殺虫剤
兄さんも私も大学生であり、現在は夏休み期間中である。不幸中の幸いにも、引きこもり続けていても誰からも文句は言われない立場だ。兄さんはアルバイトをしているが、事情を話すとしばらく休めと御達しが出たらしい。
そのため恋人を亡くした兄さんは一歩も外に出ようとはせず、ずっとプラスチックケースに入っているユカリを飼育し続けていた。
兄さんのアパートにきて三日が経ったが、私が来て変化したことはなにもなかった。あるとすれば兄さんが食事をとってくれるようになったことくらいだ。
冷蔵庫の中は空っぽだった。あとからそれとなく聞いてみたら、もう食べる必要もないと思ったので全部捨てたと言っていた。
シズネさんを追って死ぬつもりだったのだろうか。恋人を亡くしたことのない私には何もわからなかった。
いつのまにか兄さんは、蚊の繁殖を成功させていた。毎日血を提供していた成果だろう。ボウフラが汚水の入った容器にひしめいていた。
「孫ができたよ。孫の名前までは流石に考えてなかったなぁ」
兄さんは何もない空間を見て独り言を呟いている。もしかすると、そこにシズネさんがいるのかもしれない。まだ四十九日が過ぎていないので、現世にいるのかもしれない。それに恋人がこんな状態になっていたら死ぬに死にきれない。
「ほら、こんなに子供を生んだよ。全部僕たちの血が繋がっているんだ。僕らの遺伝子はずっとこの世界に残り続けるんだよ」
兄さんは壁に向かってずっと話しかけている。
「……買い物に行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい。ありがとう」
私が話しかけるとちゃんと返事はしてくれるので、認識はしてくれているようだ。
私はスーパーの殺虫剤コーナーで足を止めていた。ユカリは処分した方が兄さんのためになるかもしれない。兄さんが寝ている間に、ボウフラも全部殺してしまったほうがいいのだろうか。私は、蚊取り線香を手にとって思考を巡らせていた。
もしも、ユカリやその子供たちを殺処分したとして、兄さんはちゃんと立ち直ってくれるのだろうか。愛した人を失う悲しみをまた味あわせてしまうだけなんじゃないだろうか。どうすれば兄さんのためになるんだろう。私の希望ではなく、兄さんが一番叶えてほしい願いはなんだろう。
兄さんが飼育していたボウフラは蛹になった。その姿が鬼の角に似ていることから、オニボウフラと呼ばれるそうだ。私たち人間も虫のように分かりやすく成人になれたらいいのに。そうしたら全部諦めることができるのに。いつのまにか大人と呼ばれる年齢になっていたが、私はたった一人の愛する家族さえ救い出せない子供のままだ。
兄さんは部屋から出ない。この部屋で育っていく我が子を見るよりも幸せなことなんて、外の世界にはないからだ。
私は泊めてもらっている間、スーパーに買い物に行くたびに殺虫剤のコーナーで頭を悩ませていた。殺虫剤や蚊取り線香だったら、もしかすると兄さんは匂いで気づいてしまうかもしれない。もっと自然に殺せるようなものがあればいいのに。
この世界は辛いことばかりだけど、幸せだってきっとあるよ。だってだからこそ、兄さんはシズネさんと出会い、愛しあえたのだから。今の悲しみは幸せが持ってきたんだよ。ちゃんと悲しいから、ちゃんと兄さんは幸せだったんだよ。
それをどうか忘れないでほしい。忘れてしまう前に外に出てほしい。ボウフラがわく陰湿な世界だけじゃなくて、温かい陽だまりの中でも生きてほしい。そこでしか出会えない大切な人だっているよ。きっと兄さんと出会うことを待ってるよ。
兄さんはまだ生きているよ。生きてほしいよ。
そんなことを思いながら、私は殺虫剤を手に取り成分表を読んでいた。
まだ外が薄暗い早朝に、ふと目が覚めてしまった。カーテンから漏れた暗い光が部屋を小さく照らしていた。そこにプラスチックケースを眺めている兄さんの姿があった。
「……兄さん? 眠れないの?」
「ナナ……」
よく見ると兄さんは泣いていた。
「ユカリが死んじゃったよ」
「……うん」