九州何れの処か遠き 萬里空に乗ずるが若し【唐】
順風満帆な7日間の航海のはてに、遣唐副使の藤原馬養の乗った遣唐使船は、ユーラシア大陸のはずれにある小さな漁村にたどり着いた。
他の3隻の船とは、すでにはぐれている。といってもはぐれたのは1日前で、それまでは水平線の彼方にお互いの姿を確認できていた。おそらく彼らもどこかの港町にたどり着いたに違いない。
何度か東シナ海を渡ったことがあるという水手長曰く、まずは中国のどの海岸にたどり着いたのか、村人たちに確認し役人たちに取り次いでもらう。それから蘇州や明州といった大きな港まで船を回航させるのだという。漂着した場所によっては、そのまま街道を歩いて長安を目指すこともあるのだそうだ。
なお、なぜ数名の水手たちが唐に漂着した時に手続きについて詳しく知っているのか、藤原馬養は尋ねなかった。この時代、朝廷の許可なく海を渡ることは禁じられていたが、実際には商人や漁師たちが頻繁に行き来していたらしい。
巨大な船が近づいてきたのを見て、村人たちが海岸に集まっている。何やら大きな声でわめいたり走り回ったりしている様子は、日本の海岸で見た風景とあまり変わらない。だが、海辺に生えている木々や人々のわずかなしぐさの違いから、甲板の遣唐留学生たちは憧れの唐の香りを感じて酔いしれていた。
やがて、小さな桟橋から漁師の釣り船が次々と動き出した。釣り船のうち1隻が遣唐使船にまで近づくと、大きな声で何か叫んだ。
「わぁ、唐の言葉だ。」
思わず、下道真備は日本語でつぶやいた。
水手長は釣り船に向かって身を乗り出すと、下手な唐の言葉で叫んだ。
「日本人だぁ!日本人!」
釣り船の漁師たちはわあわあと何か言いあうと、腕を振り回し始めた。
「こっちに来いっていってますぜ!」
水手長は藤原馬養に向かってにやりと笑いかけた。
「いや、なんでわかるんだ?」
「海の男の言葉はわかるんだよ!」
呆れた表情を浮かべた藤原馬養をよそに、水手長は後ろを振り返って水手たちに向かって叫んだ。
「今からあっちの釣り船が誘導してくれるぞ。持ち場につけぇ!」
水手質が一斉に大声を上げて動き出す。
網代帆を畳むために、何人もの水手が帆柱をよじ登っていく。別の場所では、櫂が引っ張り出されていた。水手長が物見台に駆け上がって行って、あれこれ指示を出し始める。祭りの喧騒のようだが、よく見ると皆無駄のない動きをしていた。
一方、遣唐留学生たちは再び騒がしくなった甲板で右往左往した。
「とりあえず、ここは邪魔そうだ。どこかにひっこんでいようよ。」
白猪真成がそう仲間たちに言った瞬間、船室の入り口から声がした。
「ああ君たち、ちょっと来てくれ。」
「遣唐副使殿、お呼びでしょうか?」
荷物が雑多に置かれた藤原馬養の船室に、5人の若者はおそるおそる飛び込んだ。子の中では一番年上の下道真備がそっと声をかける。
「ああ、君たちに頼みごとがある。この中で一番、唐の言葉が達者なのは?」
5人は互いに顔を見合わせた。
玄昉の眼がカッと開かれ、羽栗吉麻呂もにこりと笑う。下道真備も頷いた。そして阿倍仲麻呂は当然だという顔をして、白猪真成を見つめた。
「おそらく、この白猪真成だと。」
下道真備が、全員の視線を確認してから淡々と口を開いた。
「いやっ、えっと……。」
「ええ、真成が適任です。真成の家は渡来人で、今でも親族同士では異国の言葉を使っています。真成は唐の言葉だけでなく、百済や新羅の言葉も話せます。」
何か言おうとした白猪真成を遮るように、阿倍仲麻呂が早口で友人を褒めた。
「ほう、それは優秀だ。」
藤原馬養は、机の上の硯に墨をこすりつけながら言った。
「さて、私はこれからあちらの村に上陸して、この地の役人に交渉しなくてはならない。私も唐の言葉は勉強しているが、何か間違えた言葉を使ってしまったら大変だ。念のため、優秀な留学生に通訳を頼みたい。」
藤原馬養は引き出しから書きかけの手紙を取り出すと、手紙の最後に日付を書き入れながら言葉を続けた。
「白猪真成君、行ってくれるかね?」
「も、もちろんです!」
藤原馬養は若者らしくにやりと笑った。
「頼んだよ。」
「はい。それで、あの……。」
「どうかしたのか?」
「あの、もしよろしければ、ここにいる阿倍仲麻呂や下道真備も連れて行っていただけないでしょうか?」
藤原馬養は筆を止めて、白猪真成の顔を見上げた。
「どうしてだ?」
「あの、彼らもとても優秀なんです。それに唐のことについて詳しく知りたがっております。ぜひ一緒に連れて行っていただけないでしょうか?」
藤原馬養はきょとんとした顔で、白猪真成を見上げた。それから大きな口を開けてからからと笑うと、急に声を潜めた。
「連れていけないよ。優秀なら、なおさらだ。」
きょとんとした顔の5人を見渡しながら、藤原馬養は言葉を続けた。まるで、幼い広嗣に何かを言い聞かせているようだと思いながら言葉を続ける。
「もしかしたら、突然村人に襲われるかもしれない。役人だと嘘をつかれて賊に売り渡されてしまうかもしれない。もしかしたら、何か戦乱が起こって唐そのものが滅んでいるかもしれん。杞憂であってほしいけれどな。」
藤原馬養は、再び筆を動かして、手紙に自身の名を書き入れた。兄弟とよく似た力強い字である。
「もし俺たちになにかあったら、次の交渉役は君たちだ。だから残す。」
馬養は留学生たちを見つめた。祖父や父が作り上げ、そして兄たちが受け継ごうとしているこの国の未来。それを背負う若者たちだ。
「頼んだぞ。」
交渉はうまくいったらしい。白猪真成が興奮した様子でその瞬間を語るので、阿倍仲麻呂や下道真備も大体のあらましは知っている。
遣唐使船がたどり着いた時、村にはたまたま旅の僧侶がおり、読み書きの下手な村長と共に交渉にあたったそうだ。僧侶は藤原馬養の字を見て内容を理解すると、すぐに村人に役所へ走るように伝えてくれた。
それから村長たちは、遣唐使船が停泊し、水手たちが水や食料を積み込むのに協力してくれることになった。
早速、藤原馬養は水手たちに空になった水瓶をすべて下すように伝えた。まもなく、水手と村人たちが協力して井戸や川から水を汲み、煮沸しては水瓶に注ぎだした。
それから、村の女たちの手伝ってもらって、今まで塩水で洗っていた洗濯物を真水で洗わせてもらった。さらにしばらく塩水で磨いていた甲板にも真水がまかれた。塩が残っていると船が傷みやすくなってしまうらしい。
遣唐留学生たちも引っ張り出された。彼らは村の有力者だという老人たちに挨拶をし、様々な質問を受け、また村の古い自慢話を延々と聞く係だ。案内の若い村人はやや退屈そうな顔をしていたが、阿倍仲麻呂や下道真備は熱心に頷きながら聞いていた。
玄昉は例の僧侶に捕まり、何やら話し込んでいた。どうやら旅の僧は、日本から来た僧侶に興味を持ったらしい。玄昉の方は退屈そうに道端の猫を眺めていた。
白猪真成は藤原馬養の傍に控えることになり、村長や水手長と共に駆け回る藤原馬養について回った。
羽栗吉麻呂は水手たちと水汲みを手伝っていたが、言葉が通じるので重宝され、いつのまにか村の女たちに囲まれてにこにこ笑っているのを、通りすがりの白猪真成に目撃されている。
日が暮れる頃になって、立派な服を着た役人が到着した。藤原馬養もあわてて荷物の中から朝服を引っ張り出して礼をした。
「あの人、本当に藤原のお坊ちゃんなんだなぁ。」
と、これはある水手の言葉である。航海を始めてからというもの、藤原馬養は着物を着崩してばかりいたからだ。
役人が言うには、ここから蘇州までは1日ほどで行けるらしい。既に蘇州には他の3隻の遣唐使船の到着の知らせが届いていて、ちょうど付近の海沿いの村々に「日本の船が到着したら丁寧に対応すること」というお触れを出そうとしていたのだという。
他の遣唐使船もひとまず蘇州に集まるらしい。天気や波次第ではあったが、明日船出して良いということになった。
村人たちは、巨大な遣唐使船が明日には船出すると聞いて不満そうだった。異国からの客人に興味津々だったらしい。やがて、村長の一声で歓迎と別れの宴が始まった。あまり豪勢な食事ではなかったが、精一杯のもてなしの料理が並んだ。
せっかくなので、船からも保存食をいくらか提供した。どうやら物珍しいものがあったらしく、さっそく村の女たちから質問攻めにあう。海の男たちの会話でもどうにもならなかったらしく、いつの間にか遣唐留学生たちは通訳として走り回る羽目になった。
「あーっ、だから拙僧らは人間だって。不老不死の仙人でも神様でも蓬莱でもねえって。だから突っついてくるな!」
と、特に玄昉は子どもたちに人気で、質問攻めにされた挙句、棒で突っつかれて不服そうだ。周囲の仲間たちは声をあげて笑った。
やがて宴も終わり、あたりには静けさが漂う。
遣唐使船に乗り込んだ約100人のうち、半分は村の中にあるさびれた寺院に寝床を用意してもらい、半分は船室で横になることになった。遣唐留学生は久しぶりに揺れない寝床で夜を過ごすことになった。
「うわぁ、仲麻呂、見て。」
「真成、どうかしたのか?」
寝室としてあてがわれたがらんとした部屋の窓から、真成が空を見上げている。
「月が見えるよ。」
「月なんて、どこでも見えるだろう。」
「不思議だよね、都で見た月と同じだよ。」
「ああ、本当だな。」
平城京を共に駆け回った幼馴染の2人は、いつまでもその月を見上げていた。
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