしまった言葉を恥じた。だがもう引き下がれない。必死の弁解がなんとか唐の言葉で紡ぎ出された。
「僕も来たばかりで長安の事はあまり知らないし、えっと、君の荷物持ちとして役に立てれば、この餃子のお礼になるよね?」
「……確かにそうかも。明後日、市場に買い物に行こうと思っているのだけれど、一緒に来てくれる?」
その時、愛玲の翡翠の瞳の中に希望のきらめきが輝いたことに、吉麻呂の胸が躍った。
鎌倉時代の日本にペルシア語が伝わっていたことに衝撃を受けています。
宋で出会った外国人に「南無阿弥陀仏って南蛮文字で書いてよ!」てお願いされて、咄嗟にシャーナーメとか集史とかの一節が出てくるペルシア商人たちもすごい。




