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少女遁走④

 イリスは、森の中を駆け抜けている。


 こちらの方向からは、入った事がない筈であったが、それでもイリスは森を自分の庭のように熟知しているような気になっていた。


 どの樹からどんな風に枝を突き出させ、根を伸ばしているのか。何処の地面がどれだけの柔らかさをしているのか。どれくらいの頻度で石が転がっているのか。太陽はどのように射し込んで、風は何処から吹き付けるのか。


 それらを感覚的に察知しているイリスが、身体強化の魔装を使って全力で走っているのだから、例え戦いに明け暮れる野蛮人であっても、正攻法で彼女に追い付く事は極めて困難であった。


 だとしても、イリスの胸には恐怖と焦燥がある。


 森を駆け抜けるのが不得手であっても、相手は複数だ。又、凶暴である。枝を滅茶苦茶に切り落とし、地面を踏み荒らして、鼻息荒く追跡している。イリスが走っているのが最も快適であるとしても、別のルートを使って回り込む事が不可能である訳ではない。


 追い付かれたらどうなるのか。その時の事を考えると、心臓が引き絞られるようであった。


 皮肉な事ではあるが、死んでしまいそうな恐怖が大きくなる事で、却って生存本能が刺激されて、魔装の力を引き出す結果となっていた。


 イリスは力強く地面を蹴り上げて、軽やかなステップを舞い、手で幹を押す事で身体を移動させた。時には、太い枝にぶら下がって自身を振り子にし、手を放す勢いで跳んでゆく芸当もしてみせた。


 その時にイメージしたのは、カルナの軽業だ。彼ならばきっと、その程度の事は平気でやってみせる。自分の中で強い事や英雄的な行動の象徴たるカルナをイメージする事により、彼ならばどのように動くのか、それを想像して逃走に利用していた。


 普通であれば、意識に身体が追い付かずに無様に失敗する。けれども魔装の力が身体能力を向上させている事で、それが可能となっているのだ。


 だがその背後から、


「待て!」

「逃げるな!」

「何処までも追い詰めてやるからな!」


 そのような声が聞こえる。いや、後ろだけではない、男たちの暴力的な声が木々に反響して、あらゆる方向から届くようであった。その声が、単なる空気の振動から、森が内に秘める魔力によって実体化し、おぞましい魔物の姿となって全方位から手を伸ばしているような気さえする。


 イリスは、これらの声に気持ちを萎えさせそうになりながらも、逃げるという事、生き延びるという事を強く念じ、森を駆け抜けた。


 流石に、魔装による強化でも補えないくらいの疲労が、イリスの身体を襲っていた。関節に蓄積されたダメージが、どっと襲い掛かって来たようであった。これに気を取られてスピードを落とすと、途端に全身から力が抜け落ちてゆく。


 ――もう、駄目……。


 イリスは地面から突き出した木の根っこに足を取られ、転倒してしまった。土の匂いを全身で感じると、臭気が実体を以て立ち昇り、イリスを捉える魔物へと変形したような感覚に陥る。お守りのように地の魔装を抱き締めると、魔法石がぎらり光って、恐怖の幻想が霧散した。


 イリスはその場にへたり込んでしまっている。一度、走るのをやめてしまうと、次に走り出すまでに体力の回復を待たなければいけない。


 その間にもドンシーラたちはやってくる。

 イリスは今度は静かに、木々の間を移動し始めた。ゆっくりと、ゆったりと、気配を消して。


 下の方に突き出した枝から葉っぱを千切って、水を絞る。そうして少しもヒートアップした身体を冷却し、体力を取り戻しながら、目的の場所へと進んだ。







 どれだけ地面を這っていたのかは分からない。しかし月が中天に昇っている事は枝葉の隙間から見て取れた。紺色の空にぽっかりと開いた銀に冴える孔……そのぐるりに滲む七色の暈。


 イリスは、樹の根元の空洞や、背の高い茂み、小さな土手などに緊張感と共に身を隠しながら、盗賊団の追跡を逃れ、やがて最後の力を振り絞って、木々の間を抜けた。


 どさり、と、イリスが倒れ込んだのは、いつもの芝生であった。

 泉の広場に、イリスは到着した。


 月が大きく傾いている。カルナの処刑からかなりの時間が経っている筈だが、イリスには永遠にも近しい逃走劇が、一瞬のようにさえ思われた。


 膝でにじりって泉に近付き、その清らかな水を口に含むイリス。だが疲れ果てた自身の顔を映す波紋がやむと、そのすぐ上に、醜悪なオークの顔が浮かび上がった。


 はっとして振り返ると、野盗の一人が裂けんばかりに唇を吊り上げており、イリスの襟ぐりを掴んで芝生の上に放り投げた。


「手間を掛けさせやがるぜ」


 そういう野盗に引き続き、泉の広場を囲む樹の間から、ドンシーラ一味がぞろりと集合した。


「ね、言った通りだろう? この子は必ずここへ来る……ちと時間は掛かったけどねぇ」


 額の、凝固した血液を、指でこりこりと削りながら、ディアナが言った。

 イリスを包囲した野盗たちから、ドンシーラが歩み出て、イリスを水際に追い詰めた。


「鬼ごっこは終わりだ、お嬢ちゃん……」


 そう言うとドンシーラは、イリスの頭を掴んで、いきなり泉の中に押し付けた。

 ぼこぼこぼこ……と、水面に泡が浮かび上がる。少女の手がばたばたと虚空を掻き毟った。


「ここからは大人の遊びの時間だぜぇ」

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