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登場人物紹介

登場人物がものすごく増えてしまったので、主要な人物を整理しました。

混乱してしまった人や、あらかじめ歴史を確認しておきたい人はぜひご一読ください。


ただ、まだ本編には登場していない人物も登場していて、ネタバレになっています。

ネタバレを避けたい方は、飛ばしていただいて構いません。


随時更新していく予定です。

登場人物紹介


※…高校の日本史や世界史、古典などの教科書に登場する人物


《語り手》


菅原道真すがわらのみちざね(※)

 平安京(現在の京都府)で生まれ育った学者。土師はじの流れをくむ菅原すがわらの氏族の出身。

 学者の父に育てられ漢詩の才で出世し、右大臣うだいじんにまでのぼりつめるが、大宰府だざいふに左遷させられ命を落とす。

 遣唐大使に選ばれるが、西暦894年に遣唐使の派遣を停止するという決定を下した。

 死後、天神として祀られ、現在では”学問の神”として崇められている。




《遣唐留学生たち》


阿倍仲麻呂あべのなかまろ(※)

 平城京(現在の奈良県)で生まれ育った貴族の息子。代々朝廷に仕える阿部あべの氏族の出身。

 幼い頃から書物を読むのが好きで、成績優秀。唐に憧れを持っていた。

 世間知らずで人見知りの内向きな青年だが、まっすぐで素直な心を持つ。

 西暦717年の遣唐使と共に唐に渡り、玄宗皇帝に重用され、故郷に帰れないまま唐で没した。

 後に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と称えられる。




吉備下道真備きびしもつみちのまきび(※)

 吉備きびあらため備中国びっちゅうのくに(現在の岡山県)の吉備下道きびしもつみちの氏族の出身。

 幼い頃から非常に優秀だと評判で、都の大学寮に上がり、進士試に甲第で合格する。

 この国のためには犠牲は覚悟しなければならないと、やや諦めているふしがある。

 西暦717年の遣唐使と共に唐に渡る。帰国後、聖武天皇に重用され、激動の奈良時代を生き抜く。

 後に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と称えられる。


 


白猪真成しらいのまなり(※)

 河内国かわちのくに(現在の大阪府)のあたりの白猪しらいの氏族の出身。

 先祖は中国大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人とらいじんで、真成も異国の言葉をいくつか操れる。

 明るい性格で、分け隔てなく様々な人に話しかけることができ、阿倍仲麻呂にとっては唯一の親友。

 西暦717年の遣唐使と共に唐に渡り「井真成いのまなり」と名を変えたが、故郷に帰れないまま若くして亡くなる。

 平成の世になって墓誌が発見されるまで、忘れ去られていた。




玄昉げんぼう(※)

 伊勢国いせのくに(現在の三重県)出身の僧侶。

 乱暴な言動をすることが多く、仲間の僧侶たちからは嫌われているが、頭の回転は速くて優秀。

 西暦717年の遣唐使と共に唐に渡り、唐の仏教を学んで帰国。帰国後は聖武天皇に重用される。

 天下の悪僧とも蔑まれ、日本仏教の祖とも称えられる、強烈な僧侶である。




羽栗吉麻呂はぐりのよしまろ

 山背国やましろのくに(現在の京都府)出身の農民。

 本人から特別に話があったわけではないが、苦しい生活を送っていたらしい。

 きちんとした教育を受けたわけではないが、なぜか唐の言葉を操ることができる。

 西暦717年の遣唐使と共に唐に渡り、遣唐留学生の従者として共に生活する。

 後に、唐で生まれた息子たちと共に日本に帰国する。







《奈良の平城京の人々》


元正天皇げんしょうてんのう【天皇家】(※)

 日本の第44代天皇。即位前の名前は氷高皇女ひだかのひめみこ

 草壁皇子くさかべのみこ元明天皇げんめいてんのうの長女、文武天皇もんむてんのう吉備内親王きびのないしんのうの姉にあたる。

 また、天武天皇てんむてんのう持統天皇じとうてんのう、さらには天智天皇てんちてんのうの血も引いている。

 母と同じように中継ぎの天皇として即位し、甥の首皇子おびとのみこが成長するのを待っていた。




藤原不比等ふじわらのふひと【藤原氏】(※)

 中臣鎌足なかとみのかまたりの次男で事実上の後継者。

 若くして父を亡くし壬申の乱で親族も失うが、己の才覚と血筋を使ってのし上がり、平城京の実権を握った。

 大宝律令たいほうりつりょうの編纂に力を尽くし、現在はそれの改定作業に力を尽くしている。 

 また、まだ生まれたばかりの藤原ふじわらの氏族の繁栄のため、子供たちの進路にも腐心している。

 最初の妻は蘇我娼子そがのしょうし。後に宮廷の女官である県犬養三千代あがたいぬかいのみちよと再婚した。




首皇子おびとのみこ【天皇家】(※)

 文武天皇もんむてんのう藤原宮子ふじわらのみやこの子。

 天武天皇てんむてんのう持統天皇じとうてんのうの正統な後継者たる草壁皇子くさかべのみこの孫にあたり、嫡流の血を引く唯一の男子。

 また、母方から藤原不比等ふじわらのふひと、ひいては中臣鎌足なかとみのかまたりの血も引いている。

 後に、第45代天皇として即位し、聖武天皇しょうむてんのうと名乗り、激動の奈良時代を生きていく。




藤原安宿媛ふじわらのあすかべひめ【藤原氏】(※)

 藤原不比等ふじわらのふひと県犬養三千代あがたいぬかいのみちよの娘。

 同い年で幼馴染の首皇子おびとのみこに嫁ぎ、皇太子妃となった。

 朗らかで聡明な性格で光明子こうみょうしという呼び名もつけられているが、兄や姉たち曰く、ややお転婆すぎるところがあるらしい。

 後に、夫の聖武天皇しょうむてんのうを支える光明皇后こうみょうこうごうとして激動の奈良時代を生きていく。




阿倍内親王あべのないしんのう【天皇家】(※)

 聖武天皇しょうむてんのう光明皇后こうみょうこうごうの娘。聖武天皇の次女にあたる。

 後に孝謙天皇こうけんてんのうとして即位する。

 母譲りの聡明さを持ち、父の正統なる皇位継承者としての血筋に誇りを持つ。




基王もといおう【天皇家】

 聖武天皇しょうむてんのう光明皇后こうみょうこうごうの息子。聖武天皇の長男にあたる。

 誕生を待ち望まれた皇子であったが、わずか1歳で亡くなる。

 なかなか男子が生まれない焦りが、長屋王の変をはじめとする様々な悲劇を引き起こしていった。




県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじ【県犬養氏】

 聖武天皇しょうむてんのうの夫人の1人で、県犬養の氏族の出身。

 光明皇后こうみょうこうごうに子が生まれなかった時の予備スペアとして県犬養三千代あがたいぬかいのみちよが後宮に送り込んだ。

 穏やかで儚げな女性で、光明皇后こうみょうこうごうとはそれなりに交流があったらしい。

 井上内親王いのえないしんのう不破内親王ふわのないしんのう安積親王あさかしんのうの3人の子に恵まれるが、彼らは悲劇的な最期を迎えた。




井上内親王いのえないしんのう【天皇家】

 聖武天皇しょうむてんのう県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじの長女。聖武天皇の長女にあたる。

 藤原氏から冷遇され、5歳で伊勢の斎宮さいくうに選ばれ、都を離れる。

 後に、権力争いとは無縁な白壁王しらかべおうと結婚し、他戸親王おさべしんのうを産む。

 しかし、激しい政治闘争の果てに天武てんむ天皇の血を引く皇族がほとんどいなくなったことから白壁王しらかべおう他戸親王おさべしんのうは人々の注目を集めてしまい、最期は息子共々、藤原式家の藤原百川ふじわらのももかわらの暗躍によって暗殺された。




不破内親王ふわのないしんのう【天皇家】

 聖武天皇しょうむてんのう県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじの長女。聖武天皇の三女にあたる。

 新田部親王にいたべしんのうの子である塩焼王しおやきおうに嫁ぐが、度々姉の孝謙天皇こうけんてんのうから都を追い出される。




安積親王あさかしんのう【天皇家】

 聖武天皇しょうむてんのう県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじの息子。聖武天皇の次男にあたる。

 聖武天皇の唯一の男子として将来を期待されていたが、17歳で急死。

  



県犬養三千代あがたいぬかいのみちよ【県犬養氏→橘氏】(※)

 朝廷に仕える県犬養あがたいぬかいの氏族出身の女官で、元明天皇げんめいてんのうに仕えていた。

 はじめは皇族の美努王みぬおうに嫁ぎ、葛城王かつらぎおう佐為王さいおう牟漏女王むろじょおうを産む。

 しかし更なる権力の高みを目指して美努王みぬおうを捨て、藤原不比等ふじわらのふひとと再婚し、藤原安宿媛ふじわらのあすかべひめを産んだ。

 宮中の女官として絶大な影響力を持ち、陰ながら夫を支えている。

 後に「たちばな」の氏を与えられ、夫の「藤原ふじわら」に並ぶ名門として栄えていくことになる。




藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ【藤原南家】(※)

 藤原不比等ふじわらのふひと蘇我娼子そがのしょうしの子で、不比等の長男。

 名門藤原家の嫡男ちゃくなんとして人々の期待と妬みを一身に集めている。

 まじめな性格で若い人材の育成に関心があり、大学寮だいがくりょうを充実させようと意気込んでいた。

 なお、若き日の聖武天皇しょうむてんのうの教育係も務めており、武智麻呂の熱意の被害者となっている。

 不比等の死後は藤原氏の長として兄弟たちをまとめ上げ、左大臣さだいじんにまで昇り詰めるが、天然痘てんねんとうで亡くなった。

 彼の子孫は「藤原南家ふじわらなんけ」と呼ばれている。




藤原房前ふじわらのふささき【藤原北家】(※)

 藤原不比等ふじわらのふひと蘇我娼子そがのしょうしの子で、不比等の次男。

 兄弟の中ではもっとも政治の才能を持っていると言われ、人々に注目されている。

 明るく朗らかな性格で、話が上手だが嘘が混ざることも多い。主に東国の要職を歴任した。

 不比等の死後は兄弟と共に政治の頂点に立つが、天然痘てんねんとうで亡くなった。

 彼の子孫は「藤原北家ふじわらほっけ」と呼ばれ、平安時代には摂関政治せっかんせいじを行った。




藤原宇合ふじわらのうまかい【藤原式家】(※)

 藤原不比等ふじわらのふひと蘇我娼子そがのしょうしの子で、不比等の三男。

 兄の武智麻呂むちまろ房前ふささきとは歳が離れている。

 明るく行動的な性格で、弟や妹たちをやんちゃな遊びに連れ出していた。

 西暦717年の遣唐副使として唐に渡り、帰国後はその経験を活かして西国の防衛を固める。

 不比等の死後は兄弟と共に政治の頂点に立つが、天然痘てんねんとうで亡くなった。

 彼の子孫は「藤原式家ふじわらしきけ」と呼ばれた。




藤原麻呂ふじわらのまろ【藤原京家】(※)

 藤原不比等ふじわらのふひと中臣五百重娘なかとみのいおえのいらつめの子で、不比等の四男。

 なお、天武天皇の子である新田部親王にいたべしんのうが異父兄にあたる。

 あまり自分に自信を持たない無気力な性格で、権力にも関心がなく、兄たちを心配させている。

 不比等の死後は兄弟と共に政治の頂点に立つが、天然痘てんねんとうで亡くなった。

 彼の子孫は「藤原京家ふじわらきょうけ」と呼ばれた。





藤原豊成ふじわらのとよなり【藤原南家】

 藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ阿部貞媛あべのさだひめの長男。

 藤原氏の嫡流たる「藤原南家」の後継ぎとして育てられる。

 天然痘で父や叔父が死んだ後は、藤氏長者として一族をまとめた。

 



藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ【藤原南家】(※)

 藤原武智麻呂ふじわらのむちまろ阿部貞媛あべのさだひめの次男。

 算術が好きで、阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろの邸に通って教わっている。

 後に叔母にあたる光明皇后と手を組み、恵美押勝えみのおしかつと名乗って政治の実権を握るが、孝謙こうけん上皇と対立して戦に敗れた。




藤原永手ふじわらのながて【藤原北家】

 藤原房前ふじわらのふささき牟漏女王むろじょおうの息子。

 「藤原北家」の嫡男として育てられる。

 温厚でバランス感覚に優れた人物であり、藤原ふじわらの氏族の融和に努めた。

 一方で、陰謀や策略を張り巡らせるのは苦手。




藤原真楯ふじわらのまたて【藤原北家】

 藤原房前ふじわらのふささき牟漏女王むろじょおうの息子。元の名は藤原八束ふじわらのやつか

 和歌や漢詩の才能を持ち、非常に優秀であると聖武天皇に信頼されていた。

 激動の奈良時代を逞しく生き抜き、子孫は藤原摂関家ふじわらせっかんけとして繁栄していく。




藤原御楯ふじわらのみたて【藤原北家】

 藤原房前ふじわらのふささき牟漏女王むろじょおうの息子。元の名は藤原千尋ふじわらのちひろ

 妻の児依るい藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの娘であったため、授刀督として仲麻呂なかまろ政権の軍事面を支えた。

 彼の早すぎる死が、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろの敗因の一つだと言われている。



藤原清河ふじわらのきよかわ【藤原北家】(※)

 藤原房前ふじわらのふささきの息子の1人。

 後に、西暦750年の遣唐大使に選ばれて、吉備真備きびのまきびと共に唐に渡り、阿倍仲麻呂あべのなかまろと出会う。

 しかし帰りの船が漂流して帰国が叶わず、唐の地で亡くなる。




藤原広嗣ふじわらのひろつぐ【藤原式家】(※)

 藤原宇合ふじわらのうまかい石上国盛いそのかみのくにもるの長男。

 後に、若くして父の跡を継いで「藤原式家」の長となり、九州の大宰府だざいふを任される。

 九州の現状を知った広嗣は何とかしようと奔走するが、唐で学んだ知識を振りかざす吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうと対立してしまう。

 さらに従兄弟たちの中央での栄達を見て焦り、ついに九州で反乱を起こすが鎮圧され、自害して果てた。

 なお、この藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱は、聖武天皇に大きな衝撃を与えたと言われている。

 



阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろ【阿部氏】

 阿倍比羅夫あべのひらふの長男で、朝廷に仕える阿部あべの氏族の長。阿倍仲麻呂あべのなかまろの伯父。

 算術に優れており、平城京の造営の際に活躍した。

 西暦717年頃には中納言として政治の中枢を支えており、藤原不比等ふじわらのふひとの同僚である。

 なお晩年、藤原武智麻呂ふじわらのむちまろの次男の藤原仲麻呂ふじわらのなかまろにせがまれて算術を教えている。




阿部広目あべのひろめ【阿部氏】

 阿倍比羅夫あべのひらふの次男。既に亡くなっている。阿倍仲麻呂の伯父の1人。




阿倍安麻呂あべのやすまろ【阿部氏】

 阿倍比羅夫あべのひらふの三男で、阿倍仲麻呂あべのなかまろの伯父の1人。

 西暦717年の遣唐押使に選ばれたが、体が弱いことを理由に辞退する。




阿部船守あべのふなもり【阿部氏】

 阿倍比羅夫あべのひらふの四男で、阿倍仲麻呂あべのなかまろの父。

 朝廷に仕える官僚の1人で広い人脈を持つが、ややお調子者のところがある。

 



阿部帯麻呂あべのおびまろ【阿部氏】

 阿部船守あべのふなもりの次男で、阿倍仲麻呂あべのなかまろの弟。

 兄弟の仲は良かったが、遣唐留学生に選ばれた兄とは幼くして別れた。

 兄ほど才能に恵まれておらず、長屋王ながやおうによって出世の道を阻まれてしまう。

 なお、彼の娘が後に藤原北家の藤原真楯ふじわらのまたてに嫁いで、阿部氏の血脈を伝えている。



阿倍駿河あべのするが【阿部氏】

 阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろの長男で、阿倍仲麻呂あべのなかまろの従兄弟。

 蝦夷の反乱に際し、多治比縣守と共に軍勢を率いて戦う。




白猪広成しらいのひろなり【白猪氏→葛井氏】

 白猪道麻呂しらいのみちまろの子で、白猪真成しらいのまなりの兄。

 先祖伝来の漢文の知識を買われ、将来有望な官僚として期待されている。

 西暦719年の遣新羅使に任命されるなど、外交面でも活躍した。

 後に葛井広成ふじいのひろなりと名を改めている。

 妻は女官として光明皇后に仕えた県犬養八重あがたのいぬかいのやえ




長屋王ながやおう【天皇家】(※)

 未来の平城京を動かすだろうと期待されている皇族。

 父は天武天皇の長男の高市皇子たけちのみこで母は天智天皇の皇女である御名部皇女みなべのひめみこ

 妃は天皇の妹である吉備内親王きびのないしんのうであり、皇位継承の有力候補である「北宮王家」の長。

 非常に厳格な性格で、いかなる理由があろうと規則を守るべきだと考えている。

 一方で、守れない規則があるのであれば規則の方を変えるべきだという柔軟な考えも持つ。

 真面目過ぎる性格が災いして和歌は苦手。漢詩の方がまだ得意らしい。

 藤原不比等ふじわらのふひとが長屋王を味方に引き入れるために、娘の藤原長娥子ふじわらのながこを嫁に出すほどの実力者であった。

 後に、聖武天皇しょうむてんのう藤原ふじわら氏を脅かす存在として自害に追い込まれる。




吉備内親王きびのないしんのう【天皇家】

 草壁皇子くさかべのみこ元明天皇げんめいてんのうの次女。

 元正天皇げんしょうてんのう文武天皇もんむてんのうと妹にあたる。

 また、天武天皇てんむてんのう持統天皇じとうてんのう、さらには天智天皇てんちてんのうの血も引いている。

 長屋王ながやおうに嫁ぎ、「北宮王家」の女主人となって膳夫王かしわでおう桑田王くわたおう葛木王かつらぎおうを産む。

 最期は、夫と共に自害して果てる。




膳夫王かしわでおう【天皇家】

 長屋王ながやおう吉備内親王きびのないしんのうの長男。

 天智天皇てんちてんのう天武天皇てんむてんのう持統天皇じとうてんのう草壁皇子くさかべのみこ高市皇子たけちのみこ元明天皇げんめいてんのうと、飛鳥の都の重要な人物の血を両親から受け継いでおり、血筋の良さでは聖武天皇しょうむてんのうをも凌駕する。

 やがて、子に恵まれない聖武天皇しょうむてんのう予備スペアとして、存在感が高まっていき、長屋王ながやおうの変の原因となってしまう。




藤原長娥子ふじわらのながこ【藤原氏】

 藤原不比等ふじわらのふひとの娘。長屋王に嫁ぎ、安宿王あすかべおうを産む。

 後に、夫と実家が対立する苦しい状況の中を逞しく生き抜いていった。




葛城王かつらぎおう【天皇家→橘氏】(※)

 美努王みぬおう県犬養三千代あがたいぬかいのみちよの長男。

 皇族だが、嫡流からは離れているため皇位継承の可能性はほとんどない。

 母の再婚や異父妹の誕生によって、藤原氏との関係を強め、政治の世界に進出していった。

 何事も柔軟に対応していくべきだと考えており、じっくり腹を割って話し合って物事を解決する性格の持ち主。

 そのため、長屋王とは正反対の性格だが、相性は悪くないらしい。

 和歌を詠むのは好きだが、あまり上手ではない。

 藤原不比等ふじわらのふひとの娘の藤原多比能ふじわらのたびめを妻にしている。

 後に臣籍降下しんせきこうかして橘諸兄たちばなのもろえと名乗り、天然痘てんねんとうで傷ついた日本を立て直そうと奔走する。




藤原多比能ふじわらのたびめ【藤原氏】

 藤原不比等ふじわらのふひとの娘。宮中にも出仕している。

 葛城王かつらぎおうに嫁いだが、なかなか子供が生まれなくて悩んでいる。




たちばなの奈良麻呂ならまろ【橘氏】(※)

 葛城王かつらぎおう橘諸兄たちばなのもろえ)と藤原多比能ふじわらのたびめの長男。

 名門のたちばな氏の跡取りとして人々に期待されるが、権力を取り返そうとする藤原南家の藤原仲麻呂ふじわらのなかまろと対立。

 ついに反乱を起こすが、最期は獄死した。




佐為王さいおう【天皇家→橘氏】

 美努王みぬおう県犬養三千代あがたいぬかいのみちよの次男。

 皇族だが、嫡流からは離れているため皇位継承の可能性はほとんどない。

 母の再婚や異父妹の誕生によって、藤原氏との関係を強めた。

 政治にはあまり関心がなかったが、文化芸術への造詣が深く、聖武天皇しょうむてんのうの教育係も務めている。

 天然痘てんねんとうの流行で亡くなった。




大伴古慈斐おおとものこしび【大伴氏】

 まだ若いが才能があり、藤原不比等ふじわらのふひとの娘婿となった。




藤原殿刀自ふじわらのととじ【藤原氏】

 藤原不比等ふじわらのふひとの娘。大伴古慈斐おおとものこしびに嫁ぐ。




新田部親王にいたべしんのう【天皇家】

 天武天皇と中臣五百重娘なかとみのいおえのいらつめの息子。

 皇族勢力の重鎮として聖武天皇しょうむてんのうからも信頼されている。

 なお、藤原麻呂ふじわらのまろは異父弟にあたり、何かとかわいがっているらしい。




粟田真人あわたのまひと【粟田氏】(※)

 若くして出家し道観どうかんと名乗り、西暦653年の遣唐使として唐に渡った。

 その際に藤原真人ふじわらのまひとと同じ船に乗っていたという。

 後に、その弟である藤原不比等ふじわらのふひとと共に大宝律令たいほうりつりょうを編纂した。

 西暦701年の遣唐使では遣唐執節使けんとうしせつしに任命され、再び唐に渡った。




下毛野古麻呂しもつけののこまろ【下毛野氏】(※)

 下毛野国造しもつけののくにのみやつこ家の血を引く氏族の出身。

 藤原不比等ふじわらのふひとと共に大宝律令たいほうりつりょうを編纂した。

 また奈良時代に東国一の栄華を誇った下野薬師寺しもつけのやくしじを創建したという。




県犬養石次あがたのいぬかいのいわすき【県犬養氏】

 県犬養三千代あがたいぬかいのみちよの弟。姉の力で出世していく。

 藤原武智麻呂ふじわらのむちまろが「優秀だが困窮している学生を貴族が支援する」という政策を行った時に姉と共に賛同し、将来有望な若者を取り込もうとした。

 その結果、若き日の吉備真備きびのまきび県犬養石次あがたのいぬかいのいわすきの邸で世話になることになり、彼の甥の橘諸兄たちばなのもろえと接点を持つことになった。




大伴旅人おおとものたびと【大伴氏】(※)

 武門の家である大伴おおともの氏族出身の将軍。外交や防衛の専門家。

 山上憶良やまのうえのおくらと仲が良い。和歌と酒をこよなく愛す人物でもある。




山上憶良やまのうえのおくら【山上氏】(※)

 春日かすが氏に連なる氏族の出身で、粟田真人とは同族にあたる。

 西暦701年の遣唐使に抜擢されたことをきっかけに活躍の場を広げる。

 社会を鋭く観察した「貧窮問答歌ひんきゅうもんどうか」などの和歌を残した。




多治比池守たじひのいけもり

 多治比嶋たじひのしまの子。

 阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろと共に造平城京司長官として平城京を作り上げる責任者を務めた。

 西暦717年の遣唐使に参加した弟を、大宰帥だざいのそちとして見送る。




多治比縣守たじひのあがたもり

 多治比嶋たじひのしまの子。多治比池守たじひのいけもりの弟。

 娘を大伴旅人おおとものたびとに嫁がせていて、孫が大伴家持おおとものやかもち

 西暦717年の遣唐使を率いる遣唐押使に選ばれた。

 その後、蝦夷の征討などで活躍し、唐の節度使の制度を日本に導入した。

 後に、天然痘てんねんとうに倒れた。




多治比広成たじひのひろなり

 多治比嶋たじひのしまの子。多治比池守たじひのいけもりの弟。

 西暦733年の遣唐大使に選ばれて、兄と同じく唐に渡る。

 後に、天然痘てんねんとうで傷ついた日本を立て直そうと奔走する。




大伴家持おおとものやかもち【大伴氏】(※)

 大伴旅人おおとものたびと丹比郎女たじひのいらつめの息子。母方の祖父が多治比縣守たじひのあがたもり

 和歌をこよなく愛し、「万葉集」を残した。



 

山部赤人やまべのあかひと【山部氏】(※)

 久味国造くみのみやつこの血を引く氏族の出身。

 下級官人であったが、和歌の才能で歴史に名を残した。




《九州の大宰府の人々》


物部小野もののべのおの

 筑前国ちくぜんのくに(現在の福岡県)に住む青年。先祖は物部氏に仕えていたらしい。

 父は事故で障害を負い、母はすでに死んでいるという。弟がいて、現在は祖父母と共に暮らしているらしい。

 遣唐留学生たちとは、遣唐使を送り出す宴で偶然出会った。

 なお、この物部家の戸籍の裏側が後に東大寺の記録のために再利用されたため偶然残り、現在は国宝に指定されている。




《過去の飛鳥の人々》


天智天皇てんちてんのう【天皇家】(※)

 日本の第38代天皇。即位前の名前は中大兄皇子なかのおおえのおうじ舒明じょめい天皇の子。

 無二の親友であった中臣鎌足なかとみのかまたりと共に、当時権力を握っていた蘇我入鹿そがのいるかを倒す。

 その後、大化たいか改新かいしんと呼ばれる一連の改革に着手し、唐の制度を積極的に導入する。

 一方で、白村江はくそんこうの戦いに敗れて唐や新羅しらぎとの関係を悪化させてしまった。

 皇位継承の安定化の必要性に気づき、実力者である弟でなく、若すぎる息子を後継者として指名する。




中臣鎌足なかとみのかまたり【中臣氏→藤原氏】(※)

 倭国古来の神事や祭祀を司る中臣なかとみの氏族の出身だが、異国の学問に興味を持つ。

 中大兄皇子なかのおおえのおうじと共に当時権力を握っていた蘇我入鹿そがのいるかを倒した。

 その後、大化たいか改新かいしんと呼ばれる一連の改革に着手し、唐の制度を積極的に導入する。

 その功績をたたえられて「藤原ふじわら」の氏を与えられ、彼の子孫は現在に至るまでこの国を支え続けている。




中臣真人なかとみのまひと【中臣氏→藤原氏】

 中臣鎌足の長男。藤原不比等ふじわらのふひとの年の離れた兄。

 優秀な人物で、外国の知識を学ぶために出家して定恵じょうえと名乗る。

 西暦653年の遣唐使として唐に渡ったこともあり、その際に粟田真人あわたのまひとと同じ船に乗っていた。

 倭国の外交官として将来を期待されていたが、帰国後すぐに亡くなった。




大友皇子おおとものみこ【天皇家】(※)

 天智天皇の長男。母の身分はあまり高くなかった。

 父が、実力ではなく血筋で皇位継承を決めることで皇位継承を安定化させる(親から子へ確実に継承させることを原則とする)ために、叔父の大海人皇子おおあまのおうじを差し置いて大友皇子を後継者に指名したことが、壬申じんしんの乱の原因となる。

 壬申の乱に敗北して自害。その悲劇は飛鳥の人々に暗い影を落とした。




天武天皇てんむてんのう【天皇家】(※)

 日本の第40代天皇。即位前の名前は大海人皇子おおあまのおうじ天智てんち天皇の弟。

 非常に優秀で兄を支え続けたが、実力をつけすぎたことで宮中の勢力バランスを崩してしまい、命を狙われるようになる。

 壬申じんしんの乱で甥に勝利して即位し、皇族を中心とする政治を行った。




持統天皇じとうてんのう【天皇家】(※)

 日本の第41代天皇。即位前の名前は鸕野讚良うののさららのひめみこ天智てんち天皇の娘。

 夫の天武てんむ天皇を支え続け、皇位継承の安定を目指すが、夫と息子に先立たれ、自らが女帝として即位する。




高市皇子たけちのみこ【天皇家】

 天武天皇と、九州の豪族の娘である尼子娘あまこのいらつめの子で、天武天皇の長男にあたる。

 母の身分が低いため皇位継承者にはならなかったが、壬申の乱で活躍するなど、常に天武天皇を支え続けた。

 持統天皇も支え、皇族の重鎮として太政大臣だじょうだいじんまで勤め上げた。

 妃は、天智天皇の皇女である御名部皇女みなべのひめみこ。彼女との間に生まれたのが長屋王ながやおうである。




草壁皇子くさかべのみこ【天皇家】(※)

 天武天皇と持統天皇の子で、天武天皇の次男にあたる。

 壬申の乱の後に結ばれた吉野よしの盟約めいやくで、天武天皇の正統な後継者とされる。

 皇位継承を安定させることで政治の混乱を鎮めようとする人々の期待を一身に集めたが、両親よりも早く亡くなる。

 両親だけでなく、遺された妃や子どもたちも天皇に即位し、後に奈良時代の政治を動かしていくことになる。




大津皇子おおつのみこ【天皇家】(※)

 天武天皇と大田皇女おおたのひめみこの子で、天武天皇の三男にあたる。

 母の大田皇女おおたのひめみこが天智天皇の皇女であり、本人も優秀で有力な後継者候補であった。

 しかし、それゆえに無実の罪を着せられ、若くして命を落とす。




忍壁皇子おさかべのみこ【天皇家】(※)

 天武天皇の四男。高市皇子たけちのみこ亡き後の皇族勢力の重鎮として活躍。

 特に藤原不比等ふじわらのふひとと共に大宝律令たいほうりつりょうを制定し、日本の発展に力を尽くした。




川島皇子かわしまのみこ【天皇家】

 天智天皇の次男。吉野よしの盟約めいやくに参加していた。

 従兄弟にあたる大津皇子とは親友であったが、助けることができなかった。




志貴皇子しきのみこ【天皇家】

 天智天皇の七男。吉野よしの盟約めいやくに参加していた。

 皇位継承とは無縁の和歌や芸術に生きる人生を送ることで、家族を守った。

 後に、息子の白壁王しらかべおうが即位し光仁天皇として即位し、現代の天皇にまで続くことになる。




文武天皇もんむてんのう【天皇家】(※)

 日本の第42代天皇。即位前の名前は軽皇子かるのみこ

 異例の若さで即位し、祖母の持統じとう天皇のもとで政治を行っていた。

 父は天武てんむ天皇と持統じとう天皇の血を引く草壁皇子くさかべのみこ

 母は天智てんち天皇と蘇我そが氏の血を引く阿閇皇女あへのひめみこ

 皇位継承を安定させるための重要人物であったが、若くして崩御。




元明天皇げんめいてんのう【天皇家】(※)

 日本の第43代天皇。即位前の名前は阿閇皇女あへのひめみこ

 天智てんち天皇と蘇我そが氏の血を引く。

 草壁皇子くさかべのみこの妃で、氷高皇女ひだかのひめみこ軽皇子かるのみこ吉備内親王きびのないしんのうを産む。

 後に氷高皇女ひだかのひめみこ軽皇子かるのみこは天皇に即位、自身も中継ぎとして即位することとなる。

 藤原京から平城京へ遷都、『風土記ふどき』編纂や和同開珎わどうかいちんの鋳造など、奈良時代のはじまりとなった女性でもある。




《唐の長安の人々》


玄宗げんそう(※)

 唐の第9代皇帝。父は睿宗えいそう。本名は李隆基りりゅうき

 祖母の則天武后そくてんぶこうによって不遇な青年時代を送るが、叔母の太平公主たいへいこうしゅを排除して父を再び皇位につけた。

 その後、父から皇位を譲られて即位し、治世の前半は開元かいげんの治と称えられた善政で唐の絶頂期を迎えた。

 しかし後半は楊貴妃ようきひを寵愛したことで政治が混乱し、安史あんしの乱の原因を作った。

 なお、異国人やその文化を愛し、遣唐使たちにも寛容であった。




李憲りけん

 玄宗(李隆基りりゅうき)の兄。音楽への造詣が深く、笛の名手。

 元は皇太子であったが、祖母の則天武后そくてんぶこうによってその座を剥奪されていた。

 弟の力で父が復位した後、皇太子となる予定だったが、自ら弟にその座を譲った。

 弟の即位後は、寧王ねいおうとして弟の治世を支えた。

 



金仙公主きんせんこうしゅ

 李憲りけん李隆基りりゅうきの妹。

 気ままに生きる兄たちへ小言を言うしっかり者。




玉真公主ぎょくしんこうしゅ

 李憲りけん李隆基りりゅうきの妹。愛称は玄玄げんげん

 天真爛漫な少女だったが、宮廷での家族の争いに心を痛めている。



愛玲あいれい

 長安の外国人が多く住む一角の、異国風の屋敷に住む女性。

 翡翠のごとき緑色の瞳を持つペルシア系の女性。

 


宇航ゆうはん

 愛玲の弟。翡翠のごとき緑色の瞳を持つペルシア系の少年。



王維おうい(※)

 弱冠10代にしてその詩や絵画の才能を認められ、宮廷に出入りする天才少年。

 王摩詰おうまきつという号で呼ばれることが多い。

 年齢の近い日本からの遣唐留学生たちの案内役に選ばれ、交友を深める。

 後に、”詩仏”や”南宗画の祖”と呼ばれる。






《草原の人々》


毘伽ビルゲ可汗カガン(※)

 草原に生きる遊牧民の突厥テュルクを率いる可汗カガン

 父は頡跌利施イルティリシュ可汗カガン。本名は阿史那アシナ默棘連オズギュル

 叔父から王冠を奪い、弟と共に突厥とっけつ第二帝国の繁栄期を築き上げる。




キュル特勤テギン

 父は頡跌利施イルティリシュ可汗カガンの次男で毘伽ビルゲ可汗カガンの弟。本名は阿史那アシナキュル

 従兄弟たちを惨殺して王冠を奪って兄に差し出し、兄と共に突厥とっけつの繁栄期を築き上げる。




頡跌利施イルティリシュ可汗カガン

 本名は阿史那アシナ骨咄禄クトゥルグ毘伽ビルゲ可汗カガンキュル特勤テギンの父。

 唐の支配下から独立し、突厥を再興させた名君だが、兄弟が幼い頃に病死してしまった。




遷善カプガン可汗カガン

 本名は阿史那アシナ默啜ベクチュル頡跌利施イルティリシュ可汗カガンの弟。

 幼い甥に代わって兄の跡を継ぎ、可汗カガンに即位した。

 唐と対等な外交関係を結ぼうと躍起になり、無理な行軍を重ねた末に人望を失って暗殺された。




金山公主きんざんこうしゅ

 寧王ねいおう李憲りけんの娘で唐王朝の皇女。

 遷善カプガン可汗カガンの元に嫁がされ、可賀敦カガトゥンとなる。

 義理の息子を殺した毘伽ビルゲ可汗カガンキュル特勤テギンを咎めず、逆に彼らの即位を見守る。




《西方の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の人々》


●ユスティニアノス2世

 東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝最後の皇帝。あだ名は“鼻無リノトメトス”。

 ウマイヤ朝と争い、バルカン半島へも遠征を繰り返したが、次第に人望を失って鼻をそがれ、追放された。

 しかし、その後も突厥可薩部ハザールやブルガリア帝国、さらにはランゴバルト王国やローマ教皇の支持を取り付けて復位を果たすなど、帝位に執念を燃やした。

 ユスティニアノス2世の行動は、シルクロードを行き来する商人たちを通じて、唐の王宮でも話題になっていた。



●レオン3世(※)

 東ローマ帝国イサウリア朝の最初の皇帝。本名はコノンで、あだ名は”イサウロス”。

 祖父の代までは帝国の精鋭たる野戦部隊コミタテンセス重騎兵カタフラクトとしてシリアを守る任務についていたが、イスラーム勢力に土地を奪われ、小アジアのトロス山脈の麓のイサウリア地方のさいはてを守る戦士ストラティオティスとして育つ。

 その後、徐々に才能を発揮し、重要な軍管区テマであるテマ・アナトリコンの軍管区長官ストラテゴイとして歴史の表舞台に現れ、イスラーム勢力との戦いの中で皇帝の座を奪う。



●マリア

 レオン3世の妻で、東ローマ帝国の皇后。

 元は黒海のほとりのケルソンの船乗りの娘。豊かな黒髪を持ちギリシア語を話すが、北方のスラブ人の血も混ざっている。



●アンナ

 レオン3世とマリアの長女で、東ローマ帝国の皇女。父が即位する前に生まれる。

 後に、父レオン3世のは盟友のアルタバスドスに相応な地位を与えるために、20歳年上のアルタバスドスと結婚し、彼と添い遂げる。



●アルタバスドス

 レオン3世の親友にして、義理の息子。レオンよりも大柄。

 帝国に移住してきたアルメニア人の子で、重要な軍管区テマであるテマ・アルメニアコンの軍管区長官ストラテゴイを務めていた。イスラーム勢力との戦いではレオンを常に支え、親友の即位後も栄誉ある宮廷管理官クロパラテスとして支えていたが……。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

それでは、本編をお楽しみください。

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