獣人オークの脅威②
蒼空に弧を描いて、芝生の地面に落下し、ごろごろと転がるビルマン。
小さく呻き声を上げている所から見ると、まだ、命を保っているらしい。
そのビルマンにオークは肉薄し、彼が立ち上がった所で無造作に蹴りを繰り出した。
「げほぉぁっ」
ビルマンの腹部に炸裂した蹴りは、彼の口からパンやチーズのペースを混じらせた黄色い液体を噴出させながら、その身体を森まで撥ね飛ばした。
一本、二本、三本――と、樹を圧し折りながら、四本目で漸く止まるビルマン。
「きゃーっ!」
「び、ビルマンさん!」
「ば、化け物……」
アムンの人々は、ビルマンが見せた、人の身では決して叶わぬ距離への強制移動に、すっかり戦慄していた。それだけの現象を引き起こすオークの腕力に、だ。
彼らは大急ぎで出口を目指した。
圧し折れた樹の根元にぐったりとするビルマンを置いて、逃げ出したのだ。
広場に残ったイリスに、オークが近付いてゆく。
「あ……あ、いや……」
イリスも逃げ出してしまいたかったが、足が竦んで動けない。小便をちびりそうな程に、ビルマンのような成人男性の身体が容易く吹っ飛ばされた事への恐怖に、襲われていた。
オークはイリスの身体を掴み上げた。鬼人の手に掛かれば、少女の胴体など枯れ木のように細いものである。
うぐ……と、内臓を圧迫される痛みに呻きながら、身体がふわりと持ち上げられてゆく感覚に戸惑うイリス。
オークは、その手から逃れようとする少女の身体に鼻を近づけて、くんくんと鳴らした。
「ひ……な、何? 気持ち悪い……臭い! や、やだっ、やめてよ!」
イリスはオークの指に手を喰い込ませて、じたばたを身体をよじる。オークの全身には腐臭が纏わり付いていた。糞便よりも吐瀉よりも匂う、生々しい死の香りだ。
一方、オークがイリスに感じているのは何の匂いだろうか。人間の牝――異種族の牝だ。つまりオークにとっては、自分の子孫を残す為の卵袋に過ぎない。
オークは少女を連れて、その場から移動を始めた。イリスはオークの身体をぽかぽかと叩くのだが、ダメージがないばかりか、自身の手を痛めてしまう。
「いやーっ! 助けて! やだやだやだやだ! 誰か、誰か助けてぇ!」
イリスは大声を張り上げた。
そんな事をしても、唯一の頼りだったビルマンはオークのパンチと蹴りでノックアウトされている。例え自分が人質になっていても、魔法のような格闘技で助けてくれたカルナは門の内側だ。誰にも届く筈のない祈りだった。
しかし――
森へ戻ろうとするオークの横を、鋭い風が奔った。
鉄の色をした風だ。
すぱんっ――
イリスはそんな音を聞いた。
同時に、掴み上げられていたその身体が、地面に落下した。
オークの腕ごと、だ。
ごぉぉぉぉぉぉぉっ!
オークが吼えている。
イリスの前に、ぽた、ぽた、ぽたぽたぽたぽたっ、と、赤い色をした雨が降って来た。
オークの片腕が、上腕の中頃からなくなっている。そこから先は、まだイリスの胴体を掴んでいた。
何者かが、オークの腕を斬り落としたのだ。そしてイリスを助けた。
その人物が、イリスのすぐ傍に立っていた。
女だ。
へたり込んだイリスが見上げる女性の顔は、太陽の光を後ろから浴びて、少女からは見えなかった。
頭の上で纏められた金色の髪だけが、輝くように風になびいていると分かる。
女は鎧を身に着けていた。そして右手の先には長い剣が伸びていて、その刃から血が滴っている。
女騎士は、片腕を失くしたオークへと悠然と歩み出した。