ひさかたの月は照りたり暇なく海人の漁りは灯し合へり見ゆ【日本】
万葉集の博多湾のあたりで詠まれた歌です。
大陸の乾いた鋭い風が、海の湿り気を帯びて優しく吹き抜けていく。海辺に座り込んで月をぼんやりと見上げた青年たちの黒髪が、風に揺れた。
「もう少し、静かにできないのだろうか。」
阿倍仲麻呂が、遠くのかがり火の周囲で歌い踊っている一団を、少しいらだった表情で一瞥しながら言った。
今夜は、九州をまとめ上げる大宰府の目の前の博多湾の浜辺で、遣唐使や船乗りたちの出立を祝う宴の日である。豪華な料理や酒が振舞われ、向こうの方では若い娘たちが踊っている。あちこちでかがり火がたかれ、皆すっかり酔いしれていた。
「船出する前に、水手たちが踊っているんですよ。」
何やら手を動かしていた羽栗吉麻呂が、手を止めてかがり火の一団を見つめた。青年たちが食べつくした食器を後で片づけやすいようにまとめていたらしい。
遣唐使の一行が都を出発して、早くも十数日が経っている。都を発った彼らは住吉で大きな4つの船に乗り込むと、瀬戸内海を西へと進んでいた。
途中、下道真備の故郷である吉備国にも停泊し、遣唐留学生たちは真金吹く”吉備”の人々と、つかの間の交流を楽しんだ。
真備にとっては、これから10年以上は踏めないであろう故郷の土を踏む最後の時間でもあった。
吉備下道の氏族の人々は、真備を見送ろうと港に勢ぞろいしていた。無論、その中には真備の父である下道圀勝もいた。弟の乙吉備、直事、廣も、兄への憧れと寂しさでうるんだ瞳をこちらに向けていた。
吉備の港では、一晩だけ停泊する遣唐使船の人々のために、豪勢な宴が用意されていた。遣唐留学生の青年たちは、吉備下道の人々に簡単な挨拶をすると、後は家族の時間にしてもらうと早々と船に戻った。
翌朝、下道真備はうっすら赤い目をして船に戻ってきた。まだ20代初めの青年は、だんだんと小さくなっていく故郷の山々を、筑紫の大宰府に向けて波をかき分けて進む船の上から、いつまでも眺めていた。
母が作ってくれたのだという黍団子を頬張る真備の目から、一粒の涙が零れ落ちたことを、他の青年たちは見て見ぬふりをしたものだ。
かがり火が生み出した怪しい影が、月夜に歌い踊っている様子を、遣唐留学生たちは遠巻きに眺めた。
「真ん中の男が持衰ってところか。」
下道真備が、呆れた顔でつぶやいた。
「持衰って、何だ?」
木の器から水を飲み下していた玄昉が、目をギロリとさせて尋ねた。
「魏の時代の歴史書に書かれているんだよ。”倭国の人は、奇妙な占い師を船に乗せる”ってね。」
白猪真成は呆れたように笑って見せると、流暢な異国の言葉で話を続けた。
「其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。」
「倭の国の者が海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、虱が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰と名付ける。あっていますか?」
「さすが、吉麻呂。一度聞いただけで訳せるなんて。」
真成は、にやりと笑って吉麻呂の肩を叩いた。
「仲麻呂。昔、一緒に魏志倭人伝を読んだだろう? 続きを覚えているか?」
当然だと言わんばかりのすました顔で、仲麻呂は口を開く。
「若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。」
吉麻呂は手を止めて集中して耳を傾けていたが、すぐに口を開いた。
「えっと……もし行く者が吉善であれば、生口や財物を与えるが、もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである……。その魏志倭人伝という本を読んだことがないので、少し自信がないですが……。」
「正解。少なくとも、小さい頃の僕らよりずっといい翻訳だ。」
真成の言葉に、仲麻呂も大きく頷いた。唐の言葉が分かる玄昉も、感心した顔で頷いている。
「ああ、さすがだ。大学寮はおろか、平城京にもこれほどの唐の言葉の使い手はいない。」
仲麻呂は少し興奮した口調で言葉を続けた。
「大学寮でも、初めて聞いた文章をこんなにきれいに翻訳できるのは、海の向こうから渡ってきた氏族で、幼いころから異国の言葉を使ってきた人たちばかりなんだ。この白猪真成とか百済王敬福とか。あっ、そうそう、敬福は、あの百済の王家の血を引く氏族で、僕らとちょうど同い年なんだ。優秀だから遣唐留学生に選ばれても良かったかもしれないけれど、ご先祖様が唐に滅ぼされてしまった王族だからね……。」
「仲麻呂、いつまでしゃべり続けるつもりだ?」
「ごめん、真成。つい都を思い出してしまって……。」
仲麻呂は二カッと笑いながら、さらに言葉を続けた。
「それで、吉麻呂はいったいどうやって唐の言葉を身に着けたんだ?」
かがり火を囲んで歌い踊っている水手たちの声が一段と大きくなった。それと同時に、彼らの影も激しく揺らめく。
友人たちとかがり火を何気なく眺めていた真備は、影と共に羽栗吉麻呂の瞳も怪しく揺らめいたことに気づいて、思わず声を上げそうになった。だが、吉麻呂はいつものような整った笑顔で口を開いた。怪しげな光は、もうそこにはなかった。
「まぁ、いろいろあったんですよ。」
吉麻呂はそう言って笑うように息を吐きだした。片手に持っていた木の器が揺れて、コロコロと音を立てる。
「その器、受け取りますよ。」
不意に後ろから声が聞こえて、遣唐留学生たちは後ろを振り返った。
そこには1人の青年が壺を片手に立ち尽くしていた。かがり火の怪しげな光に青年の顔がぼんやりと浮かび上がる。取り立てて特徴のない顔で、どこにでもいるごく普通の青年だ。薄く黄ばんだ衣に黒く染めた帯、帯には布にくるまった短刀が刺さっている。
「あっ、ありがとうございます。」
吉麻呂は丁寧に頭を下げながら器を渡した。
「このあたりの村の人ですか?」
「ええ、そうです。」
潮風にくすんだ支子色の青年は、少しくたびれた声で返事を返した。
「畑仕事が忙しい季節に、申し訳ないです。まだ器はあるから、一緒に持っていきますよ。」
吉麻呂はそう言ってゆっくりと立ち上がり、慣れた手つきで器を持ち上げた。まるでひと月ほど前には吉麻呂の方がが支子色の衣を着ていたかのようだ。
「こんな時期に大宰府から呼び出されたんじゃあ、たまったもんじゃないでしょう?」
「いえいえ、そのようなことは……。」
「構いませんよ。俺だってついこの間まで中男で、租や調が間に合わないことをどう里長に言い訳しようかばっかり考えていたんだ。」
「えっ、お役人様じゃなかと?」
支子色の青年は、思わず筑紫の言葉で聞き返した。
「俺はそうや。こっちの方々は都のお偉いさんやけど、俺はそこらの農民やで。」
羽栗吉麻呂も、思わず故郷の山背国の訛りを交えて笑った。
「いやぁ、よかった。立派な貴族様に器の片づけを手伝わせてしまって、後で里長にどう怒鳴られるかと、内心びくびくしとったばい。」
「すまんかったな。」
「いやいや。それで、お国はどちらで?」
「畿内の山背国。ここから船で何日も東に行ったところや。」
「へぇ、それで農民からお役人様に?」
「いやいや、この遣唐留学生の皆様の付き人として選ばれただけやで。せやから、故郷に戻ったら、また租とか調とかに追われる日々や。」
呆気に取られている留学生たちをよそに、吉麻呂と支子色の青年はからからと笑った。
下道真備は、からからと笑う青年たちを酒でぼんやりとした瞳で眺めていた。故郷の訛りで屈託のない笑顔を浮かべる羽栗吉麻呂を見るのは初めてだ。明るい驚きと共に、まだ吉麻呂が遣唐留学生たちに心を許していないのだという哀しみがちくりと胸を刺す。
「せや、すっかり紹介するのを忘れとったわ。」
下道真備の小さな悩みをよそに、吉麻呂はくるりと後ろを振り返ると、海辺の広場に座り込んだ遣唐留学生たちを指さした。
「こちらが阿倍仲麻呂さん。中納言阿倍宿奈麻呂殿の甥御様や。」
「中納言って……偉い人?」
「ああ、そうや。帝のそばで政をする偉いお方なんやで。」
「はぁ、大宰府のお役人様よりも偉いと?」
「ええと、ああ、こう言った方が分かりやすいかも。阿倍比羅夫殿の名前は聞いたことあるやろ?」
「阿倍比羅夫ってお役人様か?」
「白村江の戦の時に、戦の船を率いたお方だ。」
「……ああ、強いお役人様がいたと祖父から聞いてるばい。」
「そのお方のお孫様だ。とても優秀な留学生様で、海の向こうの唐の国に行くことになったんだ。」
「そりゃあ、すごい。」
支子色の青年は、乾いた声で頷いた。
「それで、こちらの方は白猪真成殿。海の向こうから渡ってきた人の子孫で、異国の言葉がとても上手だ。」
「はぁ、異国の……。」
「こちらの方は下道真備殿。吉備国の方で、とても優秀で、都でとても難しい試験とやらに合格したのだそうだ。」
「吉備国は聞いたことがあるばい。都との間にある大きな国っちゃね?」
支子色の青年は、今度は大きな声をあげた。
「ああ、そうや。それで、こちらの方は玄昉殿。偉いお寺で修行をしていて、仏の教えを学ぶために唐に渡ることになったそうや。」
4人は吉麻呂に紹介されるたびに軽く会釈をする。
「それで、てめえは何て言うんだ?」
地面に座り込んで鋭い目で支子色の青年を見上げていた玄昉が、面白そうに尋ねた。
「おい、玄昉。乱暴な言葉はよせ。」
真備が低い声で囁く。支子色の青年は一瞬ひるんだが、やがておもむろに口を開いた。
「俺は物部小野。あっちの川辺里っていうとことにに住んでるばい。」
「たぶん、同じくらいの歳だよね?」
真成が優しく丁寧な口調で尋ねた。
「えっと、来年から正丁になるば……なります。」
「じゃあ、僕らのが年下だ。今日は宴の準備で忙しいのかい?」
「さっきまでは忙しかったっちゃけど、今はもう大丈夫です。あまりものをいただけて、村の仲間たちも喜んでいます。」
「ねえ、もし時間があるならここで少し食べていきなよ。僕らも少しお腹いっぱいだし、筑紫まで来るのは初めてだから、いろいろな話も聞きたいし。」
真成の言葉に、小野は困ったような顔で吉麻呂を見つめた。
「いいんやで、小野さん。多治比県守殿も今日は無礼講やって言ってはったし、こういう時にうまいもんをたらふく食べんと、秋の里長の取り立てに耐え切れへんで。」
物部小野は、わざと故郷の訛りで話す羽栗吉麻呂の言葉に心を決めたらしい。手に持っていた空の器を脇に置くと、地面にどさりと座り込んだ。吉麻呂はにやりと笑って空の器を勧めた。
「ここにまだ酒が余っているんや。元は君たちが作った酒だ。遠慮せず飲んでくれ。」
小野は大きく頷くと、器を受け取った。それを見て、阿倍仲麻呂、白猪真成、下道真備、玄昉の4人も自分の盃を手に取った。吉麻呂は傍らの酒壺から酒をなみなみ注いだ。
「ほらほら小野さん、飲んでや。真成さん、顔が赤いけれど大丈夫ですか?」
「この焚火のせいだ。大丈夫だよ。それよりも仲麻呂、そろそろ水を飲んでおけ。船酔いと二日酔いは辛いぞ。」
「はいはい、仲麻呂さん。お水はこっちの壺ですよ。」
「おっと、拙僧は魚は食えねぇ。小野……って言ったっけ? このうまそうな魚を食ってくれよ。」
青年たちの、賑やかな宴が始まる。まるで物部小野もこの船に乗り込んだ留学生であったかのように、彼らの間の壁は消えていった。
「……俺は吉備の者じゃが、筑紫までは行かなんだ。ここらは、住みやすいんか?」
若い宴の最中、下道真備は盃を片手に物部小野の方を向いて話しかけた。
下道真備がわざと故郷の訛りで話しかけているのを、阿倍仲麻呂は少し驚いた顔で見つめた。
仲麻呂は、真備がここまで故郷の言葉で話しているのを聞いたことがない。まだ出会ってから1年ほどしか経っていないからなのか、真備が普段は故郷の訛りを使わないよう気を配っているからなのか、それとも真備が仲麻呂にまだ心を開いていないからなのか、仲麻呂にはよくわからなかった。
「……他の土地に行ったことがないけん、ようわからん。」
小野は、そう言って目の前に広がる博多の海を見つめた。
月が照り輝いている。月光に群青色の波が揺らめている。遠くの浜辺や山々が黒々と横たわっている。漁師の釣り船の灯が、星のように波間に瞬いていた。
「ばってん、生まれた時から家族でずっと住んでいる場所ばい。」
物部小野の声は、この土地で生きる者の誇りと、どこか諦めたような哀しさで潤んでいた。
下道真備は、支子色の青年の横顔をちらりと見て、故郷の村の人々を思い出していた。吉備の国で生きている人々のことだ。
生きることは、決して楽なことではない。
土地の指導者の末裔である真備は、”国”というものに納めなくてはいけない税が彼らの暮らしに重くのしかかっていることを、よく知っている。汗水たらしてようやく手に入れた稲穂も、毎日少しずつ織り上げた布も、あっという間に取り上げられてしまう。加えて、遠くまで働きに行ったり、兵士になって戦ったりしなくてはいけない。
そうやって人々が命を削りだして差し出したものを食らって、青年たちは海を渡るのだ。
真備たちが幼いころから勉学に励むことができたのも、遣唐留学生として旅に出ることができるのも、この国のたくさんの人々が削りだして差し出した税があるからこそだ。
彼らは、生まれた地で働き続け死んでいく。けれど真備は、夢にまで見たはるか彼方の唐へ行く。
その残酷な現実が、この月明かりの下で共に酒を酌み交わした青年たちの間に横たわっていた。
「小野、君の家族は、どんな人なんだい?」
仲麻呂が身を乗り出して尋ねた。純粋な好奇心からだろう。だがその無邪気な好奇心の残酷さに、真備は思わず息をのんだ。
「おい、仲麻呂……。」
物部小野の顔がわずかに歪む。ほんのわずかではあったが、憎しみと悲しみがそこにはあった。
白猪真成と羽栗吉麻呂が、しまったという顔でちらりと真備の方を見てきた。玄昉は顔色一つ変えずに、相変わらずぞんざいな態度でこちらを見ていたが、その眼がカッと見開かれたのを、真備は見逃さなかった。
誰もが己の家族や故郷を誇れるわけではない。人は皆、他人にはわからない自分の家族だけの痛みを抱えている。それに軽々しく触れるということがどれほど残酷な行為かを、どうやら”夢追い人”の阿部仲麻呂はまだ理解できていないらしい。
「言いたくなかったら、言わなくたっていいさ。俺だって親友にも隠しごとのひとつやふたつある。」
「この真成って奴ぁ、故郷にけなげな幼馴染を隠していてなぁ!」
「ちょっと、今言わなくてもいいよね?」
「ああ?拙僧は真実を言っただけだが。」
白猪真成が咄嗟に声をかけ、玄昉が笑い飛ばした。2人の乾いた笑い声が波間に消えていく。少しばかり虚しい風景だと下道真備は感じていた。
物部小野は、黒々とした遠くの山を見つめながら、ぽつりと言葉を吐いた。
「……母は、私が幼いころに死にました。」
「それは、大変だっただろう。何があったんだい?」
「……事故だったそうです。」
「事故?」
仲麻呂が、少し気まずそうに聞き返す。小野は頷いて言葉を続けた。
「突然、崖が崩れたとか何とかで、母は死んで、父も大けがをしました。父は無事です。でも自分の足で歩けなくなってしまいました。」
小野は、まるで偉い役人にでも話すかのように淡々と言葉を紡いだ。
「幸い、祖父母も元気ですし、叔父や叔母たちも隣に住んでいます。親戚にも助けてもらって、俺と弟たちは何とか生きてこれました。」
「それは……でも、お父さんが生きていてよかったですね。」
仲麻呂が、気まずそうな笑みを浮かべた。
だが、下道真備は支子色の青年の瞳に影が差したのをはっきりと見届けて、思わず息をのんだ。世間知らずの”夢追い人”が触れてはいけない家族の秘密に触れてしまったのだ。
「おい、真備。あいつの親父さんって……。」
隣に座る下道真備がわずかに息をのんだことに気づいた玄昉が、物部小野に聞こえないくらい小さな声で囁いた。
「ああ、癈疾だ。」
真備もかすかなため息のような声で囁き返す。
この時代の日本に住む人間は、租・調・庸という税をおさめなくてはならない。この海辺の宴から15年ほど前に、藤原不比等の邸の一室で作り上げられた大宝の律令で定められた決まりだ。
だが、この”国民”としての義務である税を免除される人々がいる。この国の支配者たる皇族と、都で働く官人たちだ。それから女性と奴婢も免除されている。
そして、何らかの理由で働くことのできない障害を抱えた人も、税を免除される。
癈疾は日常生活が困難なほどの病や障害を抱えた人に与えられる区分だ。税はすべて免除される。また、家族だけでは世話できなければ、里長や郡司も様々な手段で支援するよう律令に定められている。
中には、重い税から逃れようと、医学の心得のある者の前で大げさに体調の悪いふりをして見せて、なんとか癈疾の認定を受けようとする者もいるらしい。そういえば、私が讃岐国に赴任していた時も、都合が悪くなると体調を崩したようにふるまう者に何度か出くわしたものだ。あまりの逞しさに、呆れる前に感嘆の声をあげてしまったほどである。
だが、税を納めないということは”一人前の大人ではない”と蔑まれるも同義だ。癈疾とされた人々が、肩身の狭い思いをしているのは容易に想像できた。
加えて、税を納められないほどの病や障害を背負う人々が生きていくことは簡単ではない。食事を用意してもらい、着替えも手伝ってもらわなくてはならない。家族や村の支えが必要になる。
しかし、ただ生きていくだけで精一杯の日々の暮らしの中で、弱い立場の家族の世話までするのは辛いものだ。ましてや、遊び盛りの幼いころから体の不自由な父親や残された幼い弟たちの世話をしなくてはならない日々は、悩ましいものであっただろう。
少なくとも地方の支配者の末裔である下道真備や様々な弱者を受け入れる寺院で修行していた玄昉は、物部小野の苦しい思春期を想像することができた。
物部小野は、目の前に広がる博多の海をじっと見つめていた。
「まぁ、そうですね……。」
そう呟くように仲麻呂に答えた物部小野の顔は、暗がりの中でよく見えない。だが、その瞳が不思議なきらめきを一瞬見せたような気がして、下道真備は思わず身震いをした。
「……ばってん、あんな親父でも、いなくなったら泣くんでしょうね。」
そのあとすぐ、物部小野は村の者に呼ばれて若い宴から足早に去ってしまった。やがて宴は解散となり、港のほとりの大宰府が管轄する宿舎で睡眠をむさぼった後、積み込めるだけの荷物を積み込んで予定通り船出することとなった。
結局、阿倍仲麻呂は己の考えの浅はかさを詫びることができなかったし、下道真備も物部小野が最後に見せた瞳のきらめきの意味を確かめることができなかったのだ。
さて、時の大宰帥は多治比池守である。今回の遣唐押使の多治比縣守の兄だ。久しぶりの兄弟の再会と言うこともあり、大宰帥が自ら見送りに出ているとあって、港には大宰府の役人や騒ぎを聞きつけた漁民といった大勢の見送りがひしめいていた。
「なァ、あの物部小野って奴、その辺にいねえか?」
荷物の積み込みの間、港の片隅に座り込んでいた玄昉がぽつりとつぶやいた。玄昉も大変口が悪いが、どうやら彼なりに小野のことを心配しているらしい。
「彼には申し訳ないことをしてしまったな。」
下道真備もぼんやりと呟いた。水夫たちが荷物を積み込もうと大騒ぎをしていて、港は耳を塞ぎたくなるほどの賑やかさだ。真備の後悔は、あっという間にかき消されていく。
その向かいでは阿倍仲麻呂が落ち込んだ顔で座り込んでいる。地面の石ころを拾いあげて、あてもなく放り投げては掴んでいる。どうやら彼もまた、自分の浅はかさを思い悩んでいるらしい。その横で白猪真成がぼんやりと水夫たちを眺めている。
「……謝られる方が困りますよ。きっと。」
不意にあっけらかんとした声が頭上から響いてきた。
真備が上を見上げると、ちょうど羽栗吉麻呂が水の入った竹筒を腕一杯に抱えて戻ってきたところだった。
「あなた方からしたら、生まれた土地で、一生田んぼを耕して生きて死ぬなんて可哀想だと思うのかもしれませんがね……。」
吉麻呂はそう言葉を続けながら、荷物を縛ってまとめている紐に竹筒を器用に押し込み始めた。
「きっと、小野さんからしたら、故郷や家族から離れてわざわざ異国に学びに行かなくてはならないあなた方の方が、よっぽど可哀想なんです。俺だってそう思いますよ。」
4人の遣唐留学生は、思わず顔を見合わせた。
ここまでの旅の間、羽栗吉麻呂は一言も自分の話をしなかった。彼が遣唐留学生に仕える従者になる以前は何をしていたのかも、なぜあまり余裕のある生活をしていたとは思えない吉麻呂が、唐の言葉をここまで華麗に操れるのかも、何もわからなかったのだ。
とはいえ、吉麻呂には悲壮感が全くなかった。そのため、4人とも聞くに聞けずにここまで来てしまったのである。
「吉麻呂……。」
「でも、悪くないですよね。こう、夢を追いかけて海を渡る若者がこの国にいるっていうのが。なんだか自分まで夢を追いかけているような気がして。」
そう言いながら荷物を詳しく確認している吉麻呂を、遣唐留学生たちはじっと見つめていた。
結局、羽栗吉麻呂の謎も物部小野への後悔も解決できないまま、青年たちは巨大な遣唐使船に乗り込んで船出することとなった。あれほど待ち望んでいた船出であったのに、あまり味のない船出になってしまったようだ。阿倍仲麻呂にいたっては、地面で拾い上げた何の変哲もない石ころを片手に握りしめたままだった。
なお、よく知られている通り、阿倍仲麻呂と井真成が祖国の土を踏むことは二度とない。彼らにとっては、これが母国日本との最期の別れであった。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
なお、この話で登場する物部小野は実在の人物です。大宝2年の筑前国の戸籍に残された情報から、「もし物部小野が無事成長していて、阿倍仲麻呂や吉備真備とニアミスしていたら」と想像して書きました。
実際に物部小野がどのような人生を送っていたかはわかりません。けれど、きっと彼は人生のどこかで遣唐使の船を見ていたと思います。それこそ貧窮問答歌のように厳しい税にあえぐ民衆にとって、遣唐使とはいったい何だったんだろう、と考えながら書きました。
なお、戸籍は奈良国立博物館のデータベースで全部読むことができます。小野のお父さんや弟さんの名前もわかります。調べてみたい方はぜひ調べてみてください。
筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡 (紙背)千部法華経校帳断簡
https://www.narahaku.go.jp/collection/871-0.html




