上に青い空、下に褐色の大地ができた時、人間はそれらの間に生まれた【突厥】
タイトルは『キュル・テギン碑文』から引用しました。
月光が草原を照らす。はるか彼方の山々も、突厥の王族が住まうユルタも、等しくその月光の中に影を浮かべる。
そしてその月光は、弟の闕の姿を闇の中から浮かび上がらせている。月光に鋭く光る刃の切先から黒々と光る血が滴り落ちた。
「兄上、ようやく……。」
弟の瞳が闇夜に浮かび上がる。その瞳は哀しみと狂気と喜びに爛々と輝いていて、駆け寄ろうとした兄の默棘連は思わず足を止めた。
弟は決して大柄ではない。遊牧民の王族にしては小柄で華奢に見える。だが細い身体には無駄のない筋肉がしっかりとついていて、その鋭い動きは親族たちを怯えさせていた。騎馬も弓矢も剣術も、華奢な身体のくせに部族で1番の戦士だった。
弟は繊細で穏やかな性質だった。争いごとを好まないし、乱暴な言葉も使わない。力ある部族の戦士や親族たちが集まれば揉め事の一つや二つも起こる。そういった時にはにこにこ笑って酒を注いで回り、揉め事をやんわりと抑える。もちろん、同年代の従兄弟たちと言い争ったりすることもなかった。
だから、まさかその弟が、父の復讐のために親族を皆殺しにするとは、誰も思っていなかっただろう。
「父上の、あの唐から父祖の自由を奪い返した父上の、可汗の座を……。」
弟は踏みしめた地面に血だまりを作りながら、ゆっくりと兄の方に足を進める。そして法悦の表情を浮かべて兄の前にゆっくりとひざまずいた。
「兄上、いえ我らが可汗。」
弟はそう言ってもう一度深々と頭を下げた。弟の服から血の粒が滴り落ちる。
それから、弟は懐から羊毛で出来た純白の紐を取り出した。その白い紐は弟の手にべっとりとついた血で、赤く染まる。
「おい闕、ちょっと待て。」
兄はそう叫んで崩れ落ちるように自分もひざまずくと、血に染まりつつある紐を片手に爛々と目を輝かせる弟をまっすぐに見つめた。
「可汗になるべきなのは、お前の方だ。」
月夜の草原で見つめ合っている2人の兄弟の父は、阿史那骨咄禄と言い、人々からは頡跌利施可汗と称えられていた。大陸の大草原の覇者である突厥を再興した男である。
日本で藤原氏の都たる奈良の平城京が栄え、唐ではあの玄宗皇帝が即位した華やかなりしころ、中央アジアの大草原を支配していた遊牧民は”突厥という者たちであった。
彼らは自分たちの先祖について、このような伝説を語り継いでいた。
遠い昔、先祖たちは隣の部族に敗れ、ことごとく殺された。だが、10歳の幼い少年だけが、あまりにも哀れだと命だけは助けられた。助けられたのは命だけで、少年はたった1人で草原の中に置き去りにされた。
そこへ、雌の狼がやってきた。狼はその少年に肉を与えて助け、やがて少年と狼は家族となっていった。
しかしある日、少年が生き残っていたことが隣の部族に知られてしまう。1人と1匹は必死に逃げたがついに追いつかれ、少年は無残に殺されてしまった。追手の兵士たちは少年の傍らにいた狼も一緒に殺そうとした。雌の狼は、必死に逃げたのだという。
やがて、狼は天山山脈の一角の博格達山にたどり着いた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は山に囲まれている。この洞穴で、狼は10匹の子を産んだ。たった1人だけ生き残り無残にも殺されていった少年の血を引く、狼の子だった。
10匹の狼の子たちは、成長すると洞穴を出て、それぞれ人間の娘と結婚した。一族の数はどんどんと増えていき、彼らは阿爾泰山脈の麓に住むようになった。その頃、大陸の大草原を支配していたのは柔然という遊牧民で、狼の一族は柔然に仕えることになった。狼の一族は鉄を鍛えるのがとても上手で、やがて柔然の人々から「突厥」と呼ばれるようになった。
突厥の人々は、誇り高い狼の蒼い血を引くことを部族の誇りとしていた。彼らの住むユルタの入り口には、必ず狼の頭の形をした飾りがつけられている。この晩も、血まみれの王族のユルタには、大きな狼の飾りが牙をきらめかせていた。
やがて突厥の人々は、柔然を撃ち滅ぼし、西の嚈噠を破り、東の契丹を敗走させ、北の契骨を併合し、草原の覇者となっていったのである。
しかし広大な草原の帝国をめぐって、王族同士の争いが激しくなっていった。そこに付け込んだのが、同じ大草原の誇り高い血を引きながら中国大陸を支配した隋である。気が付くと、突厥の人々は同じ部族同士で殺し合って西と東に分裂し、唐の支配下に置かれていた。
そのような苦難の時代に即位し、唐の則天武后から独立を勝ち取ったのが、兄弟の父である頡跌利施可汗である。後の時代に”突厥第二帝国”と呼ばれる礎を築いた、偉大な王であった。
しかし頡跌利施可汗は若くして病で亡くなった。跡を継ぐべき兄弟はまだ幼かった。荒々しい遊牧民をまとめ上げるには実力が必要である。そこで、兄弟の代わりに叔父が次の可汗に即位した。この叔父が阿史那默啜、遷善可汗である。
代わりと言えば聞こえがいいが、要するに「簒奪」である。実力を重んじる遊牧民の間ではごく普通のことではあるが、兄弟たちは父の遺産を満足に受け取れないまま、生きてゆかなくてはならなかった。
叔父の遷善可汗は勇ましい人物で、唐の国境を次々と襲っていったが、同時に狡猾さも兼ね備えている人物であり、どうやら唐と突厥を対等な関係に持ち込みたかったらしい。
これは私たち日本人も痛感していることであるが、世界の中心に華々しく君臨する”中華”の王朝の力はすさまじい。我々はその中華の王朝に”朝貢”し、彼らの華々しい世界に組み込んでもらわなければ生きてゆけないのだ。
すでに私の生きた平安の世では、唐王朝の力は弱まったという。それでも私たちは、唐の詩を覚え、唐の書物を心の底から所望し、唐の律令を真似し、唐の人々であったらどう立ち振る舞うのだろうと考えて生きている。遣唐使を停止することを宇多帝に上奏した私が言うのもおかしな気分だが、我々も中華文明の一員なのだ。現にこの遣唐使の物語は、漢字がなければ書くことすらできない。
話が少しそれたが、要するに遷善可汗は、この世の秩序を大きくひっくり返そうとしたらしい。遷善可汗は唐の国境の村々を荒らしまわる一方で、ここぞという時には長安に使節を送り、唐王朝への忠誠を誓って、彼らに近づいて行った。
唐王朝も突厥を北と西の守り役にしようと考えたらしい。まもなく、彼の要求通りに則天武后の親族の娘が嫁として送り込まれた。皇女が降嫁するということは、たぐいまれない名誉であった。そして、ついに突厥の阿史那の一族は、唐の皇族と血で結びつくことになったのである。
の、はずであった。ところが、嫁いできた娘の姓は「李」ではなく「武」であったのだ。皆さんもご存知の通り、この頃の唐は、たぐまれない美貌と叡智と残酷さで権力を握った則天武后の時代で、彼女は実家の武氏を新たな支配者にすべく暗躍していたのである。
遷善可汗は怒り狂った。どうやら彼は”女帝”を認められなかったらしい。遷善可汗は軍勢を率いて南下し、唐の要所を荒らして回った。
その後、則天武后は自らの手で玉座から引きずり下ろした息子たちに帝位を譲り、唐は再び李氏の治める国となった。どうやら、彼女が退位を決意した理由の一つに、北から睨みを利かせる遷善可汗の存在があったらしい。
もちろん、それを寧王李憲と玄宗皇帝の兄弟たちも知っていた。あの祖母に己の野望を諦めさせた男が北方の大草原にいる。それは心強い味方にもなり得たし、手ごわい敵にもなり得た。
そこで、唐の方の兄弟は対策を練った。兄の李憲の愛娘の金山公主を遷善可汗に嫁がせることにしたのだ。時の皇帝の長男の娘を可賀敦として迎えることができ、遷善可汗は大いに喜んだらしい。
最も、その時長安の宮廷でひと騒動があり、家族を守るべく兄の李憲が弟の玄宗に皇太子の位を譲ってしまったことを、遷善可汗は知らなかったらしい。老齢となり、勝利に驕り、若い新妻の父の決断にも気づかない可汗から、突厥の人々の心は離れていったそうだ。唐や他の遊牧民の元に逃げ出す者が続出したという。
やがて遷善可汗は死んだ。鉄勒という遊牧民の中でも有力な九姓鉄勒との戦いのさなか、勝利に驕っていた瞬間に殺されて死んだ。
その知らせを、つい先ほど頡跌利施可汗の息子、阿史那默棘連と阿史那闕が聞いた。
命からがら烏徳鞬山の王族のユルタに戻ってきた使者は、遷善可汗の死を伝えると、遷善可汗の息子たちである移涅と同娥の前に倒れるようにひざまずいた。默棘連と闕にとっては父方の従兄弟にあたる。
「ああ、移涅可汗、あなたが……。」
そう言って崩れ落ちた使者を、従兄弟の移涅が抱きかかえる。頡跌利施可汗の2人の息子たちはぼんやりと眺めていた。
叔父の死後、叔父の子供たちが跡を継ぐのは誰の目にも明らかであった。従兄弟たちは重要な称号を与えられ、多くの軍勢を任せられていた。頡跌利施可汗の嫡流の息子たちが生きていることを、皆が忘れてしまったかのようだった。
ユルタの中にいた親族や重臣、戦士たちが悔しそうな顔で座り込んでさめざめと泣いていた。こういう時、突厥の者たちはすがすがしいほど泣く。そして気が済むまで泣いた後、すっきりとした顔で復讐に出かけるのだ。義理の息子である移涅や同娥とあまり歳の変わらない若き可賀敦の金山公主だけは、表情を変えずに固まっている。
頡跌利施可汗の2人の息子たちは叔父の死に涙する人々の姿を、冷めた目で見つめていた。兄弟の脳裏に、幼い頃の記憶が鮮やかによみがえる。偉大な頡跌利施可汗の死に涙した後、叔父とその一族がどんな仕打ちをしたのかを、2人はよく覚えていた。
涙をこぼしながら新たな可汗として慣れない指示を出す従兄弟が目に入った瞬間、默棘連と闕の中で何かがぷつりと切れた。
「兄上、どうかお許しください。」
弟の闕は、隣に立つ兄の默棘連にそう囁くと、さっと身をひるがえしてユルタの中央で涙をこぼす移涅に飛び掛かった。
移涅も草原の戦士である。慌てて飛びのいたが、闕の方が一瞬だけ早かった。
「闕、なんでお前が……!」
「泥棒の子供だからだ、移涅。」
そう言うと、弟の闕は新しい可汗の首を掻き斬った。真っ白なユルタに血が飛び散る。
そのあとのユルタは地獄だった。
闕は鋭く光る眼を爛々とさせて華麗に舞った。歴戦の戦士たちが次々と血を吹きだして倒れていく。
闕は的確に遷善可汗の血族を狙っていた。移涅の幼い弟たちはあっという間にに殺され、ユルタを飛び出そうとした同娥もあと一歩のところで首を掻き斬られた。默棘連がユルタの入り口をふさいでいたからだ。
それから、闕は叔父に忠誠を誓っていた大人たちを次々と斬り殺していった。男も女も容赦しなかった。必死の想いでユルタを飛び出していった者も皆、斬り殺された。頡跌利施可汗の息子たちに仕え続けた戦士たちが、ユルタの中の出来事を察して、飛び出して来た者たちを次々と捕えたからだ。
弟は、烏徳鞬の草原に血の海を作って、父の復讐をやり遂げたのだった。
血に染まりつつある紐を片手に、闕はひざまずいた兄の默棘連ををまっすぐに見つめた。
「……可汗になるべきなのは、闕、お前の方だ。」
兄はもう一度、弟に言い聞かせるように囁いた。
「父上の復讐をやり遂げたのは、お前だ。俺じゃない。」
突厥は遊牧民だ。草原で生きるのは楽なことではない。だから遊牧民の王には、力がいる。力なき王に誰が従うだろうか。默棘連の言葉は草原で生きていく者にとって、そしてこの8世紀という時代を生きる人々にとって、あたりまえのことであった。
「お前は、たったひとりで叔父上たちを倒した。父上の復讐を成し遂げた。それに俺は、お前がどれだけ優秀か知っている。戦いで勝ち抜く術も、平和に生きる術も、お前は知っている。」
默棘連は、もう一度弟の肩を叩いた。
「だから次の可汗になるべきなのは、お前だ。」
闕は黙って兄の黒い瞳を見つめた。静かな夜空のような瞳だった。
その瞳を見て闕は決意を固めたらしい。突然立ち上がると、血に染まりつつある紐を默棘連の首にかけた。
「キュ……!」
咄嗟に默棘連は首元に手を伸ばしたが、血に染まりつつある紐は既に默棘連の首を締めあげていた。
それを見て、ユルタの外で兄弟の様子を見守っていた戦士たちが一斉に声をあげてはやしたてる。血の惨劇から何食わぬ顔で生き延びた前の可賀敦の金山公主だけが、何も言わずに兄弟の姿を見つめた。
首を締めあげる、と聞いて現代の人は驚くであろう。だが中国の歴史書によると、どうやらこれは突厥に伝わる即位の儀式らしい。可汗は羊毛の紐で首を締めあげられる。その苦しみに耐えることで、可汗としての覚悟を見せるのだという。
力の限り首を締めあげる弟の腕を、兄は掴む。默棘連は少しでも紐を緩めようと闕の腕を内側に引っ張った。弟も負けじと腕に力を入れる。
その刹那、兄と弟の瞳が交錯する。月光の下で爛々と輝く闕の瞳は、すでに覚悟を決めていた。
默棘連は首を絞められたまま、夜の草原を吹き抜けた風を目いっぱい吸い込んだ。それから、弟の腕を外側に強く引っ張る。ちょうど紐で己の首を強く締め上げる形になり、あまりの息苦しさに意識が遠のいた。それでも、気力を振り絞って闕の瞳を睨み返す。
可汗になるのは俺だ、と自ら首を絞めることで、弟の覚悟に応えたのだ。
「兄上……。」
闕はそうつぶやくと、紐を手放した。
默棘連は、ぜえぜえと荒い息を吐きだした。肺に一気に入った草原の風があまりに冷たく甘いので、思わず涙が滲む。涙をこらえてゆっくり立ち上がると、血まみれの弟とその戦士たちが、草原にひざまずいていた。
「……我が可汗に栄光あれ。」
默棘連は静かに頷くと、感極まって夜空の月を見上げた。月は静かに草原を照らしていた。
この夜、突厥の繁栄の時代を築く毘伽可汗が即位した。そして毘伽可汗の傍らには、常に最強の副官たる闕特勤が控えているのである。
彼らは知らなかったが、ちょうど同じ夜、はるか南東の唐の長安の宮廷の窓からも、2人の兄弟が月を見上げている。寧王こと李憲と、玄宗皇帝こと李隆基の兄弟である。
この唐王朝の兄弟も、”何もしなかった兄と行動を起こした弟”という点では突厥の兄弟とよく似ていた。また、互いを心の底から信頼し合っていたというところも、よく似ていた。
決闘と血筋を重んじる唐で、李憲と李隆基は弟が皇位を継ぐという決断をした。一方、実力を何よりも重んじる突厥で默棘連と闕は兄が可汗の位を継いだ。なかなか興味深いことだと、一介の歴史家として私は思う。
阿倍仲麻呂と吉備真備が向かう大陸には、この2組の兄弟が待ち構えているのである。
いよいよ突厥の登場です。
もともと突厥はこの物語に登場させたくて一生懸命調べていたのですが、調べていくうちに、全く同じ時代に、王位を譲り合った兄弟が2組もいる、ということにとても驚きました。
なお、毘伽可汗の本名である阿史那默棘連のテュルク語読みがどうしてもわからなかったので、トルコ語で似た響きで意味が素敵な「オズギュル」という発音にさせてもらいました。
突厥に関してはまだ私自身よくわかっていないことも多いので、詳しい方がいたらぜひ教えてください。




