あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも【日本】
きれいに整理された自室の書棚を見て、阿倍仲麻呂は満足げにほほ笑んだ。
今日、いよいよ唐に向かって船出するために実家を旅立つ。病や戦乱などのよほどの事情がない限り、遣唐留学生は長期の留学をすることになっている。おそらく10年から20年は帰国しないし、この部屋にも戻らない。
阿部船守の邸は決して狭くはなかったが、10年以上も実家に戻らない長男の部屋をそのままにしておくわけにはいかない。家族がほかの用途に使えるよう、仲麻呂は自分の持ち物をかなり整理した。
「兄上、本当に唐に行ってしまうのですね。」
満足げにほほ笑んでいた仲麻呂は、10歳ほど歳の離れた弟の帯麻呂の悲し気な声に振り返った。
「帯麻呂か。どうした?」
別れの朝だというのに希望に溺れて有頂天の兄の笑顔を見て、帯麻呂はまた一段と悲しい気持ちになった。
「兄上……えっと……。」
「おお、そうだ帯麻呂。この部屋の兄の書籍はこれから自由に使っていいぞ。」
仲麻呂は優し気に弟に笑いかけた。
「俺が帯麻呂くらいの頃に書き写したものばかりだ。一部しか書き写していなかったり、間違いもあったりするかもしれないが、偉い先生や大学寮に行かなくても思うままに読むことができる。俺の宝物だ。」
兄が他人にあまり心を許さない性格なのは、帯麻呂も感じている。その兄がやたら話しかける相手は、弟の阿部帯麻呂と幼馴染の白猪真成くらいしかいないのも知っていた。それを弟は、どこか誇りに思っていたのだ。
「嫌です。兄上がいないなんて。」
帯麻呂は思わず本音を口走った。今までこらえていた涙がほろりとこぼれる。
「帯麻呂、どうしたんだ?」
「だって、何年も会えないのでしょう? これからは兄上に漢字を教えてもらえないのでしょう?」
「帯麻呂、お前、昨日の宴では笑っていたじゃないか。」
昨晩、遣唐留学生として唐に渡る仲麻呂を送り出すための宴が開かれ、阿部船守の邸には親族をはじめとする大勢の人が集まった。筑紫大宰帥であった阿倍比羅夫の血を引く者たちである。
比羅夫の長男で中納言の阿倍宿奈麻呂と、彼の息子の阿倍駿河、阿倍子島。それから比羅夫の次男で病を理由に遣唐使には加わらなかった阿倍安麻呂と、彼の息子の阿倍虫麻呂と阿倍豊継。その他にも、顔も名前も官位もよく覚えていない阿部の氏族の者が次々と加わり、宴は大変にぎわった。
幼い弟は、名前も知らない親戚にあれこれ可愛がられてずっと笑っていた。「兄がいなくて寂しいだろう」とからかう親戚に対して、兄の夢がかなうことを誰よりも喜んでみせていた。
「兄上の夢がかなうのは嬉しいです。笑って見送ろうと思っていた。でも、でもやっぱり……。」
次の瞬間、兄は弟に駆け寄って、言葉もなく抱きしめた。言葉にできない後悔のようなものが、旅立ちの前の希望にあふれた気持ちに混ざりこんでくる。
阿倍仲麻呂は、自分の事ばかり考えてこの19年を生きてきていた。
もちろん家族のことは愛していた。両親や弟に助けられてここまで生きてこれたことはよくわかっている。さらに己の生活は日本中の人々から集められた税によって支えられていることも幼いころから教え込まれていた。
いずれ、自分を支えてくれた人々に恩返しをしたいとは思っている。だがそれはあくまで”いずれ”であった。今は自分の夢を追いかけることばかり考えていた。
しかし、その”いずれ”は来ないのではないか。自分を支えてくれた家族に今すぐ恩を返すべきだったのではないか。
一度考え込んでしまうと、仲麻呂の胸の中には次々と後悔が浮かび上がってきた。あまり仲は良くなかったが、大学寮の学生たちともっと話しておくべきだった。唐に渡る前にまだ勉強しておくことがあったのかもしれない。親戚たちにきちんと挨拶をしていただろうか。従兄弟の子島とあと数時間は語り合っていたかったような気がする。市場で世話になった商人の店にもう一度顔を見せるべきだっただろうか。荷物は用意したが忘れ物があるかもしれない。
仲麻呂と帯麻呂の兄弟は、言葉もなくずっと抱きしめ合っていた。これがこの兄弟の今生の別れとなることを、2人はまだ知らない。
後に、阿倍帯麻呂は奈良の政争に巻き込まれて歴史書から姿を消していく。だが、帯麻呂の娘、つまり仲麻呂の姪は、藤原房前の息子に嫁ぎ、彼女が生んだ子の子孫が、令和の世にまで繋がっている。
私を大宰府に左遷させた藤原時平も子孫の1人だ。こうして阿倍帯麻呂の血は、藤原摂関家と天皇家の中に残され、未来につながっていくのだが、それはまた別の物語である。
平城京を守るようにそびえたつ三笠山や鶯山の麓が、遣唐使たちの集合場所であった。
すでに朝廷への挨拶をする儀式や各々の家族や氏族との別れの挨拶は済ませてある。
この春日野で日本の古の神々に旅の無事を祈った後、三条大路を通って朱雀大路を曲がり、朱雀門の前で朝廷に最後の別れをした後、今度は二条大路を通って平城京を離れる。その後は暗越街道を西へ進んで難波の港へ向かう予定だ。
春日野には、色鮮やかな朝服をまとった遣唐使たちが集まり、知り合いを見つけてあれこれ話し始めている。見物や見送りの人々がその周りを囲い、あれこれ噂しあっていた。
先ほど、氏寺の興福寺で旅の安全を祈願する祈祷を済ませた遣唐副使の藤原馬養の一行がきらびやかないでたちで加わり、人々をざわめかせていた。
「おーい、仲麻呂。こっちだ!」
聞きなれた声に阿部仲麻呂が駆け寄ると、幼馴染で共に唐に渡る白猪真成が希望と不安が入り混じった笑顔で手を振っていた。
「いよいよだな、真成。」
ほぼ毎日顔を合わせている幼馴染であるにもかかわらず、阿倍仲麻呂は興奮した笑顔で答えた。
「ああ、そうだな仲麻呂。よく眠れたか?」
「宴で疲れてしまって、昨日は案外早く眠れたよ。」
「それはよかった。あっ、真備だ。おーい、真備!」
向こうの方から、やや緊張した面持ちの下道真備が荷物を片手に現れた。
仲麻呂と真備は、少し不貞腐れた顔で会釈をかわした。
昨年の秋に亡くなった志貴皇子の一件があってから、阿倍仲麻呂と下道真備の間には深いヒビが入ったままだ。仲麻呂は、仕方がなかったとはいえ、時の権力者の手先になった下道真備の選択を許せていない。
とはいえ、共に唐に長期留学する身だ。講義や儀式などで共に座ることも多い。そこで白猪真成が苦心して間を取り持ち、なんとか挨拶とわずかな会話をするくらいまでには関係を修復することができた。
それでも互いに気まずいのか、仲麻呂と真備は会話をするときはいつも仏頂面だ。2人の間で話を盛り上げる真成としては、呆れるのを通り越して、もはや面白くなってしまっているというところだった。
「おれたち学生の席はあっちの方だ。仲麻呂、真備、行くぞ。」
白猪真成に引きずられるように、2人は人込みをかき分けて歩き出した。
「おい、てめえ、拙僧の荷物を蹴っ飛ばしただろ!」
「ぶつかってしまったことは謝ろう。そちらこそ、些細なことで喧嘩を売るのはやめたまえ。」
「ああっ? 些細な事だって? 」
阿倍仲麻呂、白猪真成、下道真備の3人が人込みをかき分けて行った先では、ちょうど僧侶と官僚が激しく言い争っていたところだった。
「お師匠様から預かった大切な文が入ってるんだぞ!」
「他人の荷物にぶつかってしまっただけで罰せられるという律も令もないはずだ。」
「それでも謝るってぇのが人としての礼儀ってもんだろっ!」
「だからぶつかったことには謝っているじゃないか!」
「その態度で謝ってる?はぁ?礼儀もクソもなってねぇな!」
髪を短く刈り上げた僧侶は、凄みのある眼で、朝服の官僚を睨んでいる。墨染の僧衣を捲し上げて今にでも殴りかかろうと言わんばかりだ。一方、30歳くらいの官僚は落ち着き払って対応しているようだったが、いら立っている様子が伝わってきた。
「あの請益生、やらかしたな。あいつに関わっちまうなんて。」
「玄昉には関わらな方が良い。俺たちもあっちに行こう。」
言い争っている2人の周りを、知り合いの僧侶や官僚らしき人々が遠巻きに取り囲んでいる。荷物を抱えていた若い僧侶たちがひそひそと噂話をしながら離れていった。
周囲の人の噂話を聞いて、下道真備は白いキノコを抱えて二条大路を歩いたあの日のことを思い出した。暴れ馬の砂埃の中で、この世の全てを睨むような不躾な態度の声を確かに聴いている。
「もしかして、玄昉殿では?」
遠巻きに僧侶と官僚のにらみ合いを眺めていた人込みから真備が飛び出したのを見て、仲麻呂が小さく叫んだ。
「おいっ、真備……。」
真備は、喧嘩に気づいていないようなあっけらかんとした笑顔を作って見せた。
「覚えておりますか?ほら、1年ほど前に二条大路で馬が暴れた時に、友人があなた様にぶつかってしまってご迷惑をおかけしたでしょう?」
何事かと真備を睨んでいた僧侶の感情に狂った眼から、激しい怒りが薄れていくのが、仲麻呂や真成にも見えた。
「……下道真備殿か?」
「ええ、そうです。まさかあなたも共に唐に行かれるとは!」
大げさに喜んで見せる真備を見て、仲麻呂と真成も彼の意図に気づいた。咄嗟にいらだった様子の官僚の方に駆け寄る。
「大和長岡殿ですね? 父や伯父から話を伺っていて、一度お話したいと思っていたのです。」
「あっ、申し遅れました。私は外記の白猪広成の弟の白猪真成です。こっちは中納言の阿倍宿奈麻呂の甥の阿倍仲麻呂です。」
「……おお、それでは、そなたたちが噂の優秀な遣唐留学生たちか。」
大和長岡は、気が抜けたように呟いた。真成と仲麻呂はそっと目配せをしあうと、話に夢中になったふりをしてさりげなく大和長岡を玄昉から引き離した。
「律令の研究では長岡殿にはかなわないと、大学寮でも評判です。」
「いやいや、私はただの請益生だ。留学生として長く唐に渡られるあなた方の足元にも及ばない。」
「異国に長くいればいいというものではないでしょう? ぜひ旅の間は、律令について教えてください。」
真成が賑やかに会話を盛り上げる。仲麻呂がちらりと後ろを見ると、真備は玄昉と何か話していた。
「……2人とも、ありがとう。確かにうっかり荷物を蹴飛ばしてしまった私が悪いのだが、あの僧侶がひどく怒ってしまって、どうしていいか分からなかったんだ。」
そう言って、大和長岡が申し訳なさそうに肩をすくめた。
「あの僧をご存知ですか?」
仲麻呂が囁くように尋ねた。
「ああ、噂を少しだけ。今回の遣唐使に学問僧として加わった玄昉という僧侶は、若くて頭もきれるが、性格がなかなか苛烈で口も悪い。おかげで友人も少なくていつも何かいら立っているから、あまり関わらない方が良いと。」
大和長岡はそう言ってため息をついた。
「きっと、何か事情があるのだろう。年齢の近い君らが良い友人になってくれれば、なんて思うが……。出過ぎたことを言ってしまったな、すまない。」
仲麻呂と真成は、丁寧な礼をして大和長岡と別れると、玄昉と話している真備の方に歩いて行った。
「あっ、こっちが同じ遣唐留学生の阿倍仲麻呂と白猪真成です。あの日一緒にいたのを覚えていませんか?」
普段は冷静な立ち振る舞いをする真備が、珍しく興奮した口調で話しているのに、仲麻呂は少し驚いた。
「ああ、思い出した。拙僧にぶつかった奴だ。」
口調はやや乱暴だったが、玄昉の眼は怒りよりも好奇心でギラついていた。だがその眼の奥に、かすかな不安が混ざっているように感じて、仲麻呂は思わず彼の眼をじっと見つめてしまった。
「拙僧は玄昉。学問僧としてお師匠様の代わりに唐へ渡る。まぁ、よろしくな。」
4人の間に、ほんのわずかだけ沈黙が流れ、4人はそれぞれ、その妙にセンチメンタルな雰囲気を味わった。
後の世の人が知っているように、玄昉は、後に帰国した吉備真備と共に日本の政治の中枢に食い込んでいく僧侶である。
その性格ゆえに人々の恨みを買うことが多く、その性格が藤原広嗣の乱の原因になり、聖武帝を怯えさせた。その広嗣が、今回の遣唐副使の藤原宇合の嫡男であることも何かの因果であったのだろうか。
なお、玄昉は日本に法相宗を伝えた名僧としても、歴史書に名を刻んでいる。
しかし、そのセンチメンタルな雰囲気は一瞬で崩れ去った。大きな荷物を抱えた若者が飛び込んできたからである。
「あっ、その服装はもしかして。遣唐留学生の皆さんでは?」
あまり身分の高くない官人の服を着崩し、背中には大きな荷物を背負っている。遣唐使の見物に来た都の民衆とほぼ変わらない見た目だ。大方、メン物人が紛れ込んだのだろう。
しかし4人はあまりの驚きに何も言葉を返せずに固まった。この身分の低そうな若者が、完璧な唐の言葉で話しかけてきたからだ。
「あっ、驚かせてしまいましたね。申し訳ないです。」
若者は、今度はあっけらかんとした顔で日本語で頭を下げた。
「今回、留学生の皆さんに仕えることになった羽栗吉麻呂です。」
4人は、固まった表情のまま、屈託のない笑みを浮かべる若者を見つめた。
「えっと、荷物に余裕があるので預かる物があれば今預かりますよ。」
若者はそう言いながら、背中の大きな荷物を下ろした。
「しっかし、俺みたいなのが異国に行けるなんて、もう驚きですよ。」
「……あの、従者とは?」
「えっ、聞いていないかったんですか?」
ようやく口を開いた真成に、吉麻呂が驚いた顔をして言った。
「唐で料理や洗濯は誰がすると思っていたんですか?」
仲麻呂と真備と真成は顔を見合わせた。日本でも学問ばかりしていて、料理や洗濯などやったことがない。特に位の高い貴族の家に生まれ育った阿倍仲麻呂は、米を研いだこともなかったし、洗濯物を絞ったこともなかった。自分のことは自分でやる僧侶の玄昉だけは、自慢げに吉麻呂を見てに二カッと笑っていた。
「唐の人を雇うと金がかかるし信用できない時もある。だから私がついていくことになったんですよ。」
「知らなかった……。仲麻呂は何か聞いていた?」
「そういえば、どこかでうっすら、従者がつくという話は聞いていたかも……。」
「まぁ、皆さん、これからよろしくお願いします。」
羽栗吉麻呂はそう言って、屈託のない笑みを浮かべた。
すると、古の神々への別れの挨拶と航海の無事を祈る儀式を始めるという係の者の掛け声がかかった。5人の若者たちは慌てて荷物をつかむと、それぞれの立ち位置に戻っていた。
いよいよ、彼らの旅が始まるのである。
三笠山の麓での儀式は滞りなく行われ、遣唐使たちは豪華な行列を作って平城京の三条大路を歩いて行った。
旅をしやすいよう、儀式にしては簡素な服装ではあったが、真新しい色鮮やかな衣装の行列を一目見ようと通りは人でいっぱいだった。貴族たちや彼らに仕える者たちの色とりどりの衣装が揺らめいたと思えば、大きな荷物を担いで行列に見とれる農民たちの薄汚れた服が力強く揺れる。砂埃の混ざった初夏の風のせいで、平城京の風景は、まるで夏の夜の夢の中のようにしっとりした温かさに包まれていた。
やがて行列は朱雀大路に差し掛かり、そびえたつ朱雀門の前までたどり着いた。
朱雀門の朱色の柱や白い壁、黒い甍が、澄み渡った青空に輝いている。この奈良の都は「青丹よし」という言葉と共に語られるようになった。朱色の柱も白い壁も黒い甍も美しい。だが一番美しいのは、澄み渡るような空の青と、遠くに連なる若々しい山の緑だと、誰もが答えるだろう。鮮やかな色が互いをより一層鮮やかに染めあげるのが、この平城京であった。
朱雀門の前には、平城宮の人々が護衛に囲まれながら並んでいて、遣唐使たちの勇姿を見届けようとしていた。
元明上皇、元正女帝、首皇子が奥の方に並んで座り、朱雀門の前で丁寧に一礼する遣唐使たちをじっと見つめた。
右大臣の藤原不比等は、これからこの国を支える若者たち全員の顔を忘れまいと見渡した。この平城京の権力者である不比等が選んだに等しい若者たちだ。それから、きらびやかな衣装をまとった息子に目を奪われる。
中納言の粟田真人は感慨深げに遣唐使たちを見つめた。彼は生涯で2度も大唐の繁栄をこの目で見た。海の向こうには世話になった友人たちが大勢いる。老齢の身体に鞭打ってもう一度会いに行きたい気持ちが、若い遣唐使たちを見るたびに膨らんでいった。
海の向こうの友人たちに、もはや生きて会うことはないだろう。もしかしたら友人たちは一足先に鬼たちの住む泰山に行ってしまったかもしれない。それでも真人は、若者たちに頼んで、海の向こうの友人たちへの手紙を託していた。
もう1人の中納言の阿倍宿奈麻呂は、遣唐使の行例の中の甥の姿を探した。緊張した表情の甥に思わず苦笑して目が熱くなった。留学生として海を渡る甥に、もはやこの世で会うことはないだろう。
式部大輔の藤原武智麻呂、巡察使の藤原房前は、並んで弟の勇姿を見届けた。その横に式部卿の長屋王、馬寮監の葛城王が立っている。2人は若い遣唐使たちの姿を見て満足げにほほ笑んでいた。
朱雀門にほど近い不比等や武智麻呂の邸からは女性や家人たちが集まって出てきていて、馬養の姿を一生懸命探していた。その中に、色鮮やかな衣装をまとった光明子がいた。
やがて行列が動き出す。感嘆の声とすすり泣きが混ざった不思議なざわめきが二条大路を包んでいた。
色とりどりの色の朝服を身に着けた官人たちや鮮やかな衣装の女性たちがすすり泣いている。大きな荷物を抱えた農民たちに籠を抱えた女たちが歓声を上げる。子どもたちが大路の片隅を走り回り、人込みの中で1匹の猫が伸びをしていた。僧侶が数人立って、遣唐使の行列を見物している人々に仏の教えを説いていて、見回りの衛士から冷たい目で睨まれていた。
その人込みの中に、己の名を叫ぶ弟の声が聞こえたような気がして、阿倍仲麻呂は思わずあたりを見渡した。これが、仲麻呂と平城京の人々の最後の別れとなった。
「あっ、仲麻呂さん。水はどうですか?」
平城京を出て生駒の山々に差し掛かり、最初の休憩時間だ。荷物を運ぶ農民や護衛の衛士に囲まれた遣唐留学生たちも道端に座り込んだ。
「いや、大丈夫だ。ありがとう、吉麻呂。」
「飲んでおいた方が良いぞ。」
「ああ、真備の言うとおりだ。絶対に飲んでおいた方が良いぜ。この先は急な上り坂が続くからな。」
真成が、自分に差し出された竹筒から水を飲みながら言った。
「真備と真成は、この道に詳しいんだな。」
玄昉が水を飲みながら尋ねた。いつの間にか、彼は仲間の僧侶たちから離れ、真備たちと行動を共にするようになっている。
「俺は出身が河内国なんだ。だから時々この山を越えて故郷の親戚に挨拶に行っている。真備は吉備国の人だ。」
「仲麻呂は?」
「ああ、えっと、俺は飛鳥の藤原京で生まれて、そのまま平城京に移り住んだから。平城京より西には行ったことがないんだ。」
「こいつ、こう見えて中納言の甥っ子だからな。」
「真成、もう伯父上のことはよせって。」
「本当だからいいだろ? そういえば玄昉はどこの出身なの?」
玄昉の眼に、一瞬激しい感情が鋭く光った。
「拙僧か?拙僧は伊勢の生まれだ。」
「へぇ、東国か。すごいなぁ。吉麻呂は?」
「山背国ですよ。都には税を納めに何度か来たくらいで、この道は初めてですね。」
羽栗吉麻呂はにこやかにほほ笑んでそう答えた。
「この山はあまり高くはないんだけれど、この先に急な道が続く。一度転ぶと大けがをするから、なるべく間隔をあけて気をつけないといけない。休憩どころじゃ無くなるから、水を飲んだ方がいい。」
仲麻呂は、真成の言葉にうなずいて水を一口飲んだ。
「水筒は出しやすいところにしまっておきますから、飲みたくなったらいつでも言ってくださいね。」
「ありがとう、吉麻呂。」
しばらく5人が話していると、出発を知らせる掛け声が上がった。皆立ち上がって山道を登り始める。
のぼっていく若者たちの心のうちは、のぼるにつれて故郷への別れよりも海の向こうの未来への希望の方が大きくなっていく。慣れない山道に息を切らせながら、阿倍仲麻呂ものぼっていく。
ふと顔を挙げると、のぼっていく坂の上の青い天に一朶の白い雲がかがやいていた。坂の上の雲を見つめて、若者たちはただのぼりつづけていく。
峠は少しひらけていて、青空の下に美しい景色が広がっていた。行列の人々はそれぞれ頂に差し掛かると後ろを振り返り、日光を浴びて輝く平城京をその目に焼き付けていた。
周囲の人々につられて、阿倍仲麻呂も思わず後ろを振り返った。
まだ明るい東の大空に、淡い白の十三夜月が佇んでいる。見慣れた三笠山や鶯山が広がり、その麓の春日野が若草色に輝く。そして赤と黒と白で染め上げられた平城京の条坊がはっきりと見えた。実家の屋根の甍まで見えそうだ。
「俺は、唐であの月を見て、故郷を思い出したりするのだろうか。」
阿倍仲麻呂は、誰にも聞こえない声で一人呟くと、再び歩き始めた。
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