第二話
部屋から狭い廊下へと出たサクヤは、そのまま玄関へと通じる階段へ向かった。
サクヤが間借りしているこの“さくら荘”という下宿屋は、元は一軒家だった民家の二階部分を改装して、貸部屋として貸し出している。短い廊下を挟んで左右に二部屋ずつ分かれた貸部屋は全部で四室あるが、今のところ借りているのはサクヤ一人だけだった。
「あら、大佐さん。おはよう」
とんとん、と足音を立てながら階段を降りきったところで、ちょうど玄関に飾ってある生け花の手入れをしていたらしい、柔和な顔つきの老女がサクヤに笑みを向けた。
「おはよう、おばあちゃん」
顔中をしわくちゃにしている彼女へ、サクヤもまた口元を綻ばせながら挨拶を返す。
その老女は、間宮ハツというこのさくら荘の大家だった。
亡き夫が残したという下宿屋を一人で切り盛りする彼女を、サクヤはその親しみやすさからおばあちゃんと呼んで慕っていた。
ハツのほうもまた、サクヤが現状、唯一の入居者であるからか、或いは若い女性であるからか。ただの入居者に対するもの以上の態度で接している。
「今日は確か、お休みでしょう? 随分と早起きなのねぇ」
普段、休日ともなれば昼過ぎまで惰眠を貪っているサクヤを知っているからか、ハツは不思議そうに首を傾げた。
すっかり腰も曲がり、髪も真っ白に染まってしまってはいるが、彼女のこうした仕草の一つひとつには、少女にはない可愛らしさがある。
そう思ったサクヤはふふっと笑みを零しながら答えた。
「今日はね、ちょっと人と会う約束があるの」
そう言ったサクヤの声に、嬉しそうな響きがあったからか。ハツは、さらに笑みを深めた。
「おやまぁ、大佐さんのお友達かい?」
「んー……まぁ、そんなところ、かな?」
その関係性を一言で表すには複雑すぎる面々を思い浮かべながら、サクヤは曖昧な声で応じた。その後で、思い出したようにハツに言う。
「ところで、おばあちゃん。その“大佐さん”って呼ぶのはやめてったら。私はもう大佐じゃなくて、少佐なんだから」
間違いを正すような声で言いながら、滅紫の制服に縫い付けられている少佐の階級章をほらほらと指し示すサクヤだが、ハツは相変わらずにこにこと笑ったままだ。
「あら、そうなの? でも、みんなそう呼んでるじゃないの」
「それは、だから……みんなが間違っているだけで……」
「でも、大佐さんは大佐さんだったでしょう?」
ねえ? と邪気の無い笑みを向けられて、サクヤは困った顔になった。
「二年前はね……ええと、戦時任官って言って……」
説明しようとしたサクヤの声は、どんどん尻すぼみになってゆく。
若い頃はそれほど戦況も逼迫しておらず、幸いなことにこれまでの人生をほとんど軍隊に関わることなく過ごせてきた善良なこの老女に対して、複雑怪奇極まる軍隊の仕組みを説くには一朝一夕では足りないだろうと思ったからだった。
仕方なく、サクヤは逃げ道を探すように手元の懐中時計へ目を向ける。
「あ、もうこんな時間! 私、行かなくちゃ!」
白々しく、そんな声をあげたサクヤは大外套を羽織りながら靴を引っ掛けて玄関を出て行く。
「おばあちゃん、ごめんね、また今度! あ、あと、自転車借りていくね!」
言うが早いか、玄関の脇に停めてある自転車に飛び乗る。その自転車は大家であるハツの私物なのだが、本人は高齢のせいで滅多に乗る機会もなく、下宿している者なら自由に使って良いことになっていた。
「あ、ちょっと! 大佐さん!」
サクヤを追うように玄関から出てきたハツが、自転車を漕ぎだした彼女を慌てたように呼び止める。
しかし、サクヤは止まらない。
「ごめんねー! あんまり遅くならないからー!」
やはり、言うだけ言ってさっさと行ってしまう。
ぐんぐん遠ざかってゆくその背中に、ハツはため息交じりの声を漏らした。
「髪の毛、縛る位置がずれてるわよぉ……」
諦めたように呟くその一言は、当然サクヤの耳には届かない。
仕方ないわねぇと肩を竦めたハツは、ほっと息を吐いてから表情を満面の笑みへと切り替えた。そして、少女の後姿へ送り出すように声を掛ける。
「行ってらっしゃい、大佐さん」
左右異なる角度で結ばれた髪をはためかせ、風を切って去ってゆく少女のあとを、
一枚の桜の花びらが追いかけていた。




