僕らの歴史が始まる 運命がここからどこへと向かおうと【日本】
書きながら、ずっと山下達郎の「僕らの夏の夢」を聞いていました。
賑やかな宴からこっそり抜け出した藤原馬養は、少しふわふわした気持ちで夜空を見上げた。
夜空にぽっかりと浮かんだ月は、今夜は時折薄い雲の衣をまとう。朧げに光る時もあれば、射干玉の暗闇で白銀に輝く時もある。わずかな時間に姿を変える美しい月を見上げて、馬養は思わず口を開いた。
「熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな。」
「船出するには少し早いよ、馬養の兄上。」
浅緋の縫腋袍姿の藤原馬養が振り向くと、いつの間にか隣に末弟の藤原麻呂が立っていて、月を見上げていた。同じ位階であることを表す浅緋の縫腋袍姿である。
「なんとなく思いついただけだ。」
少し不貞腐れたような顔をする兄の顔を見て、麻呂はにやりと笑った。
「旅立ちの日も、こんな風にきれいな月が見えるといいね。」
「麻呂……。」
「仕方ないよ、今は美濃を任されている。あまり長く離れているわけにはいかない。」
藤原麻呂は遣唐使の乗る4つの大きな船の出立を見送ることなく、明日には美濃に向かって旅立つことになっていた。父や兄が留まるよう説得するかと思っていたが、皆仕事に戻るのが当然だという顔をしていて、馬養は少し拍子抜けしたものだった。
「それに、兄上のことはあまり心配していないかな。」
「確かに、今の季節であれば遭難することはほとんどないだろうな。」
馬養は月を見上げて呟いた。遣唐使船を怖がっているわけでないが、それでも万が一の時を想像してしまう。日本を発つ前にやっておきたいことはいくつもあったはずだが、出発の日が目前に迫っても全てを思い出せず、妙な焦燥感だけが胸に残っていた。
「ももしきの、大宮人の熟田津に、船乗りしけむ、年の知らなく。」
どちらかというと政治よりも文芸に関心のある弟が、和歌を詠んでにやりと笑った。
「山部赤人殿の和歌だな?」
「へぇ、馬養の兄上でも知っているんだ。」
「おい、麻呂。馬鹿にするなよ。」
もう大人になってしまった歳の近い2人の兄弟が月光の下で笑いあう。朧げに輝く月が2人の兄弟を見守っていた。
「馬養、麻呂、山部赤人殿がどうかしたのか?」
2人が振り向くと、そこには次兄の藤原房前が立っていた。弟たちよりも濃い深緋の縫腋袍姿である。
「房前の兄上、麻呂と月を見て和歌について話していただけですよ。」
「お前らが和歌?」
いつもの将来有望な政治家としての口ぶりというより、東国のやんちゃな若者と夜な夜な遊びまわっていた雰囲気を残す口ぶりに、兄が少し酔っているらしいということを弟たちは薄っすら感じた。最も、馬養と麻呂もすでに酒に酔っている。
「そういえば、房前の兄上は山部赤人殿と一緒に東国の方に行ったことがあるんですよね?」
「ああ、一緒に東海道を下って行ったよ。」
房前はそう言うと、昔を思い出すような瞳で遠くの月を見上げた。
「駿河国に高麗若光という男がいてな。姓は王。生まれは高句麗の王の一族で天智帝の頃に高句麗王の使節として海を渡ったが、そのまま高句麗が滅んでしまい、仲間たちと共に駿河国に土地をもらったそうだ。」
馬養と麻呂は顔を見合わせて嬉しそうに笑った。2番目の兄は話が上手い。幼いころから大人になった今でも、房前が語る話は2人の密かなお気に入りだ。
「だがあのあたりは富士の山を信仰する独特の考えが強い上に、昔あのあたりで人々を惑わせた”常世神”とかいう虫を崇める一派が最近再び現れたとかで、何かと不穏な噂が絶えない。東海道の要所だから朝廷としてもあのあたりは安定させたい。調べてみたら、駿河国は温暖で作物もよく取れるが、随分と土地が手狭になって些細な争いも増えているらしい。」
そこまで言うと、房前はわざとらしくため息をついた。
「特に高麗若光を頼って新たに移り住んできた高句麗の人々が急に増えて、古来からあの地に住んでいる者も受け入れきれなくなってしまっていた。そこで、武蔵国を新たに開墾して土地を与えようとなり、高麗若光に相談に乗ってもらっていた。それが俺の巡察使としての任務の1つだったってわけ。」
房前はそこでわずかに笑みをこぼした。
「というわけで、若光の息子の高麗聖雲って奴に駿河国を案内してもらっていたんだが、東海道っていうのは本当に波打ち際を通っていて、本当に大変だった。その日は波が荒くて崖沿いの波打ち際をなかなか大変な思いをしながら東へ行ったんだ。」
弟たちは、若い兄があれこれ叫びながら大波をかぶっている姿を想像して思わず声に出して笑った。
「さて、俺たちが苦労して波を超えると、急にさあっと視界が開けたんだ。そこにあの富士の山がこう一面に広がるようにそびえたっていた。話に聞いていたよりもずっと大きくて素晴らしい山だった。」
「田子の浦ゆ、打ち出いでて見れば、真白にぞ、富士の高嶺に、雪は降りける。」
「そうだ、麻呂。その歌だ。昨年ようやく高句麗の人々を武蔵国に移り住ませることができた。高麗郡と名付けたそうだよ。」
この高句麗の人々は、切り拓いた土地にその毒をもって田を守る彼岸花を植えた。これが後の世で、秋に美しい彼岸花に覆いつくされる名所として有名になる巾着田である。
「お前たち、こんなところにいたのか。」
深緋の縫腋袍をまとった長兄の藤原武智麻呂が、縁側で並んで月を見上げている弟たちを見て苦笑しながら近づいてきた。
「房前の兄上のお話を聞いていました。」
馬養はわざとらしい丁寧な口調で兄たちを交互に見てにやりと笑った。
「房前、またくだらない話か?」
「やだなぁ、兄上。面白い話って言ってくださいよ。」
「俺は、お前の子供だましな話のせいで何度苦労したと思っているんだ。」
武智麻呂は、わざとらしいため息をついた。
「さっきも、うちの豊成と仲麻呂に変な話をしただろう?」
「若かりし兄上が図書寮の書籍を集める時の話をしてあげただけじゃないですか。豊成なんか大笑いして本当にかわいかった。ただ仲麻呂は『九章算術』がどうこう煩くてかわいくなかったですが。」
「お前、俺の子の悪口まで言いやがって。」
「そりゃ、甥っ子もかわいいけれど、やっぱりうちの子のが一番だよ。」
「なんだか、兄上たちが父上みたいなこと言ってて面白いっすね。」
「馬養の兄上もそっち側だけどね。」
「おい、麻呂!」
「そんなことより、房前の兄上はかわいい末の弟の子供を抱っこしてあげたいけどなぁ。」
「うわっ、房前の兄上、すごく酒臭い!」
4人の兄弟たちは緋色の縫腋袍姿で軽く突き飛ばし合うと、けらけらと声を出して笑った。
「しかし、全員朝廷に仕えて、もう父親になっているなんて。改めて思うと感慨深いな。」
長兄の藤原武智麻呂が、ぽつりとつぶやいて月を見上げた。幼いころからずっと、毎月規則正しく時を刻んでいる。
「いやぁ、さっきも粟田真人殿に笑われました。飛鳥で鬼退治をしていた男子たちが、こんなにも大きくなったのかと。」
馬養のつぶやきに、残りの3人も苦笑しながら頷いた。
「あの鬼退治は、今でもよく覚えているよ。」
武智麻呂が顔をくしゃくしゃにして言った。
「房前が調子に乗ってあることないこと話すから、馬養も麻呂もすっかり信じて元気よく飛び出していくだろう。最初は俺も房前も笑って眺めていたんだけど、2人が父上たちの部屋の方に向かっているのに気づいた時は、もう……。心臓が止まるかと思ったよ。」
「しまった、て兄上と顔を見合わせてね。そこからものすごい勢いで追いかけていった。あの時の兄上の顔、今でも覚えている。」
「俺も、あの時の房前の顔はよく覚えている。時間が凍り付いたようだった。」
「しかもあの時の兄上は、まだ新品の縫腋袍だったし。慣れてないのにあんなに速く走れるなんて。」
武智麻呂と房前はそう言って顔を見合わせると、肩を震わせた。
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした。」
麻呂が笑いながら言った。
「小さかったけれどよく覚えている。自分はいいことをしたつもりだったのに、武智麻呂の兄上と房前の兄上がすごく怒られていたので、不思議に思ったんだ。」
「まぁ、原因は房前の話だからな。」
「ったく2人とも、信じやがって。」
「5歳くらいのガキンチョに、鬼の話をしたらどうなるかくらい想像ついただろ、房前。」
「長娥子や多比能や殿刀自は、俺の話を聞いても信じることはなかったから、油断していたんだよ。」
「確かにあの三姉妹に比べると、馬養と麻呂と安宿媛は、房前の話を喜んで聞いて回っては騒いでいたな。」
武智麻呂が懐かしそうに下の2人の弟をちらりと見た。なお、安宿媛こと光明子は”妹”なのだが、かつてのじゃじゃ馬ぶりを知る兄や姉たちは、冗談交じりに”弟”と数えているらしい。
「とにかく、父上が武智麻呂の兄上と房前の兄上をあんなに怒るのを初めて見たよ。しかも人前で。おかげで父上は粟田真人殿から今でも笑われているらしい。」
馬養も懐かしそうに口を開いた。
「本当に、あの父上がね。」
武智麻呂の言葉に、3人の弟たちは静かに頷いた。
4人の兄弟が月下の縁側で笑いあっているのを、長屋王と葛城王が偶然見かけた。
2人も宴に飽き、夜風にあたって酔いを醒まそうと廊下に出たところだった。そこで藤原不比等の4人の息子たちが偶然集まっているのを見つけて、顔を見合わせて咄嗟に柱の陰に身を隠した。
「珍しい顔ぶれだな。」
葛城王が面白そうに囁くと、長屋王が真面目な顔で答えた。
「珍しいも何も、彼らは兄弟だろう?」
「でも、大人になると、兄弟でもめったに会わなくなるだろ?」
葛城王がしたり顔で長屋王に尋ねた。
「弟君と最後に会ったのはいつだ?」
「この間、式部省の前ですれ違って……。」
「ああ、だからお前そういうのじゃなくて!」
葛城王は同い年の長屋王に向かってわざとらしいため息をついた。
「家族として気兼ねなくしゃべったのはいつ?」
長屋王は、少し寂し気に首を横に振った。
「鈴鹿王や門部王とは屋敷が別になったからな。お前は弟と一緒に住んでいるんだよな?」
「佐為王とは建物が別だが、まぁすぐ会える距離だ。お前と違ってうちは血筋が良くない。」
「北宮王家は吉備内親王がいるから、広いんだよ。」
長屋王の正妻の吉備内親王は、この平城京で最も高貴な血筋の女性だ。
草壁皇子と元明女帝の次女。姉は元正女帝、兄は文武帝。つまり次の帝である首皇子の叔母にあたる。
皇位をめぐって親兄弟が殺し合う、忌まわしい飛鳥の時代に戻ってはいけない。それがこの時代の人々の共通の願いだ。
そのためには、天武帝と持統帝の正当な後継者である草壁皇子の直系子孫への皇位継承を安定させなければいけない。その大勢の人々の血と涙の先の希望が首皇子、後の聖武帝である。
だが、人の命には限りがある。いざという時に備えて、首皇子とは別の候補者を用意しておかなくてはいけない。
そこで、草壁皇子の2人の娘に人々の注目が集まった。未婚だった氷高皇女は中継ぎの女帝として即位、そして妹の吉備内親王は、最も重要な皇族に嫁がせることになった。血筋が良く優秀で才能にあふれた皇族との間に、 草壁皇子の血を繋ぐためだった。
こうして、天武帝の長男である高市皇子の嫡男である長屋王と、天武帝の正統な後継者である草壁皇子の娘の吉備内親王が結びついたのだ。
高市皇子から始まる”北宮王家”がここまでの繁栄を見せているのは、無論長屋王のあふれるばかりの才能のためでもあったが、女主人の吉備内親王の力も大きい。
「おやおや、夫婦喧嘩かい?」
「うるさいな。」
葛城王の軽口に、長屋王が不機嫌な声を出した。
「吉備は俺にはもったいないくらい優秀な嫁さんだよ。もちろん、長娥子も安倍大刀自もだ。」
「……なんか、お前が惚気を言うなんて珍しいな。」
葛城王はそう言って、長屋王の浅紫の縫腋袍の肩をちらりと見た。あの長屋王の口元がかすかに笑っている。
「今は仕事じゃない。」
「まぁ、そうだな。」
月下で屈託のない笑みを浮かべる臣下の四兄弟の姿を見つめながら、2人の王子はしばらく己の家族のことを考えていた。思えば、長屋王と葛城王が仕事以外で何か話すのは随分久しぶりの事だった。
「まさに、我が背子が、古家の里の、明日香には、千鳥鳴くなり、妻待ちかねて、ってところだな。」
葛城王が静かに和歌をつぶやいた。
「おい、それ俺が昔作った和歌だろ?」
長屋王が低い声でそうつぶやくと、浅紫の縫腋袍の袖で浅緋の闕腋袍の葛城王を小突いた。
「ああ、俺もお前も随分若かったよな。」
「持統女帝が藤原京に遷都した後に詠んだ和歌だ。ちょうど今の馬養たちの年頃だった。」
「随分と背伸びした和歌を作ったもんだよな、お前。何が”妻待ちかねて”だよ。」
葛城王に小突かれて、長屋王が自分に呆れて苦笑しながら口を開いた。
「早い者だと結婚の話が出る年頃だろう?」
「ああ、なるほど。お前はだいぶ噂されてたからなぁ。」
「葛城王、お前もあれこれ噂されただろう?」
「あいにく、皇族でも分家の分家みたいな俺のところに言い寄ってくる氏族もそう滅多にいなくてな。多比能と出会うまではいっそのこと坊さんにでもなろうかと思ったくらいだ。」
「何が出家だ。お前はそんなに仏の教えが好きじゃないだろう? 経典を読む時間があれば田んぼを耕している方がよっぽど国のためだと思っているくせに。」
「教えは教えだ。勉強したり唱えたりしただけじゃ食べ物は手に入らないって言っているだけだよ。」
今度は葛城王がふてくされた顔をする番だ。
「長屋王、お前だってこの間どこかの僧侶を笏でぶっ叩いたんだろ?」
「朝廷の人事にあれこれ口出しをしてきて引き下がらないから怒鳴ってやっただけだ。叩いてはいない。」
長屋王はそう言ってため息をつくと、言葉を続けた。
「仏の教えは興味深いと思っているし、僧侶たちの持つ知識や技術もなくてはならないものだ。ただ、仏の教えを振りかざしてやりたい放題をしたり、出家したことにして税を逃れようとしたりする勝手な者が多すぎる。」
「確かに、私度僧の問題は解決しなくてはいけないな。」
「仏の教えを真に理解したいのであれば、僧侶たちにもきちんとした戒律が必要だ。人臣に律令を課しているように、僧侶にも戒律を課すべきだ。」
長屋王はさらに言葉を続けた。
「唐の国では、高名な僧侶が戒壇で戒律を授けた者がはじめて僧侶として認められるという制度が整っていると聞く。我が国にもそれが必要だ。今回の遣唐使には、戒律について詳しく調べてくるように頼んでいる。」
「お前、本当に真面目だよな。」
葛城王はそう言って長屋王をまじまじと見つめた。
「真面目なのはいいが、休む時は休めよ?」
「心配するな。お前こそ、宴ばかりしているようで裏で随分と無理をしているだろ?」
2人の王子は口元をほころばせると、肩をたたき合って月を見上げた。山や川、住む場所や置かれた立場が異なろうと、どれほど時を重ねようと、この心地よい夜風と朧げに輝く月はどこでも同じらしい。それでも2人は、この晩の月を目に焼き付けようとした。
なお、この12年ほど後に、長屋王は非業の死を遂げる。一方残された葛城王は、臣下の身分に下って橘諸兄を名乗り、天平の天然痘で深く傷ついた日本の舵をとることになる。そして家族が殺し合う悲劇を予感しながらあの世へと旅立っていくのだ。
だが、まだ2人ともそのことを知らない。それでもこの月の美しさを覚えておきたいと願っていた。
「しっかし、きれいな月だよな。」
ひとしきり騒いだ藤原四兄弟は、ようやく落ち着き払って縁側に座り込み、共に月を見上げた。
三男の藤原馬養はやや着崩した縫腋袍の袖を後ろに投げ出して床に寝転びそうな勢いで月を見上げている。次男の藤原房前も足を庭に延ばして楽にしていた。長男の藤原武智麻呂と四男の藤原麻呂は胡坐をかいて座っている。
「なんだか久しぶりだな、兄弟が揃うのは。」
武智麻呂がぽつりとつぶやくと、馬養が口を開いた。
「武智麻呂の兄上と房前の兄上が新しい邸に移ってからは、あんまり会わないもんね。平城宮ではすれ違ったりするけれど。」
弟の言葉に、房前が妙に真剣な顔で頷いた。
「俺と兄上は、朝廷じゃ政敵らしいからな。最近じゃすれ違っても話しかけにくい。」
「房前は優秀だからな。周りも期待しているんだろう。」
「期待じゃなくて野次馬だよ。藤原氏の正統なる後継者はどっちか笑って見物したいだけさ。どっからどう見たって兄上だっていうのに。」
「父上がやりすぎなんだよ。武智麻呂の兄上の家と房前の兄上の家の2つを作り出そうとするなんて。」
馬養がそう言ってため息をついた。
「まぁ、俺たちは父上の策に乗っかって生きるしかない。父上と三千代殿のことだから、馬養と麻呂も覚悟しておけよ。」
房前は、どこか諦めたような、それでいて覚悟を決めたかのような声でつぶやいた。
「俺が無事に帰ってこれれば、の話だけどな。」
「馬養の兄上……。」
夜風が4人の兄弟の間を吹き抜けていく。この風はもしかしたら海の向こうから吹いてきた風なのかもしれない。
4人が夜空を見上げれば、月に照らされたどこか青い夜空に、いつの間にか夏らしい白い雲が浮かんでいる。夜空の向こうには、明日が待っているようにも見えたし、いつまでも変わらず美しい家族の思い出が待っているようにも見えた。
「馬養、何があっても待ってるからな。必ず帰ってこい。」
武智麻呂が、三番目の弟に向かって静かに言った。この国を背負う覚悟と弟を想う情愛が混ざった声だった。
「そうだ、馬養。俺たちは骨肉を分けた兄弟だ。何があろうといつも一緒だ。」
「馬養の兄上、帰ってきたら、唐の長安の月がどんなだったか教えてよ。」
この晩、心と心を重ねて共に夢を語り合った兄弟は、後に兄弟そろって太政官に任ぜられるという奇跡を成し遂げ、現在に至るまでの日本と藤原氏の繁栄を築き上げていくことになる。そしてこの晩から20年後の夏、共に天平の天然痘に倒れ、最期は共に三途の川を渡っていった。
だが、この宴に集い共に月を見上げた人々は、まだ己の運命を知らない。彼らは未来に向けて、ようやく船出したばかりなのだ。
奈良時代を書きたかった理由の一つに、藤原四兄弟の生き様に向き合ってみたかったというのがあります。
藤原四兄弟を書く時ですが、(特に長屋王の変のあたりで)政治的には対立したり、性格の違いなどはあったりしても、最期は天然痘でほぼ同時期にこの世を去ったのだということを念頭に置くようにしています。
いよいよ、阿倍仲麻呂と吉備真備の船出の年です。とはいえ、まだまだ調べ途中の事も多く、更新が遅くなるかもしれないです。申し訳ありません。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
最近の参考文献:
倉本一宏 『藤原氏ー権力中枢の一族』 中公新書 2017年
仁藤敦史『藤原仲麻呂 古代王権を動かした異能の政治家』中公新書 2021年
河上麻由子『古代日中関係史 和の五王から遣唐使以降まで』中公新書 2019年
佐藤信・編『古代史講義【戦乱編】』ちくま新書 2019年
佐藤信・編『古代史講義【氏族編】』ちくま新書 2021年
上田雄『遣唐使全航海』草思社 2006年
八條忠基『日本の装束 解剖図巻』 エクスナレッジ 2021年
ホームページ「千人万首―よよのうたびと―」
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