「ユカリ」
「シズネ!?」
私の目の前の扉は勢いよく開かれた。憔悴しきった兄さんが、交通事故で亡くなった恋人の名前を叫んで出てきた。扉の前に立っている私を認識すると、兄さんは深い溜息を吐いて悲しそうな表情を見せた。
「ナナ……か」
そして今にも泣き出しそうな声で私の名前を呼んだ。
「……電話もメールも返ってこないから、母さんが様子を見てきてくれって」
「……あ、ああ。ごめんな。……そういや充電してなかった」
兄さんはいつものにように優しく微笑んだあと、私を部屋に招いてくれた。
こんな状態なので部屋の中は散らかっているものだと思っていたが、思いの外綺麗に整えられていた。というよりは、おそらく部屋の中で一日中ボーッとして動いていないのだろう。
兄さんの髪の毛は脂光りしていて、少し体臭がしている。風呂に入っていないようだ。口臭もしている。身嗜みにまで気を回せていない様子だった。
締め切られたカーテンを開けて外の光を取り入れた。ベランダにつづく大きな窓を開けて空気の入れ替えをした。
部屋にはシズネさんが使っていたと思われる日用品がそのまま残っていた。シズネさんは綺麗好きな性格だったので、亡くなる直前も部屋の掃除を怠らなかった。おかげで私のすることはほとんど残されていなかった。
この部屋にはまだシズネさんの香りが、かすかに残っているような気がした。
「兄さん、これなに?」
テーブルの上に見慣れないプラスチックケースが置かれていた。中には汚水が入っている容器が設置されている。それ以外はなんの変哲もないケースだった。
「よくみてごらん、ユカリがいるよ」
「ユカリ……?」
ユカリという名前には聞き覚えがあった。二人の子供が産まれたときにつける予定だった名前だ。以前三人で食事したときに教えてもらっていた。
兄さんは恋人が亡くなったショックで幻覚でも見ているのだろうか。
「ほら」
兄さんがプラスチックケースの中を指さした。私はその指の先で飛んでいる小さな黒い点を見つけた。
「これって……」
「ユカリだよ。僕とシズネの子供」
そこには、私が知る限りなんの変哲もない一匹の蚊がいた。兄さんはプラスチックケースの中で蚊を飼育し、自分の子供につけるはずだった名前で呼んでいた。
兄さんの顔を直視することが私にはできなかった。盗み見るように兄さんを覗くと、まるで産まれたての我が子を見るような優しい表情を浮かべていた。
どうやら本気で兄さんはこの蚊のことを我が子だと認識しているようだった。
私は言葉を失った。
最愛の人を失った兄さんは、この一匹の蚊に縋ることでなんとか自我を保っているのかもしれない。