キスマーク
「兄さん、少しの間だけ泊めてもらってもいい?」
私は兄さんが心配でならなかった。食事も禄にとっていないような様子だった。疲弊して覇気がないわりにキッチン周りが綺麗すぎた。まるで綺麗に片付けたまま家主が旅行にでも行っているような、そんな不自然さが漂っていた。
兄さんは優しく笑って、二つ返事で了承してくれた。そんな兄さんを見ていると私の胸は強く締め付けられてしまった。
私が夕食を作っている間も、兄さんはプラスチックケースの中で飛び回っているユカリをじっと見つめていた。
「調子はどう?」「ユカリは綺麗好きなんだね。ママに似たのかな?」といった具合に、たまに声をかけては満足した表情を浮かべている。
私は兄さんが何日も食べていないだろうから、胃をびっくりさせてしまわないようにお粥を作った。兄さんは喜んでそれを食べてくれた。お代わりもしてくれたので、私は少しだけ安心することができた。
家事を一通り済ませ、居間で一息つけていると兄さんはプラスチックケースの蓋部分を開けた。特殊な細工を施しているようで、蓋を開けても蚊が逃げ出すことはなかった。兄さんはそのプラスチックケースの中に自分の手首を突っ込んだ。
「ほら、ユカリ。ご飯の時間だよ」
兄さんはユカリを驚かせてしまわないように、じっとして動かなかった。呼吸を合わせるように兄さんは静かに見つめていた。このときの兄さんは、まるで赤子が初めて自分で食事をする様子を見守る父のようだった。
じっと待っていると、蚊が兄さんの手首に止まった。口の針を刺して、血を吸っている。蚊は自分の体重と同じくらいの量の血を一回で吸えるそうだ。ユカリの体は今にも弾けとんでもおかしくないくらい、ぷっくりと兄さんの血で膨れ上がった。兄さんの咬まれた箇所に、小さな腫れが出来ていた。
「シズネが亡くなった日に、ユカリはこの部屋にいたんだ。随分と大きくなっていたから、僕たちのどちらかの血を吸ったのだろうと思った。
僕は自分の体を確認したけど、咬まれた跡はなかった。どうやらユカリはシズネの血を吸っていたみたいなんだ。シズネの血を吸ったユカリを殺すことは僕にはできなかった。ほんの僅かでも、シズネがこの世界に生きていた証だと思ったから。
僕はユカリを見失わないように初めは瓶に捕まえた。すぐに専用のプラスチックケースを購入して移した。そして僕の血を吸わせた。ユカリは僕とシズネの両方の血を繋いでくれた」
私は黙って兄さんの話を聞いていた。二人の馴れ初めを聞いているきぶんだった。
「二人の血が繋がっているなら、僕らの子だ。シズネが言ってたんだ。二人の子供が女の子だったら、ユカリって名前をつけようって。いい名前だろう? よく似合っている」
私は兄さんと目線を合わせることができなかった。こんな馬鹿な話があるか。
二人の子供なんかじゃない。ただの蚊だ。ただ二人の人間の血を吸っただけの、ただの蚊だ。でも兄さんの純粋なまっすぐな瞳を見ると、私のボウフラが沸きそうな淀んだ思考を見透かされてしまいそうで怖かった。
だから私は視線を下に向けて「そうだね」とだけ答えた。
視界の中には、さっき蚊に咬まれた兄さんの手首があった。
小さく紅いその跡は、まるでキスマークのようだった。