錆び付いた怒りに、陽射しのような微笑みをもう一度
ドンシーラの悲鳴が、森の中にこだました。
だが、ドンシーラの頭が、カルナの拳で弾け飛んだ訳ではなかった。盗賊団長は眼をかっと見開いたまま、気を失っている。カルナの拳は、その眼の前で停止していた。
カルナの腰に、イリスがしがみ付いている。ドンシーラの頭を砕く拳を振り下ろす直前、イリスがカルナに抱き付いて、彼を止めたのだ。
「駄目だよ、カルナさん。カルナさんは、生き物の命を奪いたくないって、そう言っていたでしょ? 例え悪人でも、命を奪いたくないって。だから駄目だよ、その人を殺したら……そんなカルナさん、嫌だよぅ……」
カルナは拳を引くと、イリスを見下ろして言った。
「この男が憎くはないのかい。殺してやりたいとは思わないのか?」
「憎いよ……」
立ち上がり、カルナの傍に駆け付けたとは言っても、イリスの顔色は、まだ悪いままだ。立っている事さえやっとであるかのように、膝を震えさせている。
「アムンの人たちに酷い事をした……それよりもずっと前から、何人もの人たちを殺して来た。絶対に許せない。若し、私がもっと強かったら、きっと殺してしまっている。でも、カルナさんにこの人を殺させるのは駄目だって、そう感じるの。この人は死んで当然で、殺されてしまうのが普通なのかもしれない。それに、その人はこうまでされたって、きっとカルナさんが言ったように改心なんかしないよ。……だけど、カルナさんにそれをさせちゃいけないような気がする。この人は、カルナさんにやったみたいな酷い事をされて死ななくちゃいけないかもしれないけど、カルナさんにこの人と同じような事を、して欲しくないよぉ……」
イリスは、話している内に感極まったのか、ぼろぼろと涙をこぼして、その場でへたり込んでしまった。カルナがドンシーラを殺そうとした事に、彼の心情的にも客観的な事実としても、何一つ間違いはないと分かっていても、カルナの手がこの卑劣な男の血で汚れる事に、酷い忌避感を抱いた。
陽射しのように温かいく柔らかなカルナの微笑みを、邪悪の血で錆び付かせてはいけないと感じたのだ。
泣き出してしまったイリスの前で、カルナの皮膚に浮かび上がった鎧が小さくなり、身体の中に沈んでゆく。鎧の能力によって、羨望の斧鑓で引き裂いた腰が修復され、出血の痕だけが残っている。
「ありがとう、イリスちゃん……」
カルナはその場に跪いて、イリスと視線を合わせた。
イリスが顔を上げて、カルナの顔を眺める。
「君の生まれた町が守り続けた誓いも、平和も、壊してしまったこの俺でさえ、止めてくれて……」
カルナは血を浴びた顔で微笑んだ。それは曇りのない太陽とは言い難かったが、夕陽が沈みゆく寂しさと燃え立つ情熱を一緒にした、慈しみの瞳であった。
イリスは涙を拭い、鼻を啜って、カルナに抱き付いた。男の筋肉とは思えない柔肌に、強く指を喰い込ませて、それまで堪えていたものを噴出させるように、大声を上げて泣き続けた。
「怖かった……怖かった、痛かったよぉ。助けてくれて、ありがとう……来てくれて、ありがとう……カルナさん……!」
「危険に巻き込んで、すまなかった……」
イリスは声が嗄れるまで泣き続けた。カルナはその背中を、優しく撫でてやった。
少女の声が、夜明け前の一番暗い空に昇り、溶けてゆく。
森は風に木の葉を揺らし、陽射しの予感に色めき立った。善も悪も、怒りも哀しみも、全てを染め上げる朝の光が、近付いている。