モスキート兄さん
部屋の明かりをつけた。時刻は午前五時だった。
プラスチックケースの中には成虫になった蚊が大量に沸いていた。その中で一匹だけ死んでいる蚊がいた。私には到底見分けることなど出来ないが、おそらくユカリなのだろう。
兄さんはプラスチックケースを持って立ち上がると、そのまま表に出た。
兄さんが自分から出ることなんてどうやっても無理だと諦めていたのに、いとも簡単にサンダルを履いて外へ出た。胸に抱えているプラスチックケースの中には、大量の蚊が発生していた。
誰もいない早朝の住宅街を兄さんの後ろをついて歩いた。朝日はまだ遠くの世界にいて、こっちにはわずかな光しか届けてくれなかった。空が薄ぼんやりとハッキリしない色をしていたが、私はなんだかこの時間帯が一番好きだった。
夕焼けと朝焼けだったら、私は朝焼けの方が好きなんだ。だって朝焼けの方が世界が静かだから。
兄さんの後について歩いていくと、近所の河川敷に出た。まだ月が消えていないのに、いくつかの人影が見えた。彼らは毎日こんな早朝から活動しているのだろうか。世界は眠らない。私は一日六時間寝ているけど、この世界はきっとずっと続いている。
兄さんはプラスチックケースの蓋を開けた。すると、ゆっくりと蚊が飛んでいくのが分かった。遺灰を海に撒くように、大人になった蚊たちは風に乗ってどこかへ飛んでいく。
私たちはその様子をただただ立ち尽くして見ていた。見ていることしかできなかった。私たちは、誰かが死ぬところも生まれるときも、離れていくときも近づいてくるときも、ただ立ち尽くすことしかできない。そういう類の人間だ。
兄さんはプラスチックケースの中を確認した。全員が飛び立っていった頃には、もうすっかり太陽が昇っていて、雲が朝焼け色をしていた。
プラスチックケースの底で眠るように死んでいるユカリを、兄さんはそっと拾い上げて河川敷に咲いている花の根元に埋めた。
「これでよかったの……?」
「初めから決めてたんだ。これで僕とシズネが一緒にいたって証が、ほんのわずかでもこの世界に残ってくれたから。どうしても残したかった。誰にも見つけてもらえないけど、それでもよかった」
兄さんは蚊に咬まれた箇所を見つめた。
「蚊に刺されたところが痒くなる原因は、蚊の成分が入ってアレルギー反応を起こすからなんだって。だから、これはシズネの遺伝子が僕の中に入った証なんだ。シズネはもう見えなくなってしまったけど、ちゃんとここにいる。僕の中にいる。消えることはない。この痕が消えても、それでも一緒にいたことは消えないから。ちゃんと寂しいから、だからもう大丈夫」
兄さんはそう言うと、涙を一粒だけ零した。私たちはユカリを埋めたところで手を合わせた。
ユカリを殺さなくてよかったと、私はどこかで安心していた。
殺さなくても、みんないつか死んでしまうから。
私もこの世界に何か残せるのだろうか。
シズネさんが亡くなってしまった夏が終わってしまった。
それから兄さんはいつもの兄さんに戻った。
蚊を飼育することも、もうなかった。
二人の血を受け継いでいる蚊は、今もこの世界のどこかで飛んでいるのだろうか。