地獄の高原②
「え……?」
イリスは怪訝な表情を浮かべた。
自分が、ドンシーラを人間ではないと言った事に対し、ドンシーラはお前こそどうなのだと訊き返した。
その言葉の意味が、イリスには呑み込めない。
ドンシーラは二つに裂けた舌先をちろちろとやった。それによって、鼻と上唇の間の溝の、両脇にある器官が、何らかの情報を探っているようである。
「お前からは、普通の人間とは違う匂いがする……」
「な、何を言っているの……?」
「俺と同じ、人間じゃねぇって事さ、お前は」
ドンシーラはイリスの身体を地面に放ると、獣の皮で作った上着を脱ぎ捨てた。がっちりとしたその身体の表面には、黒くぬめる鱗のようなものが生え揃っている。カルナの打撃を防いだ鱗だ。
黒いハルバード型の魔装の影響で、ドンシーラはこのような姿に変貌したらしかった。
「妙な事だが、この身体になってから、俺は普通の女に興奮する事がなくなっちまった。それまでは、良い女を前にすれば、土下座をしたって構わないくらいの欲望が、俺の中にかま首をもたげたものさ。それが全くなくなっちまってな。だが、こいつを手に入れてからは全くでな……寧ろ、女という女が、憎しみの対象になっちまったようだった。その憎しみのままに女を殺しても、どんな感情も湧きやしねぇ。前までなら、女の柔らかい腹に剣をぶち込んで、頸を刎ねるまで悲鳴を聞いているだけで、きん玉が破裂しそうになったものよ。それさえなくなっちまってよ……」
「――最低……」
イリスには、彼を罵倒する言葉すら思い付かなかった。
男が、女を見て、性欲を抱く事は仕方がない。イリスだってそれくらい分かっている。しかし、女を殺す事で、その欲を満たそうとするような存在は、彼女の理解の範疇を越えている。自身の常識を超えたものに対しては、罵倒も称賛も不可能である。
「しかし、お前なら……俺と同じで人間じゃないお前なら、どうだろうな……」
「さっきから、何を言っているの! 私が人間じゃないって、何の話なのよ! ふざけないで!」
自分が、ダイパンの本当の孫ではない事は知っている。ディアナと血が繋がっていない事も分かっていた。しかしだからと言って、人間として生まれ、人間として成長した事は否定しようがない。それを真っ向から、軽蔑すべき対象によって否定されて、怒らないでいるという方が無理な話であった。
ドンシーラは、自身の理不尽な言い掛かりに怒りを露わにするイリスに向けて、黒いハルバードを振り下ろした。イリスは身を竦めるが、黒い刃は彼女を縛った縄を切り裂いただけであった。
「イリス……!」
「た、助けて……いやぁぁぁっ!」
呼ばれて振り向いたイリス。その眼の前で、パーカロールとシグサルァが野盗たちに迫られている。どうにか逃げようと身を揉むのだが、野盗たちはその抵抗を見て嘲笑っていた。背中を見せれば尻を蹴り、前を向かれれば脚の間に腰を滑り込ませようとする。
助けたい――しかし、自分に何が出来るだろうか。その逡巡を見抜いたように、ドンシーラがイリスの腰を蹴飛ばした。
そうして彼女の鼻先にハルバードを突き付けて、蛇の笑みで少女を見下ろす。
「くく……良い顔をするじゃねぇか、そういう顔が見たかったんだよ。お前が俺と同じで人間じゃないからかなぁ、前と同じように、興奮して来たぜ。そら、さっさと逃げな。俺はそれを追い駆けて、お前の事を狩ってやる。手足を斬り飛ばして、たっぷりと味わった後で、腹を掻っ捌き、首を飛ばしてやるよ……」
逃げろとは言うものの、逃がすつもりはない。又、イリスの方にも、友人たちを置いて逃げるような事は出来なかった。
「逃げないのか? だったら、ここで――」
ドンシーラがハルバードを構えた。イリスは、自分を見下ろす男の身体から、黒いオーラのようなものが立ち昇り、何らかの手段によって自分の肉体を苛む攻撃を繰り出すのを予感した。
腕、脚、腹、頸、頭――その何処かしらに、あの凶刃が打ち付けられる。全身が火で炙られたように、熱くなった――
と、
「ど、ドン! 戦車が、一台――」
誰かが言った。
ドンシーラが顔を上げると、その報告通り、戦車が一台、こちらへ接近している。
その前面の盾に腰掛けて正面を見据えているのは、カルナであった。