湯煙の中で
大浴場は、詰めれば四〇〇人くらいが入れそうな湯船があり、それとは別に、入浴前に身体を洗い流す為のお湯を沸かした大鍋が、浴場の片隅に設置されていた。
カルナとガバーレは、他にぽつぽつと入浴客のいる大浴場で、身体を洗い流し、湯船に浸かった。
熱いお湯に身体を沈めると、ガバーレが低い声を出した。
その隣に、カルナも肩まで浸かってゆく。
「珍しいですね……」
カルナが呟いた。
「これだけの設備が整っている場所は、大国にも少ないでしょう。精々、王城や貴族の住まいが関の山……」
「こういう施設が出来たのは、比較的最近でな。外で黒死病が流行った頃があるんだが、その時に、クライス公国の方から、こうしてしっかりと身体を清める事で、病気への抵抗力を養うのだとお達しがあったのさ」
黒死病というのは感染症の一つで、主に齧歯類に顕著なものであった。黒死病に感染した動物の血を吸ったノミが、人間の血を吸う際に感染して、人間の間でも流行したという。
有効なワクチンはなく、感染者には触れない事が推奨された。この事が拡大解釈されて、感染者を出した家の人間や、それらと関わった人々に至るまでを焼殺するというおぞましい事件も頻発していた。
大衆浴場ではお湯を介して人同士で感染すると言われ、これらを利用しない事が予防法の一つであるという説が流れた事もある。だが、実際には身体を洗い清める事が感染を予防する策の一つであると判明した。
この事を逸早く知り、各地に広めたのがクライス公国であったのだ。
「それで……」
「幸い、水は豊富にあるからな。そうそう、クライス公国は他にも、下水の処理なども徹底して、様々な道路や水道の設備を整えていたなァ。いつだったかは、王族の方が自らお見えになって、色々と知恵を授けて下さったものだ。幾ら貿易の要衝と言っても、所詮は片田舎……それに戦争で忙しいって時にわざわざ来て下さったんだ、忘れられよう筈もない」
懐かしむように、ガバーレは言った。
「心優しい方だったのですね」
「うん。慈愛に溢れ、それでいて勇敢、一本気な女騎士さまだったよ。……ただ、彼女のような人は特別なんだなぁとも思ったね。余人には真似出来ない事をやるから、人は他人に憧れる……」
そう言うガバーレの横顔は、ダイパンの物寂しそうな顔と同じだった。
「ディアナさん……」
「ダイパンから聞いたのかい」
「ええ」
「そうか……。あの時は俺も反対したが、今になって思えば、結局こうなるのなら、彼女の話をもっと真剣に受け止めて置くべきだったのかもしれないな」
水面に映った自分の顔を見て、ダイパンと同じ事を呟くガバーレ。
シェイやダイパンもそうだが、かつてディアナという少女が覚えた危機感は、彼らの頭の片隅にも当時から存在していたものなのだ。それが目前に迫って漸く、現実感を伴って浮上した。
だから今度は、イリスの言葉に動かされたダイパンの言った事を、受け入れて、実際に動き出したのであろう。
「過去は消せない。けれど、どんな後悔や罪を背負っていても、未来はある。過去に向き合って未来の為に、今を生き往く……胸にあるのが過ちでも憧れでも、人はそうやって生きてゆくしかないのでしょう」
カルナは両手を器にしてお湯を掬いながら、しみじみと言った。
それはガバーレに向けた言葉であると共に、手の中に溜まった水鏡に浮かび上がる、自分の顔に向けてのメッセージであるようにも思えた。