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後日改めてエーリヒとその父がフレイベルグ伯爵家を訪ねてきた。父とビビアンは歓迎し、正式に婚約証書にサインをする。これでフレイベルグ伯爵令嬢ビビアンはエーリヒの婚約者となった。
留学の話は証書にきっちりと書かれた。なにせ急なことだったので、結婚までは準備が至らなかったのだ。婚約指輪と共に贈られたのは老舗の文房具と留学にあたり勉強の指針となる本の数々。それから侍女が一人。こちらはルドシャーク帝国で困ったときに頼れるようにと帝国から引き抜いてきた逸材である。
「編入試験もまだなのに気が早いな」
「偽のドミニクなら学力面では問題ないだろう」
本物のドミニクといえば、意外なことにこの婚約を両手をあげて歓迎した。
「やっぱビビアンの旦那さんにはエーリヒくらいしか釣り合わないと思ってたんだよ。おれの目は確かだね」
「おや、調子のいい」
「本当だって。賭けに勝ってたらエーリヒを紹介しようって、ずっと決めてたんだよ!」
ただ、留学の話になると一気に機嫌を悪くする。いわくエーリヒのところでも勉強ならできる、というのが彼の弁だ。残念ながらそれは無理だと一蹴したのは他でもないエーリヒである。
「大学に入れば専門性が高まる。ビビアンの興味のある分野と同じとは限らないだろう」
「それってビビと違う道を行くってこと?」
「そうだ。その上で意見を交わしていきたい」
「……前言撤回。エーリヒじゃあ勉強馬鹿すぎる」
「いや、そのくらいで丁度いいよ、ドニ」
本からひょっこり顔を上げてビビアンが反論する。
「ビビはエーリヒに甘いと思う」
「ドニだってパトリシア様には甘くなるだろう。そんなものだよ」
「別にパトリシア嬢とはまだそういう関係じゃないし」
まだ、ね。無意識で言ったのだろう単語にエーリヒと目を合わせて笑う。あの小動物のような少女はすっかりドミニクの懐に入ってしまったらしい。
「ビビ、帝国行ったら手紙頂戴。あっちの刺繍図ぜんぜん回ってこないんだ」
「いいとも。新しいの?伝統的なの?」
「どっちもがいいなー」
「調子のいいことだ」
こうして3人で集まって、ふたりは勉強、ひとりは刺繍に励むのも悪くない。ドミニクの試験も終わったし、もうすぐ夏が来る。
編入試験で帝国まで行くのはさすがに緊張する。けれど不思議と怖くはない。
それが終われば領地にいる母とエーリヒを久々に会わせる予定だ。避暑に訪れるというエーリヒの母とも会う。パトリシアとも会う約束をしている。つい先日までじりじりとしていたのが嘘みたいにすっきりとした気持ちでビビアンは本を読みふけっていた。
「そういえばさ、エーリヒはどうしてビビだったのさ?」
そんな午後のまったりとした空間に何気なくドミニクが爆弾を落とす。
「ん? そうだな。初めて会ったころから印象はよかったぞ」
「ええー? 初耳だ」
「なんかキラキラと眩しいのが二人いてな、妙に緊張したのを覚えている」
「それって顔ってこと? やめてよおれ同じ顔なんだよ、そういうこという?」
顔。図らずもこの中性的な顔で得をしていたのか。なんだか気の抜けた思いでじゃれあう二人の会話を聞く。
「安心しろ、中身が残念な方がドミニクだってことは昔からよく知ってる」
「それはそれでひどくない?」
「本を読んでいると、なにそれと聞いてくるのがビビアンですごいねと思考放棄していたのがドミニクだろう?」
「いや当たってるけどさあ……」
懐かしい。双子を前にしても決して本を手放さず、いつも新しいものを読んでいた。なにそれと聞けばちょっともったいぶりながらも一所懸命に説明してくれる幼いエーリヒを思い出して可愛らしさに震える。エーリヒと離れて本の中身を説明してくれる人がいなくなって、自分から本を読むようになったんだっけ、ビビアンの中に眠っていた思い出がよみがえる。
「じゃあなに、ビビアンは?」
剣呑な声色でドミニクが訪ねている。
「中身も好みの方」
バサッと手から本が落ちる。ドミニク以上の爆弾だ。慌てて拾いなおして、本で壁を作る。
婚約者になってからというもの、なんだかエーリヒの態度がおかしい。しゃべり方とか態度は変わらないのに、こうしてほんの時折ものすごい衝撃でビビアンを揺さぶる。そのたびに顔に熱が集まるのを誤魔化すのに必死だ。
ドミニクは回答に満足がいったようで、よしと呟いていた。何がよしだ、その質問は自分のいないところでしてくれ、とビビアンは心臓を抑えながら耐える。
「それはそうと、ひとつ気になることがあってな」
「なに」
「なんだい」
「ビビアンのほうだ。ルドシャーク帝国は女性進出が目覚ましいと言っただろう」
本を閉じて、白紙を寄せる。真面目な話らしい。すっと顔の熱がおりてくる。ドミニクは刺繍に戻っていった。
「どんな議題でしょう、エーリヒ様」
「様付けはやめろ。そのな、こちらに比べて女性進出が目覚ましいものの、男女差はどうなっているのか気になっていて」
「ああ。女性が入れないところとかはまだあるって言ってたね」
「そこで、だ。試してみてくれないか?」
エーリヒの言い分が分からず、小首をかしげる。ドミニクも同じようにしていた。
「おまえなら一人二役できるだろう」
ピッシャーンと雷にでも打たれた気がした。確かにできる。他の誰かができるかどうかは知らないが、ビビアンには確かにできるのだ。それを身をもってエーリヒは知っている。
「それは、男装セットを持っていけ、と?」
「おまえの特技だろ。よろしく頼む」
にやりと片頬を釣り上げてエーリヒが笑った。
「ビビが危ないことに巻き込まれたらどうするのさ」
ドミニクが早速反対するのが遠くに聞こえた。けれど、帝国の男女差とはまた魅力的な題材である。国内の男女差を知っているからなおさらに帝国のそれが気になる。気になるものの、男装はややこしいことを招くからもうやめようと心に決めていた。決めていたものの、と延々と唸ってエーリヒに答えは返せなかった。
エーリヒとしてもいままでの仕返しのつもりだったのかもしれない。笑いながらドミニクをあしらって帰っていった。
その日の晩、ビビアンはそっとクロゼットの奥から男装セットを引っ張り出して帝国行きの鞄に詰めた。そう、これは決して趣味でなく意味のある実験なのだと自分に言い聞かせながら。