第一話
小さな文机が置かれている以外、これといった家具も置かれていない小さな部屋を、障子紙を透けて差し込んだ陽の光が照らし出した。
「うん……」
部屋の真ん中に敷いた布団の上で寝返りを打ったサクヤは、瞼を抜ける陽の光の眩しさに堪らず呻き声を漏らした。鬱陶しそうに掛け布団を顔まで引き上げると、しばらくその中でもぞもぞとしてから、枕元に置いていた懐中時計へと手を伸ばす。
淡くくすんだ銀色の蓋がぱちんと小気味の良い音を立てて開き、文字盤が露わになる。寝ぼけ眼を擦り擦り、布団から顔だけを覗かせたサクヤは長針を読んだ後で、無意識に窓の外へ目を向けた。陽光の角度から、時計が狂っていないことを確かめた彼女は、再び欠伸を一つ漏らし、枕へ顔を埋めた。
「んーー……」
柔らかな綿の詰まったそれに頬ずりをしつつ、もう一度、夢の世界へ旅立とうとしたところで。
「あ」
ふと、今日は大切な約束があったことを思い出した。
「しまった……!」
慌てて上体を起こしたサクヤは、蓋を開けたまま枕元に放り投げてある懐中時計へ目を落とす。起きるつもりだった時刻よりも、かなり先を針は示していた。
「急がなきゃ」
決断するように呟いて、彼女は起き上がった。
ここは、サクヤが間借りしている下宿屋の一室である。
部屋は四畳半一間。風呂も調理場もついていなければ、便所も共同の安物件で、唯一の利点と言えば、帝都に聳える千年桜の立つ丘から近いことくらいだ。
それでも、自身も女性である大家の気遣いからか、全室に洗面台が設けられていた。それは入り口脇の、漆喰の壁から突き出した蛇口の下に陶器製の受け皿が置かれているだけの質素な代物ではあるが、サクヤがこの物件を選んだ決め手でもあった。
のそのそと這うように、洗面台の前へ向かったサクヤは、蛇口の上に掛けてある小さな鏡を覗き込んだ。寝相のせいで髪の毛がぼさぼさになっている自分と目が合う。口元には涎の跡まで残っていた。
十九歳、花真っ盛りの乙女に夢を見ているような男どもが見れば、卒倒するようなだらしのない有様に、自分でもちょっぴり絶望しつつ、サクヤは蛇口を捻った。
サクヤは数寸の間、勢いよく水を吐き出す蛇口をぼうっと見つめていた。
帝都で民家用の水道が復旧したのはごく最近の事だ。それまでは近くにある井戸か、公衆用に設置されている水道まで水を汲みに行かねばならず、引っ越してきた当初は捻っても水の出ない蛇口を前に、随分寂しい思いをしたものだなぁと思い返しつつ、サクヤは洗面台に屈みこんだ。
四月も中旬とはいえ、まだまだ朝夕は肌寒い日が多い。蛇口が吐き出す水も当然、冷たかった。
それを数度、顔に叩きつけて眠気を払ったサクヤは、手早く身支度を整えてゆく。
髪の毛と同じくらいぐちゃぐちゃになった寝間着を放り投げ、代わりに飾り気のない滅紫の女袴へと袖を通す。紫地以外には、黒く縁取りされているだけの、年頃の娘が着るには少し色気の無い服ではあるが、彼女はこれ以外に服と呼べるようなものを持っていない。
それは、帝国陸軍が女性士官用の略式礼装として採用している制服であった。
合理性や効率性といったものを何よりも重んじる軍が採用しているだけあって、袖下は短く切り詰められているし、着付けの方法もかなり簡略化されている。すっかり着慣れているサクヤは、物の数寸足らずで着替え終わった。
再び、洗面台の鑑を覗き込んだサクヤは散々引っ掻き回されている髪の毛と悪戦苦闘して、どうにかまっすぐにすると、それを頭の両側に、白い飾り紐を使って結わえる。
最後に、改めて鏡を覗き込み、「よし」と頷いた。
立ち上がったサクヤは壁際に掛けてある、本当に色気の無い、草臥れた国防色の大外套を掴むと、部屋を後にした。




