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みをつくし恋ふるしるしにここまでも めぐり逢ひけるえには深しな【日本】

タイトルは、源氏物語「澪標」の中で登場する和歌です。

 平城京を旅立った遣唐使の一行は、住吉津すみのえのつのほとりの住吉すみよし大社に航海の無事を祈るべく、再び豪華な行列を作って参道を歩いて行った。




 住吉大社はこの国の海の守り神だ。

 船乗りを守るため、海のほとりに鎮座している。そのため鳥居のすぐ向こうには群青色の海が広がっていた。

 この参詣の後、一行は住吉津すみのえのつから巨大な4つの船に乗る。それから難波津なにわのつ、その先の瀬戸内海を経由して、東シナ海に船出する予定だった。




 賑やかに詣でる人々の気配がなぎさに満ちている。遣唐使たちは、素晴らしい神宝を捧げ持ち、楽器を持った人々を連れ、皆の装束を整え、容貌の素晴らしい若者を目立つ位置に並べ、国の威信をかけて豪華な行列を作り上げていた。

「いったい、誰が詣でているの?」

 ちょうどその時偶然、小舟で鳥居までやってきた女が、あまりの行列に驚いて傍にいた男に聞いた。

「遣唐使の皆様が詣でていらっしゃるのを、知らないのか?」

 あまり身分の高くなさそうな男は、心地よさげに笑って答える。

「あら、どうしましょう。そんなおめでたい日に、私みたいな女がいては申し訳ないわ。」

 女は少し悲し気に呟くと、落ち込んだ様子で小舟に座り込んでしまった。そのあたりの草花で染めたらしい淡い紅色の衣は女によく似合っていたが、遣唐使たちの華やかな色には遠く及ばない。

「どこの誰だか知らんが、いいじゃねえか。航海の無事を一緒に祈ってやろうよ。」

 行列には遣唐使だけでなく、住吉で待ち構えていた船乗りたちも加わっていた。さらに平城京からの護衛や荷物運びの人々も加わっている。さらには「我も我も」と周囲の農民や漁民たちも加わって、一段と行列は華やいでいた。







 この遣唐使を率いる遣唐押使は、多治比県守たじひのあがたもりだ。この時、もうすぐ50歳になろうとしていた。

 多治比たじひの氏族の先祖は、第28代の宣化せんか帝である。県守の父の多治比嶋たじひのしまは、壬申の乱の後に頭角を現し、臣下で最高位の右大臣にまで昇りつめた。しまの死後にその地位を引き継いだのが藤原不比等ふじわらのふひとである。

 多治比県守は三男であった。

 長兄の多治比池守たじひのいけもりは、かつて阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろと共に造平城京司長官として平城京を作り上げる責任者を務め、現在は大宰帥だざいのそちとして九州の責任者を任されている。次兄の多治比水守たじひのみずもりは数年前に病で亡くなっているが、心優しい良い兄であった。

 弟の多治比広成たじひのひろなりは地方官を歴任中、もう1人の弟の多治比広足たじひのひろたりももうすぐ何かしらの役職に就くという噂だ。

 今回、多治比県守たじひのあがたもりを推薦したのは、前回の遣唐使を率いた粟田真人あわたのまひとらしい。正確に言うと、真人の腹心の部下であった山上憶良やまのうえのおくらだという話だ。

 多治比の一族は和歌が好きなものが多い。残念ながら才能にはあまり恵まれなかったが、父の嶋は柿本人麻呂かきのもとのひとまろなどの歌人とかなり積極的に交流していたらしい。弟の広成ひろなりも和歌に関心があるらしく、和歌が上手だと評判の山上憶良やまのうえのおくらと時々手紙のやり取りをしているらしかった。どうやらその弟から兄の名前が出て、興味を持った山上憶良が粟田真人に推薦してしまったらしい。

 最も、県守あがたもりも弟を責められない。というのは、彼もまた和歌が上手だと評判の大伴旅人おおとものたびとと親しくしているからだ。思えば、和歌の話で盛り上がったのが親しくなるきっかけであった。やがて家族ぐるみで交流するようになり、ついには娘を旅人たびとの嫡男に嫁がせた。大伴旅人から山上憶良、そして粟田真人へと推薦されてしまったのだろう。

 無論、多治比県守も唐に憧れをいだいている奈良の貴族の1人だ。海を渡ってみたいという夢が全くなかったわけではない。遣唐押使の役目をありがたく引き受けることにした。

 だがまだ若い子どもたちを日本に残していくことに、不安も感じていた。多治比県守は、期待と不安が混ざった表情で住吉大社の参道を進んでいた。




 多治比県守を支える遣唐大使は大伴山守おおとものやまもりだ。元は阿倍安麻呂あべのやすまろに託された役職であったが、阿倍の氏族が揃いにそろって「病に苦しんでいるので海を渡れない」と申し出て来たので、急遽人事をやり直すことになったのだ。

 大伴山守は、代々朝廷に武を持って仕えた氏族に連なる者で、父の大伴長徳おおとものながとこは右大臣にまで昇りつめた貴族だ。父はかつて遣唐使を出迎える役割をしたこともある。

 なお、山守やまもりの兄の大伴安麻呂おおとものやすまろの嫡男、つまり山守の甥が、酒と和歌好きで有名な大伴旅人おおとものたびとである。その旅人には多治比県守の娘が嫁いでいる。つまり遣唐押使多治比県守とは親族縁者にあたった。

 なお、この娘の腹の中にいる赤子が大伴家持おおとものやかもちであることを、住吉大社の遣唐使たちはまだ知らない。後に『万葉集』をまとめ、飛鳥や奈良の人々の想いの込められたことを遠い未来に残した男だ。彼らの紡いだ言葉が、1300年後の元号の典拠になるなど、想像すらしていなかっただろう。




 遣唐副使は藤原馬養ふじわらのうまかいであった。

 まだ20代初めの若者であったが、父の藤原不比等ふじわらのふひとの地位と才能を存分に受け継ぎ、堂々と立ち振る舞っている。藤原や中臣の親族が噂するように、兄たちに比べると明るく気軽な性格で、異国に渡るにはぴったりの性格だ。若すぎる年齢と経験不足が心配されていたが、多治比県守や大伴山守に積極的に明るく話しかけに行き、すっかり可愛がられていた。

 豪華な行列の中でも、ひときわ若く華やかな馬養うまかいは、人々の注目を一身に集めていた。







 松原の深緑に花紅葉をこき散らかしたかのように濃くて薄く鮮やかな遣唐使たちの衣は、とても華やかで色の数を数えきれないほどだった。居合わせた農民や漁民たちも、服の裾の汚れを払ったり、紐を縛り直したりしたくなるほど華やかな行列だ。

 先ほどの女も、首を伸ばして行列を見物した。色とりどりの衣装の人々の中に、随分と若い一団がいる。

「きっと留学生るがくしょう様だ。これから10年や20年も異国で勉強するらしい。」

「もしかしたら二度と帰ってこれないかもしれない。いくら帰国後に出世が約束されていると言われてもなぁ。」

 女はぼんやりとした表情で、隣の男たちが何やら噂しているのを聞いていたが、その若者たちの1人の顔を見た瞬間、心臓が止まったような気持ちになった。

「……真成まなり?」

 女は慌てて目を凝らした。間違いなく、幼馴染の白猪真成しらいのまなりだ。

 白猪真成は官人の身分の者なので普段は都で暮らしていたが、時折先祖の故郷である河内国の親戚の家に顔を出して、百済から渡ってきた先祖の墓に詣でていた。墓参りの時には、あちこちの村で暮らす子孫たちが一堂に集まり、海の向こうから渡ってきた先祖たちの言葉や習慣を思い出す。そのため、白猪真成しらいのまなりは幼いころから共に井戸のそばで遊んだ仲である。

 だが、真成が大学寮に入ってからは急に忙しくなったということで滅多に河内国には顔を出さなくなり、しばらく会えていなかった。先日の親族の集まりで遣唐使の話題が出ていたが、まさか白猪真成が選ばれているとは思わなかった。

 女は咄嗟に見物客の群れから飛び出すと、あたりを見渡した。

 おそらく遣唐使たちはは神主の津守池吉の案内で社殿に詣で、神々に航海の無事を祈ると、鳥居の先の船に乗り込むはずだ。もう時間はない。だが他人の空似で片づけたくないという気持ちも膨れ上がっていった。

 ならば鳥居の先で待っていればいい。女は行列に背を向けて歩き出した。





「船に乗る前に、軽く腹ごしらえをしておいた方が良いぞ。揺れで気分が悪くなる。」

 渚で波の音をぼんやりと聞いている阿倍仲麻呂あべのなかまろに、下道真備しもつみちのまきびが話しかけた。

「さすが吉備の人ですね、真備さん。」

 遣唐留学生の従者である羽栗吉麻呂はぐりのよしまろが背負っていた荷物を地面に置きながら言った。

「あっちで、地元の人たちが握り飯を用意してくれています。取ってくるので、荷物をお願いしますね。」

 儀式が終わると、いよいよ船出だ。とはいえ、荷物の積み込みや水夫たちの準備もあるため、出航まで少し時間があるらしい。早々に船に乗り込む必要もないので、若者たちは港に座り込んでぼんやりと景色を眺めていることにした。吉麻呂が水夫たちをかき分けて向こうの方に消えていく。

「仲麻呂は、海見るのも初めてか?」

 けだるそうに地面にしゃがみこんだ玄昉げんぼうが、仲麻呂の顔を覗き込みながらにやりと笑った。

「幼いころに琵琶の海に連れて行ってもらったことがある。」

「本当に、こいつはお坊ちゃんだからな。わざわざ留学なんかしなくてもそれなりの官位につけただろうに。」

「よせよ、真成。正直に言うと、俺は出世なんてどうでもいい。唐に行ってみたかっただけだ。」

「お前、本当に夢追い人だよなぁ。」

 そこへ、竹の葉に包まれた握り飯を両手いっぱいに載せた吉麻呂よしまろが戻ってきた。

「ありがとう、吉麻呂。」

 仲麻呂は吉麻呂に礼を言うと、握り飯に手を伸ばした。真備、真成、玄昉もつられて手を伸ばす。吉麻呂も最後に残った大きな握り飯を大切そうに掴むと、握り飯に食らいついている真成の方を向いた。

「そういえば、真成さん。あっちの方で、真成さんの知り合いだという人に会いましたよ。」

「……俺の知り合い?」

 握り飯を口いっぱいに頬張ったまま、真成が怪訝そうに聞き返した。

「いやぁ、俺が遣唐留学生の皆さんに渡す握り飯がほしいと地元の人に頼んでいたら、白猪真成と言う人を知らないかと聞かれたんですよ。」

「親戚か誰かか?」

「さぁ。鳥居のところでしばらく待っているそうですよ。」

「まぁ、でもそろそろ出航だしな。」

「出航の時間になったら俺たちが呼びに行ってやるよ、真成。」

 玄昉の言葉に、真備と仲麻呂も頷いた。

「……わかった。鳥居のところだよな?」

 親友たちの言葉に、白猪真成はようやく意を決したらしい。慌てて握り飯を呑み込むと、くるりと体の向きを変えて、何やら叫んでいる水夫たちや積みあがった荷物の隙間に向かって歩き始めた。

「ええ、あの鳥居です!薄い紅色の服を着た若い女性の方ですよ!」

 真成の後姿に向かって、吉麻呂が大きな声で叫んだ。その瞬間、若い遣唐留学生たちは口いっぱいに頬張った握り飯を吹きだしかけ、一斉に咳き込んだ。

「……若い女だって?」

 咳き込んで薄っすら涙目の仲麻呂が、これほど面白いことはこの世に存在しないとでも言いたげな笑顔で吉麻呂を見た。

「ええ、若い女性の方です。」

「おーっと、そいつぁおもしれえ!」

 きょとんとする吉麻呂の顔を覗き込むように笑いながら、玄昉が叫んだ。

「暇つぶしにやるべきことが決まったな。」

 真備もいたずらっぽく笑った。それから4人は目配せをしてにやりと笑うと、水夫と荷物の向こうの白猪真成を追いかけ始めた。






 山の草花で淡い紅色に染めた布でこしらえた服の裾を、井上古美奈いのうえのこみなはそわそわしながら整えた。それから鳥居にもたれかかって群青色の波をぼんやりと眺める。少し日焼けした黒いまとめ髪からこぼれたおくれ毛が風に揺れた。

「……古美奈こみな?」

 懐かしい声で自分の名を呼ばれ、古美奈は思わず顔を赤らめた。咄嗟に何でもないようなふりをして口をけだるげに開く。

「遣唐使になっただなんて、聞いていないわ。井上いのうえの人たちにちゃんと言ったの?」

「兄上から報告はしたはずだよ。」

「自分でも、ちゃんと言いに来なさいよ。」

「ごめん、大学寮での勉強が忙しくて。河内国そっちに行く暇がなかったんだ。」

「薄情ね。お母様のお墓も河内国こっちなのに。」

「あんな墓に行く時間があったら、都で勉強している方が母上は喜ぶよ。」

 白猪真成しらいのまなりは、すこしバツの悪そうな顔で幼馴染に答えた。

 数年前、大学寮に入ることが決まったのとほぼ同じくして、白猪広成しらいのひろなり真成まなりの母は病で亡くなった。母の事は尊敬していたし、母の死は耐え難く悲しいものではあった。

 しかしそれ以上に大学寮に入れる喜びのが勝っていたのをぼんやりと覚えている。母は、遠い昔に大陸から海を渡ってきた先祖の血を引くことを誇りにしていて、子どもたちにも先祖から連綿と伝わってきた異国の言葉や文化を熱心に教えていた。その高度な漢文の知識を使って朝廷に仕えることを、何よりも誇りに思っていたのだ。

 だから、病で弱った母は大学寮の話をことのほか喜んでいた。真成も、死に際の母の悲しそうな顔よりも、息子の成長を母の嬉しそうな笑顔の方をよく覚えている。

「それで、なんで住吉すみよしに?」

「村の人にお使いを頼まれて、そのついでにお参りしにきただけ。まさか真成に会えるなんて思っていなかったわ。」

「俺も、驚いた。」

 古美奈は少し迷ったようだが、やがてか細い声で幼馴染に尋ねた。

「ねぇ、真成。これから唐に行くの?」

「ああ、そうだ。」

「いつ帰ってくるの?」

 真成は返事をしようとして思わず口をつぐんだ。どんな返事を返しても幼馴染に深い悲しみを与えてしまうことを想像できない男ではなかったからだ。

「……何年も帰ってこないのね?」

 古美奈の声に、真成は頷いた。

「……ごめん。僕らは留学生るがくしょうだから、きっと10年は向こうにいる。」

 真成は、 古美奈の今にも泣きだしそうな顔を見て、唐突に遠い昔の記憶を思い出した。幼い時に一緒に駆け回って転んだ時、彼女は強がって笑おうとしていたが、足から血を流して今にも泣きそうな顔をしていた。

 あの時と全く同じ顔だった。

 古美奈は芯の強い女の子だった。誰かに守ってもらうのではなく、自分が誰かを守ろうとする女の子だった。そして、真成にすがりつくのではなく、真成の背中を押そうとしてくれるひとであった。

 だからこそ、守りたかったひとだった。

「古美奈……。」

 真成はあの時のように幼馴染に手を伸ばした。守りたかった女だからこそ、きちんと別れを告げたかったのだ。

 が、その瞬間、視界の片隅に見慣れた4人の野次馬の顔が飛び込んできた。積み重なった荷物の陰に隠れているようだが、隠れられていない。目を見開いて驚いている阿倍仲麻呂、兄のような目つきでほくそ笑んでいる下道真備、いつどうやってからかってやろうかと目を輝かせている玄昉、何はともあれ面白いものを見たと喜んでいる羽栗吉麻呂。そろいもそろって幸せそうな顔をしているのが妙にむかついた。

 白猪真成は、心の中で困ったように笑った。それから、わざと4人に見せつけるように古美奈に手を伸ばし、あの時のように幼馴染の肩を優しく叩いた。

 



 物陰の4人の野次馬たちは、幼馴染らしい女の肩を優しく叩いている白猪真成の様子を、怪訝そうな顔で見守っていた。さざ波の音が優しい音楽を奏でていて、幼馴染の2人を包み込んでいる。

「……なぁ、あいつ何言ってんだ?」

 真面目な顔で幼馴染らしい女に話しかけている白猪真成の様子を伺いながら、イラついた様子の玄昉が残りの3人に尋ねた。

「唐の言葉ではないな。」

 真備がため息をついて答えた。

「真備さんでもわからない言葉、ですか……。」

「吉麻呂もわからないか?」

「さっぱりわからないですね。仲麻呂さんもわからないですか?」

 吉麻呂が残念そうな顔でそう言うと、仲麻呂がため息をついた。

「真成のところは、今でも家で百済とか新羅の言葉を使っているんだ。」

 吉麻呂が納得したように頷いた。

「へぇ、真成さんは海の向こうから渡ってきた人たちの子孫なんですね。」

「ああ、あまり他人には言いふらさないが、たぶん大学寮の中ではいちばん異国の言葉を知っていたんじゃないか?」

「……確かに、あの進士試の答案は韻の踏み方が見事だった。言葉の音によく気づく学生だなと思ったよ。」

「へぇ、あいつ進士なのか!」

 玄昉が感心したように声を張り上げた。真成と幼馴染の女の方は、何やら真剣に話し合っているようだった。

「……いや、俺たちは落ちた。真備だけが合格だ。しかも甲第で。」

「名前を書いていれば、進士は3人だったけどな。」

「とりあえず、皆さんがものすごく優秀なのにものすごく馬鹿なことが分かってきた気がします。」

「吉麻呂、お前なかなか口が悪いな!俺は気に入ったぞ!」

 4人の野次馬が物陰で騒いでいる間に、幼馴染の女の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ち始めた。

「おっと、あいつ女を泣かせやがったぞ!」

「船出前に何を言ったんだろうね。」

「まさか、あの真成に恋人がいたとは。」

「まぁ、いいことじゃないですか。」

「いや、吉麻呂。俺たちはこれから10年以上も帰ってこられない。生きて帰ってこれるかもわからないんだ。残酷な恋だよ。」

 真備の言葉に、4人の野次馬は静まり返った。

 物陰から垣間見ている4人の目の前で、幼馴染の女は手に抱えた包みの中を探った。その姿を眼に刻み付けるように真成が見つめる。

 彼女は包みの中からおもむろにきれいに畳まれた布を取り出した。山の草花で染めたような淡く優しい紅色に染められた布だ。幼馴染の女は畳まれた布を少し開いて何かを見せた。真成が寂し気に微笑んで、淡い紅色の布を握りしめた。優し気に微笑んだ女の涙が零れ落ち、布にしみこんだ。

「さぁ、そろそろ戻りましょう。どうやら船の準備ができたようです。」

 吉麻呂が、遣唐留学生たちにそっと囁いた。野次馬たちも頷いてそっとその場を離れた。





 残念ながら、私も百済や新羅の言葉は分からない。だから、住吉大社の鳥居のたもとで白猪真成しらいのまなり井上古美奈いのうえのこみなが何を約束したのか、この幼馴染の2人以外は知らない。記録にも記憶にも残らず、やがて歴史の大河の水底深くに沈んでしまった。

 いや、真成が沈めてしまったのだ。この小さな恋は 白猪真成しらいのまなり井上古美奈いのうえのこみなだけのものだった。

 だが、この小さな恋は消えはしなかった。歴史の大河の水底で、今も輝き続けている。

 もし、東大寺の正倉院で大切に保存されている塵芥ちりあくたを、元の美しい布に戻す技術が未来の世で生まれたら。その塵芥ちりあくたのいくつかは淡い紅色の布に姿を戻るだろう。そしてその淡い紅色の布には、墨染の糸で縫い付けられた「古美奈」という文字が残っているはずだ。



 無論、住吉津すみのえのつで大きな4つの船を見送る人々の中で、そのことを想像し得る人は誰もいなかった。

 

 

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

今回は源氏物語の描写をかなり参考にさせてもらいました。

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