胡馬依北風 越鳥巣南枝【日本】
請令諸公卿議定遣唐使進止状 菅原道眞
右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載之具矣更告不朝之問終停入唐之人中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代馬越鳥豈非習性臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或有遭賊遂亡身者唯未見至唐有難阻飢寒之悲如中瓘所申報未然之事推而可知臣等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否國之大事不獨爲身且陳欵誠伏請處分謹言
寛平六年九月十四日
大使參議勘解由次官從四位下兼守左大
辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某
これが、私にとって遣唐大使としての最初で最後の仕事になった。
約300年行われてきた中国大陸との交流の歴史を、図らずも自らの手で断ち切ってしまった。未来の若者を守ることのできた達成感なのか、それとも決死の覚悟で海を渡った先人たちへの罪悪感なのか。この決断が”和をもって貴しとなす”この国の繁栄をもたらすだろうという希望にも思え、海の向こうの素晴らしいものに出会える機会を消してしまった後悔にも感じた。
とにかく、この胸いっぱいに染み渡るような気持ちを、どう言葉にしていいかわからなかったのをよく覚えている。
寛平6年、西暦894年の9月の出来事であった。外を見れば、平安の都の景色はすっかり秋らしくなっていて、月の光が静かにあたりを照らしていた。
この頃の私は、漢詩の才を認められて”詩臣”として宇多帝に仕え、参議にまで昇り詰めていた。さらに、藤原北家の御曹司である藤原時平と共に、皇太子の敦仁親王、後の醍醐帝の教育も任されていた。
天命を知る50歳を迎えたが、この数年後に帝や左大臣に次ぐ権力を持つ右大臣にまで昇り、無実の罪で九州の大宰府に左遷させられ、怨霊となりはて、長い時を経て”学問の神様”と崇められるなどとは、まだ想像することすらできなかった。
我が菅原の氏族は、元は土師という氏を名乗る一族だった。
この国で天皇に仕える者たちは皆、遠い先祖が誰であったかを伝える氏を名に添える。私の遠い祖先は、天穂日命という神だったらしい。輝く太陽の女神である天照大御神と、その弟で荒ぶる海の神である須佐之男命が誓約をしたときに生まれた神だ。
その子孫たちは出雲のあたりに住むようになり、大王に仕えるようになった。やがて子孫の1人である野見宿祢が、大王に仕えていた者たちの殉死の習慣をやめさせ、埴輪を作り出したことをきっかけに、土師氏は葬送の儀式を司る一族として大王に仕えるようになった。
しかし私の先祖たちは、その土師の氏を捨てる決意をした。天応元年、西暦781年のことである。
仏教の火葬の習慣が広まったうえに、私が生まれる100年ほど前に中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新を推し進めた時に、葬送の儀式を簡略なものにするように命じたことで、土師氏の勢いが失われつつあったからである。
この中大兄皇子は後に天智天皇として即位する。天智帝は、当時まだ倭国と呼ばれていた日本の改革に生きることになった。この大化の改新は、後の明治維新に匹敵する変化であったと、私は考えている。
当時、海を隔てた大陸では隋に代わって唐という新たな大国が誕生し、東アジアの国々を呑み込もうとしていた。高句麗でも百済でも新羅でも、海に守られた倭国でも、呑み込まれまいと必死の改革が行われていた。
倭国では、かつてあの聖徳太子と共に大陸の進んだ文化を採り入れた蘇我馬子の孫の蘇我入鹿が、自らに権力を集中させることで富国強兵を推し進めようとしていた。だが大王家よりも勢いをつけていく蘇我家に天智帝は異を唱え、蘇我馬子を殺して新たな改革を始めた。聖徳太子の命を受けて遣隋使として海を渡り、新しく生まれた唐の勢いを肌で感じて倭国に帰国した留学生たちが、大化の改新を支えたという。
だが、唐の勢いはすさまじく、隣国の高句麗と百済はあっという間に滅ぼされていった。新羅は生き残るために宿敵である唐と手を組むことにした。倭国は、友好関係を築いていた百済の滅亡に恐れおののき、彼らを救おうと天智帝は熟田津から軍船を送った。西暦663年、白村江の戦いである。
倭国は負けた。多くの臣下を失った天智帝は、慌てて九州の大宰府に水城という巨大な堀を掘って守りを固め、百済から逃げてきた人々に頼んで西国各地に山城を作らせて防備を固めた。東国の人々に武器を持たせて防人とし、水城や山城を守らせた。大陸の進んだ文化を採り入れようと海のそばに作られた難波の都は、危険であるからと捨て、山奥の琵琶の湖のほとりに近江大津宮という新しい都を作った。それほどに、唐の存在は大きなものであった。
その後、天智帝の弟の天武帝と、その妃であり天智帝の娘である持統帝のもとで、倭国の改革は一層進み、ようやく「日本」という新たな国号を名乗って、再び唐との交流に踏み切れるようになったのだ。
これらの改革を陰で支えたのが、中大兄皇子の盟友であり忠臣であった中臣鎌足と、その子孫たちだ。彼らは天智帝に与えられた藤原氏という名の通り、絡み合いながら花を咲かせる藤の花のように天皇家との結びつきを深め、1000年も先の世になっても歴史に名を残し続ける、随一の臣下の氏族となった。
私の生きた平安の世は、藤原北家の世でもあった。彼らは、中臣鎌足の次男の藤原不比等の次男である藤原房前を祖とする一族だ。私を陥れ、都から遠く離れた大宰府に流した藤原時平もこの一族の者であり、生まれながらに栄達を約束されていた男であった。
このような世の中で、神代から受け継がれてきた土師の氏をあえて捨てた私の曾祖父は、菅原氏を名乗った。
私の曾祖父の菅原古人は、大陸から伝わってきた儒学の教えに詳しく、平安の都を作り上げたあの桓武帝の侍講として帝に儒学を教えたのだという。曾祖父は朝廷に仕える官人として決して豊かではない生活の中で自らの子供たちに学問を進めたらしい。
こうして、私の祖父の菅原清公は勉学に励み、20歳の時に大学寮に合格した。大学寮とは朝廷に仕える官僚を育てる場だ。ここで優秀な成績を修めた祖父は、遣唐判官として唐に渡ることになった。延暦21年、西暦803年のことだ。約20年ぶりの遣唐使で、様々な困難に見舞われたが、祖父は無事に帰国している。
この時、祖父と共に唐に渡った人々の名前を、幼いころの私は驚きと憧れで胸をいっぱいにしながら聞いていた。唐から新たな仏教の教えを持ち帰り比叡山延暦寺を開いた最澄。同じく仏教の教えを持ち帰って高野山金剛峰寺を開いた空海。唐で柳宗元から書道を学び三筆としてもてはやされながら、藤原北家の藤原良房と対立した承和の変で謀反の罪を擦り付けられた橘逸勢。彼は中国語が苦手で苦労し、ついに言葉が分からなくても学ぶことのできる書道と箏にのめり込んでその道の第一人者となったのだという。
その後、祖父は嵯峨帝に仕え、儒学の専門的な知識を持った官僚として儀式の整備や漢詩集の編纂などに携わった。菅原といえば「学問」の家だという礎を築いたのは、私の祖父の菅原清公だろう。
私の父の菅原是善も非常に優秀であった。文章博士として若い官僚の教育に携わり、「紀伝道」の研究では随一の学者だった。紀伝道とは、遠い昔に中国で書かれた、司馬遷の『史記』、班固の『漢書』、昭明太子の『文選』などの歴史書や詩文を学ぶ学問だ。さらに藤原良房たち藤原家からも信用され、参議にまで昇りつめた。
そんな父に厳しく学問を教わりながら、私も祖父や父と同じ道をたどった。
相次ぐ戦乱で混乱状態だという噂の唐から便りが届いたのは、 寛平6年、西暦894年の5月であった。
私の時代になると、国家主導の遣唐使はもはや過去のものになっていた。唐は戦乱の中で衰え、その旅路はより一層危険なものとなっていた。私の祖父と同世代の小野篁という人は唐に渡るのを拒否して船に乗らなかったという。「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」という有名な歌は、罰せられて流刑になる時に詠んだものらしい。
それでも、この国の人々は海の向こうから来るものに憧れをいだき続けた。
かくいう私も、紀伝道を学ぶ学者として、海の向こうからやってくる書物を欲してやまなかった。この歴史書の舞台になった地をこの目で見たいという密かな願いはくすぶり続けていた。項羽が楚の歌を聞いて絶望した戦場や、班超が駆け回った西域の地に実際に立ってみたかった。”詩聖”杜甫や”詩仙”李白、そしてあの白居易たちの書き残したものを余すことなく読みたかった。
私が宇多帝に重用され身に余る出世に辟易としていると、人々は私の名前をあの吉備真備と並べて書くようになった。学者からここまで身を立てたからだという。それを聞くたびに、私は胸の奥で密かに唐に渡った自分自身の姿を想像した。長安で名だたる詩人たちの喝さいを浴び、「吉備真備や阿倍仲麻呂も素晴らしかったが、この菅原道真こそが日本一、いや世界一だ」と異国に名をとどろかす自分自身の姿を思い浮かべては、ひとりため息をついた。今、長安は荒れ果てていて、名だたる詩人たちも皆彼岸に旅立ったと聞く。今、海を渡っても己の欲する”盛唐”はない。それでも憧れは消えなかった。
そんな人々の欲を満たすべく、商人たちの船が頻繁に行き来するようになり、遣唐使の代わりに唐の情報や文物を運び続けた。そして先日、その商人の1人である王訥が、唐で仏教の教えを学んでいるという日本人の僧の中瓘の手紙を持って、平安の都にやってきた。
手紙には、唐の温州刺史の朱褒から、遣唐使が途絶えている件について問い合わせがあったという件が書いてあった。しかし中瓘は同じ手紙に唐の混乱ぶりも書き加え、遣唐使の停止を提案してきた。私も中瓘の意見に賛同した。というよりも、頷かざるを得なかった。
ただ時の帝が、あの宇多帝であったことが、事態をややこしくした。
宇多帝は、光孝帝の第七皇子である。母は桓武帝の孫にあたる班子女王で皇族だ。つまり、久方ぶりの藤原家を外戚に持たない天皇であった。しかも一度は皇位を諦め、皇族から抜けて臣下の身分に下る臣籍降下をして源の氏を名乗ったこともある、異色の経歴の持ち主でもあった。そんな異色の天皇であった宇多帝は妙な行動力に満ち溢れており、積極的に政治の改革も行った。菅原家の私が、あの藤原家に並ぶほど出世できたのも、宇多帝の行動力あってこそだったのだろう。
さて、宇多帝は遣唐使の派遣に興味を持ってしまった。漢詩に関心を持ち、桓武帝や嵯峨帝に憧れる帝のことだ。殿上の間でもある程度は予想していたが、案の定、帝は遣唐使の計画を立てはじめた。そして私の祖父が唐に渡った時の遣唐使の記録を熱心に読み込んだらしく、延暦21年の遣唐使の子孫たちを笑顔で眺めるようになった。そして、私は予想通り遣唐大使に任ぜられたのだった。
当然、遣唐使派遣計画に賛同した臣下は誰もいない。ほぼ宇多帝のぼんやりした気分で決まったようなものだった。早速、四方八方から真っ青な顔の遣唐使候補たちが集まってきた。どうしても私が行かねばならないのであれば決死の覚悟で危険な荒波を渡るつもりだったが、どうやらそうでもないらしい。
そこで、私は遣唐使派遣計画をもう一度検討し直すように進言することにした。おそらく遣唐使はこのまま停止になり、私は遣唐使を終わらせた人物として名を残すのだろう。私の名に賞賛が加わるのか批判が加わるのかは、後の世の人が決めることである。
歴史書を研究し編纂する身として、唐に渡った人々のことはよく知っていた。幼いころから、彼らは私の憧れであった。そんな彼らが必死に繋いできた”遣唐使”という役職を、私はこの手で消し去ろうとしている。
故郷を離れ危険な船旅を生き抜き、異国で学んですべてを持ち帰ってくれた先人たち。彼らの命がけの旅のおかげで、立派な唐の隣にある未熟な若木だった日本は、大空に枝をいっぱいに伸ばす大樹へ成長しようとしている。
しかし、故郷に帰ることが叶わず異国で亡くなった人や、嵐に巻き込まれて深い海の底に沈んだ人も少なくはない。彼らや彼らの家族の絶望を想うと、言葉も出なかった。
それでも、彼らが異国の地でも、私たちと同じように笑ったり泣いたり、毎日を精一杯生きていたということを、私は知っていた。遣唐使という役職は消し去ることになっても、彼らの生きた日々だけは未来に残したかった。
私はもう一度、己の書いた「諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめんことを請ふの状」の文章を口の中でかみしめる。本当にこれでよかったのかと、私は1000年以上も悩み続けていた。それから、月光に照らされて静かに輝くあの日の秋の庭を思い出した。
そして、かつて異国の地で月を見上げて故郷の月のことを詠んだ人がいたことを思い出した。異国の友に”明月”と称えられ、祖国の歴史書に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と書き残されながら、遂に帰国の叶わなかった阿倍仲麻呂。彼は、いや彼だけではない、異国の地に渡った彼らは、どんな想いで月を見上げていたのだろうか。
最後の遣唐大使として、私は”大臣と朝衡”の2人が見上げた月の美しさを書き残したいと思う。
同じ年に唐に渡り「唐で名を上げたのはただ二人」と称えられた双璧でありながら、帰国して聖武帝の日本で破格の出世を遂げた吉備真備と、長安に残って玄宗皇帝の唐で破格の出世を遂げた阿倍仲麻呂。故郷に葬られた吉備真備と、異国に葬られた阿倍仲麻呂。見上げる月は同じでも、山や川は遠く離れていた。遠く離れていたけれど、同じ月を見上げていた。
今からこの菅原道真が語るのは、吉備真備と阿倍仲麻呂の生き様である。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。ゆっくり更新していきますので、よろしくお願いいたします。
参考文献:
・菅原道真「請令諸公卿議定遣唐使進止状」
・菅原道真「八月十五夜、月前話舊、各分一字」
・滝川幸司 『菅原道真』 中公新書 2019年
・倉本一宏 『藤原氏-権力中枢の一族』 中公新書 2017年
など