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むささびは木末求むとあしひきの山の猟師に逢ひにけるかも【日本】

タイトルは、志貴皇子の和歌です。

 阿倍仲麻呂あべのなかまろ白猪真成しらいのまなり下道真備しもつみちのまきびの3人は、満足げな表情で二条大路を歩いていた。朝の間は晴れ渡っていた空には雲が多くなり、強い日差しを遮っている。

 朱雀門に面した二条大路には、多くの人が行きかっていた。

 色とりどりの色の朝服を身に着けた官人たち、鮮やかな衣装でゆっくりと歩く女性たち。大きな荷物を抱えた農民たちが大きな声で何か叫びながら歩いていき、籠を抱えた女たちが賑やかに笑いながらすれ違っていく。子どもたちが走り回り、大路の片隅では1匹の猫が伸びをしていた。平城宮を囲む土塀のあたりには、僧侶が数人立って道行く人に仏の教えを説いていて、見回りの衛士から冷たい目で睨まれていた。

「いやぁ、まさか山上憶良やまのうえのおくら殿の日記を読ませていただけるとは。」

 真成が感慨深げに空に向かって叫ぶように言った。その後ろを歩く仲麻呂と真備も頷くしかない。

大伴旅人おおとものたびと殿に預けておいてくださるなんて、なんて奇跡だ。」

 3人は、前回の遣唐使の一員として唐に渡った山上憶良やまのうえのおくらが、旅の記録を書き残した日記を読みに出かけたのである。

 山上憶良本人は現在、伯耆国ほうきのくにに出向いており、会うことはかなわない。最も、下道真備が生まれ故郷の吉備国きびのくにに顔を出すついでに会いに行くという手もあったのだが、真備は勉学を優先したいと断っていた。

 しかし、憶良はもうすぐ遣唐使が派遣されるであろうことを予測していたらしい。そこで、友人の大伴旅人おおとものたびとの邸に唐での日記を預けていたのである。次に唐に渡る若者の道しるべになるように、と。

 大伴旅人おおとものたびとは、上古の時代よりずっと大王を守り続けた武門の名族の末裔である。今は中務卿なかつかさきょうとして、天皇みかどの補佐、詔勅の宣下や叙位など、朝廷に関する職務の全般を担っている。人を動かすのが上手いというのが評判だが、それ以上に酒好きで評判だ。今日も、友人の日記を読みに来た若者たちは、酒を断るのに随分骨を折っていた。

「記録の中によく出てきた弁正べんせいという僧侶が気になるな。」

 真備がぽつりと呟いた。

 弁正べんせいは渡来系の血を引くはた氏の生まれで、学問僧として入唐にっとうしたのだという。幼いころに出家して寺院で仏の教えを学んだにもかかわらず、『易経』などの孔子の教えの方が好きであったらしく、唐に行けばどちらも学べると意気込んでいたらしい。僧侶としてはやや軽はずみな面があったものの、陽気な人物で憶良も随分心を開いていたらしいことが、日記の端々から読み取れた。さらに囲碁が得意で、大きく揺れる船の中でも囲碁をやろうと悪戦苦闘していたそうだ。

 弁正は長安でより深く学びたいと帰国の船に乗らず、今も唐に残っているらしい。

 旅人は、もし長安で弁正に会ったら「今回の遣唐使の船で帰ってきたら、平城京でゆっくり囲碁でもやろう」という憶良の言葉を伝えてやってほしいと、少し寂し気に言っていた。それが、妙に3人の心にこびりついていた。



「真備、俺と仲麻呂は垂水広人たるみのひろひと先生のところに顔を出そうと思っているんだけれど、来る?」

 先を歩いていた真成が突然、後ろを振り向いて下道真備を見つめた。

「誘ってくれたのは嬉しいんだけど、ちょっとこの後、用事があるんだ。」

「用事?」

県犬養石次あがたいぬかいのいわすき殿の代わりに、志貴皇子しきのみこ様のお屋敷に届け物を渡しに行く。」

 仲麻呂と真成が驚いた顔で真備を見つめた。

「志貴皇子様といえば、大変教養のあるお方ではないか。いいなぁ。」

「お屋敷のお庭も素晴らしいんだってね。まるで美しい山がそのまま都に現れたようだって、評判だ。」

 真成がにこにこ笑いながら言った瞬間、二条大路の向こう側から叫び声が聞こえた。3人の学生たちだけでなく、鮮やかな衣装の女性の群や、荷物を担いだ農民の群、何やらぶつぶつ言いながら歩いていた僧侶も、叫び声の方を振り向く。砂埃がもうもうと立ち上っていた。

「向こうで馬が暴れているぞ!」

「おい、そこ避けろ!危ない!」

 どうやら、荷物を運んでいた馬が数頭、何かの拍子に暴れはじめ、荷物を振り乱しながら二条大路を疾走しているらしい。暴れる馬たちを止めようと持ち主の男が走り回っている。慌てて逃げ出す者、野次馬根性ではやし立てる者、何が起こったか分からずぽかんとしている者もいた。

「暴れ馬か、こっちに来るぞ。」

 砂埃の向こう側を見ようと背伸びをしながら、真成は低い声でつぶやく。

 次の瞬間、土埃の中から馬の荒い鼻息が響いた。黒々とした鼻が阿倍仲麻呂青年の目の前に現れる。暴れ馬が目の前まで迫っていたのである。

「仲麻呂、こっちだ!」

 真備は思わず仲麻呂の腕を引っ張る。その瞬間、仲麻呂の身体は勢い余って吹っ飛び、傍で大路の様子をうかがっていた若い僧侶にぶつかった。仲麻呂と僧侶は仲良く地面に転がった。

「仲麻呂、大丈夫か?」

 真成が慌てて仲麻呂のところに駆け寄る。地響きのような馬の足音が彼らを揺らした。

「……俺は、大丈夫だ。それよりも、俺がぶつかった人は?」

 真成が顔を挙げると、若い僧侶のところに真備が駆け寄って手を差し伸べている姿が見えた。

「大丈夫ですか?」

「……すみません。」

「こちらこそ、申し訳ない。お怪我はありませんか?」

「はぁ、大丈夫です。」

 若い僧侶は真備に差し出された手を掴んで感情の読めない顔で立ち上がると、さっさと手を振り払って、法衣についた土ぼこりをバサバサと乱雑に払った。

「あの、本当にお怪我はありませんか?」

 真備は申し訳なさそうにもう一度尋ねる。

「大丈夫だ。」

「あの、お名前とお寺の名前を教えていただけないですか? 何かあった時に『知らなかった』では済まないですから。」

 真備はおずおずと言葉を続けた。

「私は、下道真備しもつみちのまきびと言います。」

 若い僧侶は、細い目で下道真備を見つめた。

 非常に若く身なりも質素ではあったが、着ているものと丁寧な言葉遣いから、朱雀門の内側に入ることのできる人物であることが察せられる。謙遜している田舎者のようだったが、若さと希望と自信に満ち溢れてまぶしいばかりだ。

 僧侶は、真備まきびの真摯な黒い瞳をじっと見つめる。地位も権力もない若者のくせに、まるでこの国を一人で背負ったような覚悟を己のうちに隠しているようだった。その真剣な瞳に、さすがの彼も魅入られた。

「……拙僧せっそう玄昉げんぼうと申す。」

「どちらにお寺に?」

「今は興福寺こうふくじに世話になっている。お師匠様は飛鳥寺あすかでらにいらっしゃるが、この度、朝廷から命じられて都に来ることになった。」

「では、都に来て間もないのですね。私もですよ。」

 真備はそう言って、へにゃりと笑った。

「私も吉備国きびのくにから来て、まだ不慣れなことばかりです。」

「はぁ、そうですか。」

 玄昉は、興味があるのかないのかわからない声で答えた。

「拙僧は興福寺こうふくじで仏の教えを教わりながら、掃除などの雑用を手伝っています。この後もやらねばいけないことがある故、拙僧はこれにて。」

「ああ、そうですか。引き留めてしまって、申し訳ございません。」

 若い僧侶は、また何やらぶつぶつ呟きながら二条大路の向こうに消えていった。



 暴れ馬は無事捕まったらしく、馬の持ち主がぜえぜえと荒い息を吐きながら馬を引っ張っていく姿が見えた。大路の人々はあれこれ馬の話をしながらまた元のように歩きだしていく。

「なんか変な坊さんだったな。」

 真成がぽつりと呟いた。

「真備とは話していたが、俺たちには目もくれなかった。」

「仲麻呂と一緒で、友達があんまりいない性質なんじゃない?」

「おいっ、真成!」

「ごめんって。それで、さっきの話だけど。真備、志貴皇子しきのみこ様への届け物って、何だい?」

 真備は、あっけらかんとした顔で尋ねる真備を見て怪訝そうな顔をしたが、すぐに口を開いた。

「珍しいキノコだ。昔から県犬養あがたいぬかいの人々が暮らしていた地域で、健康にいいと伝わっているキノコで、志貴皇子様の長寿をお祝いして献上する約束だったそうだ。」

「キノコ?」

 阿倍仲麻呂は体のあちこちの土ぼこりを払いながら、怪訝そうな顔をした。一方、白猪真成は納得したような顔で頷いた。

「確かに、志貴皇子様はご高齢だ。健康に役立つものを献上するのはいい案だな。」

「実は、旅人殿の邸と皇子様の邸は近いから、もう持ってきてあるんだ。」

「なるほど、その大きな包みはキノコだったってわけか。愛しいあの人のところに家出でもするのかと思ったよ。」

「真成、冗談はやめてくれ。」

「しかし、そんなに珍しいキノコなのか?」

「いや、俺にはさっぱり。たくさんあるみたいだから、一欠片あげようか?」

「それ、泥棒って言うんだよ。」

 そう言いながらも、真成はすっかり乗り気だ。真備も包みの隙間から手を突っ込むと、乾燥したキノコの欠片を引っ張り出した。白っぽいキノコで、黒い模様がついている。

「ふーん。こんなキノコがねぇ。」

 真成は光にかざすようにキノコを見つめる。仲麻呂もそれを見上げて、思わず息をのんだ。よく似た模様を、先日伯父の家で見たばかりだ。

「じゃあ仲麻呂、真成、皇子様の邸はあちらなので、私はここで失礼する。」

 曲り角まで来ると、真備はそう言って雑な礼をした。足早に去っていく友人の後姿に、真成が大きな声で呼びかける。

「真備、またな!」

 真備はこちらを振り向かずに片手を上げた。次の瞬間、大きな荷物を抱えた農民の集団が二条大路に飛び出してきて、真備の姿が見えなくなる。




「さっ、俺たちは垂水広人たるみのひろひと先生の所へ行こうぜ。」

 そう言って歩き出した白猪真成を、阿倍仲麻呂が腕をつかんで静かに止めた。

「真成、あのキノコは毒だ。」

「はぁ?」

 白猪真成は馬鹿にしたような声をあげた。

「お前、遣唐留学生に選ばれて、頭がいかれちまったんじゃないのか?」

「あの黒い模様、あれが特徴なんだ。」

「なんで、お前がそんなことを知っているんだよっ!」

 真成が声を潜めて叫んだ。仲麻呂は、伯父の家での一件を思い出しながら、口を開いた。

「伯父上の家人が間違えて手に入れてきたそうだ。肌に赤い出来物ができたり、熱や息苦しさで苦しむらしい。」

「中納言のお屋敷って、そんな危ないものが転がっているのか。これだから大貴族様って怖えよな。」

「少しならすぐ死ぬことはないって言ってたけど、少なくとも長寿の薬ではないよ。」

「にしても、そんなものが家に転がっているの、危なくない?」

「……だから、家人が間違えて毒キノコをもらってきちゃったんだって。もちろん処分したよ。」

 白猪真成は何とも言えない表情で、中納言の甥である親友の焦った顔を眺めた。

「とにかく、真備を止めないと。」

「でも、どうやって?」

「跡をつけてみよう。」

 2人の若者は顔を見合わせると、一目散に走りだした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

志貴皇子は、透き通った清流のような歌を詠まれる方だなと思います。

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