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桜花舞う!!  作者: 高嶺の悪魔
第二章 夏(前) 恋する連隊
72/205

017

 広間を出たシュンは、よたよたと頼りの無い足取りで廊下を進んでいた。途中、向かい側からやってきた女中とすれ違う。

「済まないが、厠は何処だろうか?」

 彼が尋ねると、女中は恭しい口調で便所への道順を答えた。ちょうど、母屋の外れにあたる位置だった。

 シュンは礼を言うと、教えられたとおりに廊下を進んだ。しかし、その先に便所は無かった。代わりに、一つの座敷へと通じる襖が小さく開いている。一度、酔っている仕草そのままで来た道を振り返ったシュンは、誰の姿もないことを確認すると、その隙間へ滑り込むように身を潜らせた。


 そこは小さな座敷だった。唯一ある窓には暗幕が掛けられており、室内は薄暗い。行灯あんどんの灯りだけでぼんやりと照らされた中にいたのは、羽振りの良い商家の旦那風の身なりに身を包んだ男だった。

「で、首尾は?」

 男は突然、座敷に入り込んできたシュンに驚くこともなく、不躾にそう尋ねた。目の前に置かれた膳の上から徳利を持ち上げると、摘まむように持った猪口へ酒を注ぐ。行灯の灯りに浮かび上がった彼の顔は随分と赤らんでいた。

「一月後の、八月十三日だそうだ。襲撃目標は以前に伝えた通り」

 その彼に、シュンは溜息混じりに答えた。その声は先ほどまでと打って変わり、酒の臭いすら感じさせない無感動なものだった。

「祝賀式典の予行演習がある日だな。目の付け所は悪くない……それで、お前さんは何を任されたんだ?」

 赤ら顔の男は無精ひげの生えた顎を撫でながら訊いた。

「西宮通りの封鎖だ」

「それはまた」

 シュンの返答を聞いた男は、ふっくらとした腹を揺するように笑った。挙動の一つ、一つにどこか、狸のような印象を抱かせる男だった。

「大戦の英雄に、随分とまぁ簡単な仕事を任せたもんだな。まぁ、お前さんは凱旋式の時も隅っこの方でひっそりとしていたからなぁ……天才作戦家、木花サクヤ大佐が唯一必要とした情報幕僚などと、誰も気づくまい」

「それで? 部長はなんと?」

 くぐもった笑いを漏らす彼を無視して、シュンは聞き返した。

「特には。引き続き、情報を収集せよ、としか」

 男は他人事のような口調で答えた。手の中にある猪口を口元へ運び、中身をぐっと飲み干してから、満足そうに息を吐く。

「どうにもな。御上に伝えても、これと言った指示が来ないらしい。独断専行が信条の情報部と言えど、基本は参謀本部の一部署に過ぎんからな。上からの命令が無ければ勝手気ままに事を起こせんのは、歩兵部隊と何ら変わりがない」

 彼の言葉に、シュンは考え込むように顎へ手を当てた。真剣に考えている様子の彼を楽しげに見つめながら、男はまた猪口を呷った。

「しかしまぁ、面倒な任務の最中だと言うのに近衛ぼっちゃんたちの叛乱ごっこにまで巻き込まれるとは、ご愁傷様だな」

「それは別に構わない」

 からかうように言った男へ、シュンは眼鏡の位置を直しながら答えた。

「ただ、なぜ僕なのか、という疑問は残っているけれど」

「そりゃあ、お前さんが一番、しがらみが無いからさ」

 独り言のように言った彼へ、男は空になった徳利を残念そうに床へ転がしながら言った。

「俺たちが内地でぬくぬくと謀略やら陰謀やらを張り巡らせて、あっちこっちと親密な関係を築いていた頃。お前さんは大陸で、文字通り血で血を洗う闘争に明け暮れていたわけだからな。今の情報部に、お前さんほど身の軽い課員はいない」

 答えて、はははと声をあげて笑った男はそこで思い出したように言葉を付け加えた。

「そうそう。部長からの伝言だ。祝典の予行演習に海軍を付き合わせてみようと思っているのだが、誰が良いか。だとさ」

 それを聞いたシュンは即座に上官の真意を見抜いたようだった。面倒そうに息を吐く。その様子をにやけながら見ていた男がまた「ご愁傷様」と言った。


「さてと」

 ひとしきり笑い終えた男が、気分を切り替えるように呟くと立ち上がった。どうやら、話は終わりということらしい。

「一つだけ」

 店の者を呼ぼうと襖に手を掛けた男の背中に、シュンが声を掛けた。

「僕が、独自に知りえた情報を漏らした場合、何か問題があるか?」

「どこに漏洩するかにもよるな」

 振り向いた男は、値踏みするような目を彼に向けた。

「一番上ではない上司に報告してみようと思う」

「……なるほどね」

 男は納得したように頷いた。

「お前さんは参謀本部の次長殿とも懇意だったな。なるほど、確かに。それならば、責任は情報部おれたちだけのものではなくなる。いい案だ」

 素っ気なく答えて、彼は部屋の外へ首を突き出して「おおい」と声をあげた。

「ではな。識防中佐。くれぐれも、君の正体を悟られるなよ。君に任されているのは、ただの子守りではないのだからな」

 最後にようやく真面目な顔を見せて、男はシュンを追い出すようにそう言った。

「……分かっているよ」

 彼にやれやれといった調子で応じると、シュンは座敷を後にした。廊下に一歩踏み出した彼の足取りは、すっかり酔漢のそれだった。



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