佳節に逢う毎に倍 親を思う【唐】
タイトルは王維が17歳の時に書いた「九月九日憶山東兄弟」からです。
「節句が来るたびにますます親兄弟がしのばれる」という故郷を想う詩です。
長安の巨大な宮殿の一角に、皇帝の兄である寧王李憲の暮らす宮殿が立っている。皇帝が政をする中心部から離れている、美しい庭に雅な音楽が流れ、名だたる文化人たちが集まるサロンとなっていた。
その夜、李憲はぼんやりと月を眺めていた。
彼の宮殿には大抵、若くて優秀な人々が集まり、夜遅くまで歌ったり踊ったり詩を書いたりしている。李憲も宮殿の主として夜通し雅な宴に加わることも多かった。そうなれば翌朝は起きれない。
大抵、李憲が動き出すのは陽が随分高く昇ってからだ。昼近くになってようやくけだるそうに動き出す皇帝の”兄”を、官僚たちは呆れた顔で眺めていた。
より正確にいうと、彼らはほっと安心した顔で眺めていた。
皇帝である弟と同じくらい優秀で、数年前には皇太子の座についていた寧王。彼はこの時代、若き皇帝にとって最も危険な人物であり、最も心を許せる家族でもあった。この兄弟がいつまでも手を取り合って支え合ってくれれば、とこの国の誰もが願っている。
そんな周囲の者のささやかな願いを叶えるかのように、李憲は政治には一切関わろうとせず、むしろ政治の匂いから逃れるように音楽や踊り、詩や絵画の道に走った。時折湯水のように国家の税を使うところが悩ましいが、寧王の宴が開かれる度に商人やたちが喜んでいるのを見ると、その浪費すら弟の治める帝国のためのように思えてならなかったという。
だが、この晩、李憲は1人で月を眺めていた。自分を慕って集まる若者たちを早々に帰し、妻にも先に床に入ってもらっている。はるか北の大草原を吹き抜けてきた風が、寧王李憲の頬を撫でた。
「兄上、いらっしゃいますか?」
風の中に、聞きなれた声が混ざっていた。李憲はじっと月を見上げたまま、口を開いた。
「皇帝陛下、夜分遅くにこんなところにいらっしゃるなんて……。」
「夜分遅くだからです、兄上。いつも申し訳ありません。」
「陛下、今日は部屋に誰もいません。どうぞお入りください。」
「兄上、失礼いたします。」
李憲が窓から差し出した腕を、弟の手ががっしり掴む。李憲が思いっきり引っ張り上げると、この大唐の皇帝である玄宗皇帝が現れた。本名は李隆基。李憲と共に育った弟である。
「陛下、何かお飲みになられますか?」
「兄上にお任せいたします。」
32歳の玄宗皇帝は、皇帝の衣ではなく、そのあたりの官僚が着ている飾りは少ないが上質な衣をまとっていて、一瞬だけでは夜遅くまで書類を読んでいてくたびれた若い役人のようだった。
「では、南から贈られた珍しい茶でも入れましょう。」
「ありがとうございます、兄上。」
この世の全ての上に君臨する玄宗皇帝が、ただひとり敬語を使うのが、この寧王李憲であった。周囲の者も、兄ですら、敬語をやめるように進言したが、玄宗はいつまでも兄に敬語を使い続ける。兄もまた、弟としてではなく君主として敬語を使い続けた。
「陛下、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
玄宗皇帝は、差し出された器から渋い茶を一口飲んだ。それからゆっくりと口を開いた。
「兄上と相談したいことがあって、夜分遅くにお尋ねしました。よろしいですか?」
「私は政治のことはわかりません。陛下のお役には立てないでしょう。」
寧王李憲は自分の分の茶を注ぎながら、言葉を続けた。
「ですが、陛下のお話をただ伺うくらいなら、私でもできましょう。」
「ありがとうございます、兄上。」
聡明な玄宗皇帝は、政治から遠ざかりたい兄の立場を十分に理解している。そして聡明であるがゆえに、寧王李憲の才能を誰よりもよく知っていた。兄が皇帝に即位しなかったことが、どれほどこの国にとって損失であったかも、皇帝だけが知っていたのである。
ゆえに、玄宗皇帝は時折こうやって兄の宮殿を密かに訪ねた。兄もそんな弟の気持ちを十分に理解している。そうやって、支え合ってきた兄弟であった。
「西域の情勢が目まぐるしく変わっております。早めに手を打たねば、西域の交易路を失いかねません。」
「西域は、我が大唐のものではございませんか、陛下。」
寧王李憲は、酒に酔ったような大らかな声で言葉を返した。
「兄上、からかわないでください。」
「陛下の傍に仕えていらっしゃる者どもの真似をして、笑っていただこうかと思ったのですが。」
寧王李憲はそう言ってにやりと笑った。兄弟にしか見せない表情である。それを見て、玄宗皇帝もにやりと笑い返した。
「それで、陛下は西域の何を恐れているのでしょうか?」
「例の突厥の兄弟です。」
李憲はこの時ばかりは何も言わなかった。
北の大草原を支配する突厥には、李憲の愛娘の金山公主が嫁いでいる。まだ10代半ばであったが、皇族の一員であったがために、遠い異民族の王に嫁ぐことになった。
李憲の祖母にあたり、たぐいまれなる美貌と冷徹さと聡明さで中国を支配した女帝である則天武后の時代の出来事であった。その女帝が無視できないほどの力を誇った遷善可汗に、金山公主は嫁がされていったのだった。
可汗の隣に並び立つ可賀敦、唐で言えば皇后の座についたと言えば聞こえはいい。だが、実際には親子ほど歳が離れた異民族の王の元に送り込まれた人質だ。嫁いだ男には、すでに自分とほとんど歳の変わらない息子たちがいた。
無論、父親の李憲も叔父の玄宗も金山公主の結婚生活が甘く美しいものではないことは承知の上であった。金山公主も覚悟はしていただろう。それでもあまりに彼女が可哀想であると、玄宗は即位してから何度か金山公主を取り戻そうと画策していた。
ところが、彼女は叔父から贈られた離縁の話を断り続けた。可汗の隣に並び立つ可賀敦として、突厥の人々と共に生きるという覚悟を、何度も手紙に書いて送ってきた。
父親も叔父も、金山公主が夫の遷善可汗に無理やり書かせられている可能性を否定できなかったが、見間違えようのない本人の筆跡で書かれた手紙を信じることしかできなかった。
さて、その金山公主の目の前で遷善可汗の息子たちが皆殺しにされたのが、ちょうど1年ほど前の出来事である。突厥の指導者の座は、毘伽可汗と闕特勤の兄弟に移った。
姪の夫の遷善可汗が戦死し、後継者の息子たちも毘伽可汗と闕特勤の兄弟によってことごとく殺されたという報告を受けた時、玄宗皇帝はすぐさま北の大草原に軍を送り込もうとした。遷善可汗の周囲の者がことごとく殺されたとなれば、可賀敦の金山公主の命も危ない。唐の皇女たる金山公主の救出に皇帝が動くことは当然であった。
ところが、国境のあたりまで進軍した唐の司令官は毘伽可汗の使者から思いがけないものを受け取ることになった。前の可賀敦として突厥の人々に金山公主が発した命令書である。
そこには「先代の可賀敦として、新たな可汗の即位を認める」「ゆえに、突厥の人々は新たに即位した毘伽可汗に従うように」という内容が書かれていた。
その命令書に加えて、突厥の毘伽可汗と闕特勤の兄弟の連名で、唐の寧王李憲と玄宗皇帝の兄弟に宛てた手紙もあった。なおこれが、8世紀のユーラシア大陸に生きた、たぐいまれなく仲の良い兄弟が、互いを知った最初の手紙である。
草原の兄弟から中華の兄弟に送られた手紙には、前の可賀敦の支えに感謝する文言と共に、「義理の叔母にあたる金山公主の命と立場が決して悪くならないよう努める」ということが書いてあった。
突厥文字と漢字の両方で書かれた命令書と手紙を受け取った唐の司令官は、困惑してその知らせを長安に送った。それを受け取った寧王李憲と玄宗皇帝も困惑した。
どうやら、金山公主は突厥で生きていく覚悟を固めたらしい。だが、それが唐の皇女としての決意なのか、突厥の皇后としての決意なのかは、父親にも叔父にも分からなかったのだ。
何はともあれ、まだ20代になったかならないかの女性を突厥に引き留めるほどの”何か”を持った毘伽可汗と闕特勤の兄弟を、寧王李憲と玄宗皇帝の兄弟はかなり注意して眺めていたのである。
「金山のことは気にしなくていい。あの子も、それくらいは覚悟しているはずだ。」
「ですが、何かあればすぐに軍を動かすつもりです。私にとっても大切な姪ですから。」
玄宗皇帝はそう言って茶を一口飲んだ。窓から差し込む月明かりと部屋の片隅に灯る灯だけが、夜更けに語り合う兄弟を照らしていた。
「話を戻します。数年ほど前に、突厥から我が大唐に帰順を願った民たちが、どうやら突厥に寝返っているようなのです。」
「そのような報告があったのですか、陛下。」
「亀茲の安西大都護府からの報告書に、元々突厥に属していた者が多く暮らす集落がいくつか逃亡してしまったという記録がありました。まだ人数はそれほど多くはありませんし、都護府の役人たちも『元々遊牧民であった者がいつの間にか逃亡してしまうことはよくあることだ』とそれほど気に留めていないようです。」
「それならば、陛下が気に留めることはないのでしょうか。」
「しかし、時期が時期です。」
玄宗皇帝は兄に向って身を乗り出すように言葉を続けた。
「新たな可汗が即位した。突厥に再び力を与えた伝説の頡跌利施可汗の息子で、英雄の弟を従えている。一度は唐に下った突厥の者たちにとっては魅力的でしょう。兄上なら、わかりますよね?」
弟が自らの即位したときの経験を元に話していることを、李憲は察した。今の話題からはずれるが、これほど自然に自分を誇る弟を、兄として少し安心した心持で眺める。
「噂を聞いて、次々と逃げ出す者が出かねません。早いうちに手を打つべきでしょう。」
「陛下がそう思われるのであるのなら、手を打つべきなのでしょう。」
「それで、兄上の意見をうかがいに来たのです。」
弟は、じっと兄の瞳を見つめた。そのまっすぐな黒い瞳に、兄は弟から逃げられないことを悟った。
「……逃げた者たちに罰を与えずとも良いでしょう。元々、草原の民たちだったのです。帰るべきところに帰ったのだ、とでも思っておきましょう。しかし、無視できないという陛下のお考えはよくわかります。」
「突厥は、何か行動を起こすでしょうか?」
「それは、頡跌利施可汗の息子たちに聞かねばわかりません。」
兄は、子供のころと変わらない弟の瞳に向かってきっぱりと言った。
「金山が何か知らせを送ってくれるかもしれませんが……。あの子はすでに突厥の可賀敦。重すぎる期待には応えられないでしょう。」
「兄上、金山公主がどう生きるのかは、あの子の自由です。ですが、あの子が唐の公主であることを嬉しく思えるように、政をしていきたいと思っています。」
「おそれいります、陛下。」
李憲はそう言って、軽く頭を下げた。
「話を戻します、兄上。私がもっと恐れているのは、西域の都市国家が突厥の方に寝返って、我が大唐が交易路を失ってしまうことです。」
「西域の国々は、まだ様子をうかがっているのでしょう。突厥か、唐か、それとも他に付き従うべきか。」
李憲の言葉を聞いて、玄宗皇帝は息をのんだ。
「やはり兄上も、そうお考えでしたか。」
「突厥以外の国々も、注意深くうかがうべきでしょう。」
玄宗皇帝は、寧王李憲の言葉を聞いて考え込んだ。おそらく、皇帝の脳裏には広大なユーラシア大陸の地図が広げられたに違いない。
「ですが、吐蕃の王はまだ幼少で、国内も混乱しているようです。我らの従姉妹にあたる金城公主が嫁ぎましたが……。」
少し考え込んだ後、玄宗皇帝は隣国の名前をつぶやいた。
唐の隣国には吐蕃という国がある。インドと中国の間の天空に広がるチベット高原を支配する国で、松賛干布という偉大な王が100年ほど前に統一した国だ。
唐も吐蕃には公主を嫁がせ、彼らの様子をうかがっていた。唐と吐蕃では文化の交流も進んでいる。特に、茶を飲む習慣は吐蕃で大流行しているらしく、今では絹よりも茶の方が喜ばれるらしい。
時折、唐と吐蕃の国境で小競り合いが起こるが、どちらかというと彼らは南方の国々に興味を持っているらしく、現時点では大きな戦には至っていない。
先代の王である器弩悉弄は、唐の南西の雲南の地で力をつけている南詔との戦いで死んだ。今の王はわずか1歳で父の跡を継いだ棄隷蹜賛。ようやく13歳になったばかりの少年で、周囲の大人に助けられながらなんとか生き延びたという状況だ。親族が治める属国の尼婆羅にまで反乱を起こされたというから、なかなか苦労続きの幼少期であったのだろう。そのため、唐と吐蕃の間の争いはひとまず休戦状態であった。
「あの波斯を破滅させた大食を忘れたのですか、陛下。」
「しかし兄上、彼らが砂漠を超えて中華の地まで攻めてくるとは思えません。」
「80年ほど前に滅ぼされた波斯の薩珊家の王たちも、そう言っていたと聞いています。」
兄は、兄として諭すような声で皇帝に告げた。
「……そうでしたね、兄上。大食の民は砂漠の向こう側から攻めてきた、と。」
「それに、陛下に捧げられた数多の貢物を運んできた者たちが、どの神を信じているか、陛下はご存知ですよね?」
「ええ、兄上。大食の商人でしょう?」
長江より南の沿岸部の街には、遠く西から船で運ばれてきた珍しい品々が集まっていて、人々は先を争って長安まで積み荷を送っている。
広州や泉州といった唐の沿岸部にやってくるのは、中国と印度の間の島々に住む人々で、彼らとはもうずいぶん長いこと貿易をしている。最近は室利仏逝王国と言う国が、海峡周辺の港市国家をまとめあげていて、都の巨港にはこの世のあらゆるものが集まるらしい。
彼らは仏教を信じていて、中国のものとはやや顔立ちの異なる仏像を並べた寺院をたくさん作っていた。だが最近では、イスラム教とアラビア語を覚えてしまえばもっと西から三角の帆の船でやってくる商人ともやりとりができると、唯一神に関心を持つ者もいるらしい。
「陛下、必要以上に恐れおののく必要はございません。ですが、恐れるべき敵は恐れなくてはなりません。」
「肝に銘じておきます、兄上。」
玄宗皇帝は、そう言って兄から差し出された茶を飲み込んだ。
「それで兄上、これから西域をどうしたら良いとお考えですか?」
「……陛下、私の耳障りな意見など聞いてはいけませんよ。」
「お願いします、兄上。」
寧王李憲は、弟の頼みを断れなかった。家族を守るために政治の世界から身を引いた兄として許される言葉を、ゆっくりと紡いでいく。
「少し前に、北の草原に住む奚の民が貢物を持って来たでしょう。寺院と道観を参拝したいと願い出て、それから市場での交易も望んでいましたね。」
「そうです。突厥から離れて唐の元で生きたいと言っていました。」
「奚の人々が突厥の支配から離れようと決断できたのは、同じ先祖を持つ契丹の者たちが我々の側についていたからでしょう。」
契丹も北の草原に暮らす人々である。白い馬に乗った神人と青い牛に乗った天女が、2つの川が合流するところで出会って生まれた子供たちの血を引くという伝説を持つ。契丹も奚も、どうやらはるか昔に鮮卑から分かれた民族らしい。
なお、北の草原で強大な力を誇った鮮卑族は、万里の長城を超えて中原に進出し、北魏という国を建てた。その跡を継いだ隋も唐も、この鮮卑の血を引いている。月下の宮殿で密かに語り合うこの兄弟もまた、大草原に生きた鮮卑の血を引いていた。言い換えれば、唐も契丹も奚も、同じ先祖を持っている。
契丹はそれほど強大な部族ではない。高句麗や隋に使いを送って保護を求めたり、突厥との戦いに負けたりと、支配される運命にあり続けた。やがて彼らは唐の保護を求めるようになり、数多の民族を支配するために生まれた羈縻政策の元に組み込まれた。現在、契丹を率いる李失活は唐から妻をめとり、唐と共に生きていくと誓っている。
なお、数百年後にこの契丹が万里の長城を超えて攻め入り中国大陸を支配することになるのだが、それはまた別の物語である。
「契丹は数年前には我が大唐に反乱を起こした部族。それでも陛下の元に帰順することを許され、幸せに生きていると知れば、草原の民も陛下の元に行きたいと思うでしょう。」
寧王李憲は弟をいとおしそうに眺めた。
「陛下はよく考えて政をしておられますし、陛下の周りには優秀な臣下が大勢控えております。皆でよく考えてよい政をすれば、おのずと民はついていくでしょう。ご安心ください。」
「ありがとうございます、兄上。」
玄宗皇帝は、幼子のように頷いた。
月光は冷たく静かに輝く。2人の兄弟が飲んでいた茶は、少しぬるくなっていた。兄は弟に新しい茶を勧め、弟は笑顔を浮かべて茶碗を差し出した。
「それから陛下、出過ぎたことを申し上げますが……。」
茶碗に湯を注ぎながら、寧王李憲は思わず口を開いた。今日はどうも真面目な話をしたい気分らしい。
「兄上、何でもおっしゃってください。」
「西や北の者たちも気になりますが、東の方の情勢も気になります。陛下はどうお考えなのでしょうか?」
兄弟の脳裏に、再び世界地図が広げられる。唐の東には海が広がっている。遣唐使たちが渡ってくる東シナ海だ。そしてその向こう側の東の果てには、日本と言う小さな島国が浮かんでいた。
「渤海と新羅の対立に、正直頭を悩ませています。」
玄宗皇帝はそう言ってため息をついた。
朝鮮半島の新羅は、唐と組んで高句麗と百済を滅ぼし、朝鮮半島の全てを手に入れた。そして朝鮮半島の主のようにふるまう唐に反旗を翻した。
以降、ここ数十年ほどは唐に攻め込んでは謝罪の使者を送る、という謝罪外交を繰り返している。さすがの唐の皇帝たちも怒って新羅を攻め滅ぼそうと考えたが、吐蕃をはじめとする西の国々の情勢が不安定で軍隊を送れずにいた。
いかなる手を使ってでも生き残る、という地政学上情勢が不安定になりがちな半島に生きる人々の覚悟が、この新羅のしたたかさを生み出している。
その新羅から朝鮮半島の主の座を奪い取ろうとしている国がいる。それが渤海だ。
北と東の果てで魚や毛皮をとって生きる靺鞨という民族の人々と、祖国を滅ぼされて逃げ出した高句麗の人々が、19年ほど前に朝鮮半島の北に作り上げた国である。かつての高句麗の領地をそのまま手中に収めようと新羅とにらみ合っていた唐にとっては、弁当を奪おうと旋回する鳶ように気になる存在だ。それに渤海の人々を率いる大祚栄は、周囲の国々と友好関係を築こうと探っているらしい。
「正直なところ、渤海に新羅、突厥に契丹、吐蕃に南詔、室利仏逝に日本、大食に波斯、彼らが手を組んで我が大唐に攻めてきたら、私ではどうしようもありません。」
玄宗皇帝は弱ったような笑みを浮かべて茶碗を見つめる。
兄は弟の疲れた眼差しを見て、皇帝が数多の王と己の力を何度も何度も頭の中で比べてはため息をついているのだと悟った。唐の皇室に生まれた2人の兄弟は、己の強さと弱さを見つめることができる賢さを持っていた。それは民にとっては喜ばしいことであったが、皇帝本人の心と体を蝕んでいく賢さでもある。時には愚か者の方が幸福な時もあるものだ。
「今は、我が大唐を囲む国々と共に生きていくことを考えています。兄上、それでよろしいでしょうか?」
「私は、あなたが生まれた時からわたしが死ぬ最期の瞬間まで、陛下の命に従うつもりです。」
「……ありがとうございます、兄上。」
月下の兄弟は、またしばらく無言で茶をすすった。
玄宗皇帝は、父の遺骸の前での李憲の言葉をぼんやりと思い出していた。臣下としてではなく兄としてかけてくれた最後の言葉だった。もっとも、兄がずっと「兄」として見守ってくれていることは、 李隆基も痛いほど感じている。
「そういえば、兄上。兄上にもう1つお願いがあるのです。」
「何なりと申し付けください、陛下。どうしたのですか?」
「日本からの使者の話は知っているでしょう? たしか兄上のところにも挨拶にうかがったと聞いています。」
「ええ、楽しい話をたくさん聞きました。良い者たちですね。さすが、弁正の生まれ育った国の者たちだと、笑ってしまいました。」
「私もです、兄上。」
兄弟は顔を見合わせて笑った。2人の手の中の茶碗がわずかに揺れる。
「それで兄上、このたび我が大唐は日本からの留学生たちを受け入れることにしました。」
「陛下、それはとても良いことだと思います。我が大唐のすばらしさや陛下の慈悲深さを、世界の国々に広める良い機会になりましょう。」
「ですが、日本は海のかなたの遠い国。おそらく迎えの船が来るのは10年後とも20年後とも言われております。故郷から遠く離れて学ぶ留学生たちには、せめてこの長安で安心して過ごしてもらいたいのです。」
「そうですね、陛下。」
「そこで、兄上。兄上の知っている人で、若い留学生たちと同じくらいの年頃で、才能も知識も存分にあり、良い友人として留学生たちを支えてくれそうな者を紹介してほしいのです。兄上のところには、名だたる人々が夜な夜な集まっているのでしょう?」
弟はそう言ってにやりと笑った。兄もよく似た顔でにやりと笑い返す。
「陛下は何でもご存知ですね。」
「あれだけ賑やかな宴の音楽が毎晩聞こえてきたら、嫌でもわかりますよ。」
「そうですね……。まだ進士にも及第していない若者ですが、ひとりとても良い青年がいます。たしかまだ16歳くらいだったかと。」
「留学生たちの中には、まだ10代の者もいます。良いのではないでしょうか。」
「陛下がそうおっしゃるのなら、大丈夫でしょう。」
こうして寧王李憲は、1人の若者の名前を玄宗皇帝に伝えた。
「王摩詰という若者です。たしか出身は山西とか。幼い頃から博学才穎、容姿も上品で、音楽や絵画の才能も一流です。神進士に及第するのに必要なのは、あとは年齢だけ、と誰もが思うほどの才能ですよ。」
「それは、兄上好みの若者ですね。宴にもよく呼んでいるのでしょう?」
「彼と話をするのはとても楽しいのです。いつか陛下にもご紹介できたらと思っております。」
「兄上がそこまでおっしゃるのなら、大丈夫でしょう。その若者を、ぜひ日本からの留学生たちに会わせてやってください。」
「わかりました。良い日を選んで訪ねさせましょう。」
彼らはまだ知らなかったが、この博学才穎の若者こそ、後に”詩仏”と称えられた王維である。彼は、東の彼方の海を渡ってきた阿倍仲麻呂の生涯の友になる運命を持った若者であった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。




