第五話
空になった洋碗を盆の上に戻すと、すかさずミヤコが近づいてきた。
「おかわりはどうなさいますか?」
普段ならば、ここで二杯目を頼んでそのまま日暮れ近くまでぼんやりとしていることの多いサクヤだからこその申し出であるが、今日はそういうわけにもいかない。
「ありがとう。でも、このあと人と会う約束があるの」
微笑んでおかわりを断ったサクヤに、お友達ですかとミヤコが訊いた。そのようなものねとサクヤは答えた。
「そうですか」
ぱっと笑顔を浮かべたミヤコだったが、急に何か言い辛そうな、気まずそうな表情になると、遠慮がちに口を開いた。
「あの……ええっとですね、大佐さん」
「何かしら?」
ちらちらと盗み見るような視線を自分の頭あたりに送っているミヤコへ、サクヤは小首を傾げて訊き返した。
「その、まだお時間は大丈夫ですか?」
「んー、まだ、そんなに急ぐような時間じゃないけれど」
恐る恐るといった風に尋ねたミヤコへ、サクヤは懐中時計をちらりと確認してから答える。それを聞いて、ミヤコはほっとしたようだった。また笑顔に戻ると言う。
「そうですか。良かった。それじゃあ、少し待っていてください」
そう告げて、店の奥へ引っ込んでいった。訳が分からずに待っていたサクヤの下へ戻ってきた時、彼女の手には半円状の木櫛が握られていた。
「すみません。御髪を失礼しますね」
「え?」
座っているサクヤの後ろに立ったミヤコは、返事も待たずに頭の両側で結われていた髪の毛を解き、櫛を滑らせ始める。
「ええと、縛る位置が少しずれているのが気になって……せっかく、お友達とお会いになるんですから、やっぱり綺麗にしていかなくちゃと思いまして」
差し出がましい真似を、と謝りながらも、ミヤコは手際よくサクヤの髪を梳いてゆく。さっさっと櫛が髪の間に通されるたび、自分でした時はあれほど強硬な態度を見せていた髪がどんどん素直になってゆくのがサクヤにも分かった。
梳かした髪を再び白い飾り紐で結いなおしたところで、ミヤコは満足そうに頷いてから櫛と一緒に持ってきた手鏡を取り出した。そこに映った、どう見ても自分で結った時よりも綺麗に整っている髪型を見て、サクヤはお礼を口にした。
「ありがとう。なんだか、すごく手馴れているのね」
感心したようなその声に、ミヤコは可愛らしい笑みをつくる。
「えへへ。女の子ですから」
照れたように笑う彼女に、サクヤは内心で私も女の子なんだけどなぁと溜息を吐いた。
まぁ、自分が女の子らしくないのは今に始まったことでもないけれど。
どこか諦めたような心境で、サクヤは整った毛先をさらりと撫でた。
幼い頃から軍隊一辺倒で育ったのだから仕方ないかもしれないが、髪を梳かすのも、料理も裁縫も満足にこなせない。
加えて、十代前半で成長を止めたこの身体。
髪を梳かしてもらっている間、たまにぽよんと後頭部にあたったミヤコの膨らみは自分の二回り以上大きかった。確か、自分の方が二つ年上のはずなのに。
「はぁ……貴女が羨ましいわ」
いったい、自分のどこに女の子らしい部分があるのだろうか。そう落ち込んだサクヤの口から、そんな言葉がぽつりと漏れる。
「そ、そんな! とんでもないです! 私なんて、大佐さんと比べたら……!」
サクヤの呟きに、ミヤコは胸の前で両手をぶんぶんと振った。
「私はもう大佐じゃなくて……いえ、いいわ」
ハツにもそうしたように一応訂正の言葉を口にしかけたサクヤだったが、最近になってこうしたやり取りに意味はないのだと悟り始めているので、途中で口を閉じる。
「あら、すごく綺麗な櫛ね。それ」
振り返ったサクヤは、ミヤコの手に握られている櫛に目を止めた。途端、ミヤコは酷く嬉しそうに相好を崩した。
「はい。えへへ、これ、戦争に行っちゃったお兄ちゃんがお別れの時にくれたんです」
そう言って、彼女はサクヤにもよく見えるように櫛を差し出した。それは光沢のある表面に、鮮やかな木目のはっきりと浮かんでいる美しい櫛だった。随分と大切にしているらしく、よく磨かれた表面はまるで琥珀のように飴色に輝いている。
「お母さんが遺してくれたもので、お母さんはお祖母ちゃんから貰ったものだって言ってました。ええと……なんとか、つげ? っていう、結構貴重な木を使ったもので、本当は私がもっと大きくなってから渡すつもりだったらしいんですけど……もう会えないかもしれないからって」
邪気の無い笑顔で言ったミヤコとは反対に、サクヤの顔は曇っていた。
つまり、その木櫛はミヤコにとって、大切な家族の形見なのだ。そう思ったからだった。
「そんな大切なものを、その、私なんかに使って良かったの?」
「なんか、じゃありませんよ。それに、道具は使ってこそ意味がありますからね」
申し訳なさそうに訊いたサクヤへ、ミヤコは笑って答えた。
「あとは、おら、私は髪が短いですから。大佐さんみたいな、綺麗で長い髪のほうが梳かしがいがあります」
肩にかからない程度に切り揃えられた毛先を弄りながら、少し残念そうな顔をしたミヤコへ、それなら伸ばせばいいのではとサクヤは言ったが飲食店で長い髪はご法度らしい。
「そろそろ行かなくちゃ。ご馳走様でした。あと、髪を整えてくれてありがとう」
会話が一段落したところで、思い出したように懐中時計を取り出したサクヤはそう言った。支払いの際に、紅茶の代金よりも少しだけ多い額をそっと手渡す。ありがとうございましたーという元気の良い声に送られて、サクヤは琥翠堂から外へ出た。
「助かったわ。本当に」
店の扉がぱたりと閉まった途端。サクヤは銃弾が頬を掠めていったような表情で呟いた。
髪型が乱れていたなんて、ちっとも気付かなかった。
そのまま知らずに、あの人たちの前へのこのこと出て行ったら……私はきっと単身で包囲殲滅されていたに違いない。
そんなことを想像したサクヤは、心の底からあの無邪気な少女に感謝した。