第四話
自転車を押しつつ、通りをさらに西へと進んだサクヤはちょっとした歓楽街として栄えていた西三条通りまでやってきた。歓楽街とはいっても、大戦終結から未だ二年。食料品の多くが配給制で、それすらもまともに供給ができていない現在の帝都では、暖簾を出している店など少ない。多くの店が戸口を締めきっている中でひっそりと営業を続ける、木造でありながら異国風の趣きがある外観の、小さな喫茶店がサクヤの目指している店だった。
店の横に自転車を止め、前後輪にそれぞれ錠を掛けたサクヤは“琥翠堂”と店名の書かれた、吊り具の鎖が片方切れてしまっている看板を見上げながら、入り口の扉に手を掛けた。
「あ! いらっしゃいませ!」
からんからんと、扉に取り付けられた来客を知らせる鐘の音が店内に響き渡ると、それを聞きつけた割烹着姿の若い女給仕がぱたぱたと小走りにやってきてサクヤを出迎えた。
「わあ、またいらしてくれたんですね! いらっしゃいませ、大佐さん!」
まだ少女のような年齢の女給仕は、サクヤを見るなり嬉しそうに胸の前で両手を合わせた。
「ええ。こんにちは、ミヤコちゃん」
サクヤはそんな彼女に、微笑みを向けつつ応じた。
下宿先から職場へと向かう途中でもあるこの通りに、この小さな喫茶店を見つけてからというもの、ここはサクヤのお気に入りの場所だった。休日でも半日以上入り浸っていることもあるのだから、当然そこで働く者の名前も憶えている。
東ミヤコというその女給時は、丸みのある面立ちに可愛らしい笑顔を作るともう一度いらっしゃいませと言った。
「さあさあ! こちらのお席へどうぞ!」
背中を押されるようにしてミヤコが案内したのは窓際の、ほどよく陽射しの差し込んでいる席だった。わざわざ椅子を引いてくれる、妙に張り切った彼女の接客にサクヤは思わず苦笑してしまう。どうやら、相当に暇だったようだ。
「ご注文はどうなさいますか?」
「いつも通り、紅茶をお願い」
楽しそうな笑みのミヤコにつられて、自分も頬を緩めながらサクヤはそう答えた。
もっとも、この店の品書きは今のところ珈琲か紅茶しかなく、苦いものが苦手なサクヤにとって選択肢は一つしかないのだが。
サクヤの注文を聞いたミヤコは、はぁいと元気よく返事をしてから、出迎えた時と同じようにパタパタと小走りで店の奥へ引っ込んで行く。
しばらく、霞み硝子によってほどよく陽光の遮られた静かな店内に一人になる。
ほっと息を吐いたサクヤの耳に紙の擦れる音が聞こえた。それに、そういえば一人ではなかったことを思い出す。
音のした方へ顔を向けると、一瞬、ひどく不機嫌そうな顔をした老人と目が合った。
サクヤは軽く会釈をしてみたが、老人は特に反応を返すこともなく、手元に広げていた広報紙へと目を落としてしまう。
この不愛想な老人は、この琥翠堂の店主であった。
彼を見るたびにサクヤは何故この人はこの商売を始めたのかしらと疑問に思う。
この店に通うようになってそれなりに経つが、サクヤは未だに店主の口から出迎えや見送りの言葉を聞いたことがなかった。
常になにか不満そうな顔で、広報紙をどこまでも詰まらなそうに読んでいる。
以前、一度だけ意を決して声を掛けたことがあったが、その時もサクヤをちらりと見ただけで当然のように返事はなかった。そうした老人の態度が、まさか自分に対してだけなのかと不安に思ってこっそりミヤコに聞いたところ、どうやら他の客に対しても同様であるらしい。
そればかりか、サクヤは彼が仕事をしている姿を見たことすらなかった。
或いは、自分が頼まないだけで珈琲を淹れるのが物凄く巧いのかもしれないと想像していたのだが、それもミヤコの返答から察するにどうやらそういうわけでもないらしい。
では、いったい何をしているのだろう。
そう問えば、おそらく何もしていないと言うのが本当のところかもしれない。
サクヤの知る限り、この店は実質ミヤコ一人で回されているようなものだった。
「お待たせしましたー!」
不愛想な店主と二人きりという状況に少し嫌気がさし始めたところで、その働き者が戻ってきた。ほっと息を吐いたサクヤの前に、陶器製の茶瓶と暖められた洋碗、そして小さな砂時計の乗った盆が置かれる。
「この砂時計の砂が、全部落ちてから注いでくださいねー」
左手に腰を当てながら、さも重要なことを教えるように右の人差し指を立てていったミヤコに、サクヤは頷いた。言われたとおり、砂が落ちきるのを待ってから紅茶を洋碗に注ぐ。
ふわりと薫る紅茶の香りに、毎回の事ながらサクヤは少し驚く。
そもそも、今の帝都では茶葉など手に入らない。この店で出しているのは、今よりも景気の良かった戦時中に店主が蓄えていたものの余りなのだ。
当然、品質などは望むべくもないはずが。
「……うん。美味しい」
紅茶を一口飲んだサクヤは、小さな吐息とともにそう呟いた。
確かに使われている茶葉は古いものだし、漁も少なく味も薄い。
それでも。風味も口当たりも、前に自分で淹れたものとは比べ物にならないのだった。
「えへへ。ありがとうございます」
淹れた紅茶を褒めれて、ミヤコは嬉しそうにはにかんだ。
「しっかり蒸らすのが大事なんです。色が出たからって、焦っちゃいけません。きちんとお湯に味と香りが移るまで、ゆっくり、じっくり待つんです」
そう説明をされたが、どう努力したところで自分がミヤコと同じくらい美味しいお茶を淹れられるとは思えないサクヤだった。
以前、一度だけ疲れ切った仲間のために紅茶や珈琲を淹れてあげたことがあるのを思い出す。酷く不評だったうえ、最後には物資の無駄遣いだと叱られてしまった。
その記憶に、サクヤは慌てて頭を振った。
せっかく、美味しいお茶があるのだから、嫌なことを思い出しながらではもったいない。そんな時間なら、他に幾らでもある。
気付くと、ミヤコは席から少し離れた位置に、ぽやっとした表情を浮かべながら立っていた。呼ばれた際にすぐ対応できるよう、そうとは意識させない程度に店内の、今はサクヤの様子を窺っているのだろう。
付かず離れずの、この絶妙な距離を保ってくれる彼女のこうした気遣いも、サクヤには心地よかった。店主は確かに不愛想だが、別に話しかけて欲しいわけでもない。
紅茶を飲み切るまでの、ほんの少しの間。決して孤独ではなく、一人になれるこの空間がサクヤは好きなのだった。
続きは金曜日!