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衝撃的なお茶会のあと、ビビアンはまずドミニクに謝った。多分これからいろんなことに巻き込まれていくだろう弟へのせめてもの誠意だった。パトリシアのひとめぼれの話を抜いて街の市場でのことを改めて伝えれば、彼女の態度に合点がいったのかドミニクは笑って許してくれた。
ごめん、ドミニク。お前が思う以上に大変なことになっているよとはビビアンには言えなかった。
数日中に父と弟はクラッグ公爵家に内密に招かれ、たいそう感謝されて帰ってきた。娘の危機を二度も救ってくれてなんとお礼していいものかと何度も頭を下げられドミニクは生きた心地がしなかったそうだ。おまけによければ娘との縁談を、とほのめかされたらしい。父が上手にいなしてくれたものの、その父に言わせると諦めてないだろう、と。
「ビビ、おれはさ。人生のチャンスとは言ったけどこんな急にいろいろ変わるとは思ってもなかったんだ」
「そうだろうね、ドニ」
「あの子……パトリシア嬢のこともよく分からないままだし」
「そうだね。なんというか、人見知りの小動物といった感じかな」
「そりゃ可愛らしいだろうね」
ぐったりしたドミニクは裏庭のテーブルにほほをつけたまましゃべる。ビビアンは責任感からそれに付き合っていた。歳がどうの、まだ学生だの、適齢期と違うだの、ビビアンがひとたらしだの。だらだらとドミニクは不満を続ける。不思議なことに肝心のパトリシアに対する不満は言わないので、尋ねてみれば一言だった。
「おれあんな可愛い生き物をいじめる趣味ないよ」
つまり、年相応で領主になっていて自分が結婚適齢期だったのなら喜んで婚約するということだ。ビビアンは途端に全部馬鹿らしくなってしまった。ドミニクは女遊びをするような男は嫌いだと常々言っている。この若造はクラッグ公爵の方の口車にいつか乗せられるだろうし、立場としたら喜ばしい限りの相手だ。
心の底から嫌がっているわけじゃない。要するに、マリッジブルーのようなものなのだ。
それが分かってからは愚痴に対してさらりと流すようにした。
なにせ早々に婚約者が決まりそうな弟に比べてビビアンのほうはさっぱりなのだ。この人こそと話してみれば、やはり女には分からないだろうがと枕詞が付く。それでなければ自分の意見に全く自信がないか、専門的過ぎて話題の広げようがないか。
舞踏会で踊り明かしても気分は晴れない。勉強にだって身が入らない。だってこの先結婚したらこれらの知識を知らないふりをしなければならないのだから。その時を思うとビビアンは憂鬱になる。
このままもう一つ歳を重ねたら、帝国へ嫁に行くと父に話をした。呆然と聞いていた父は話し終わると首を振っててのひらを合わせたまま静かに考え込んだ。そうして、お前がそれを望むのならば、と最終的には了承してくれた。
「おれはイヤだよ」
「わたしはイヤじゃない」
この件について双子の意見は真っ二つに分かれた。花嫁として国境を越えればそうそうには帰ってこられなくなる。会えなくなるのはイヤだと駄々をこねるドミニクに、ビビアンは言って聞かせる。
「わたしがイヤなのは身に着けた知識が錆びること。勉強できなくなることがイヤなんだ」
恨みがましくドミニクはビビアンを見る。クラッグ公爵もパトリシアもドミニクの刺繍趣味を笑わなかったらしい。趣味のひとつで人格が変わるわけでもない、見込んだのは貴方自身なのだから、と。理解者を見つけてしまったドミニクはビビアンの勉強趣味をそんなことと切り捨てられない。
ビビアンがどれだけ勉強を愛しているか知っているから。
「ビビ、この国を諦めないでね」
ドミニクに言えるのはそれだけだ。ビビアンにできるのも微笑み返すことだけだった。
お茶会、夜会、舞踏会、これまでよりも予定を詰めた。相手の年齢だって幅を広げた。それでも相手は見つからない。
まだ春のうち、夏になれば領地で避暑にやってきた方々とも出会えるだろう。ただ、避暑で出会った相手とは避暑でしか会えないという格言もある。ひと夏の恋で遊ぶ貴族も多いのだ。夏に過剰な期待をかけるのは厳しいだろう。
ルドシャーク帝国は、こちらよりも夏が厳しいと聞く。避暑地で育ったビビアンにはつらいかもしれない。そうやって、帝国で暮らす自分の姿を思い描くことも増えた。今日みたいに実りのない夜会では特に。
「ビビアン様、ご気分がすぐれないのですか?」
「あら、そんなことありませんわ」
いけない、友人に気を使わせてしまった。現実逃避から帰ってきて、だいぶ落ち着いてきた夜会を見渡す。誰か話しかけていない方はいないか、できれば適齢期の男性。狩りでもしている気分でじーっと探す。
意外な相手と目が合った。
アイスグレーの切れ長の瞳。エーリヒだ。ピンとはねた黒髪が懐かしかった。
思わず近寄りそうになり、上げた足を下す。近寄るな、とはずいぶん前に言われた忠告だ。ビビアンはしゅんと頭を下げる。もう一度顔を上げたら、きっともういないのだろう。
「?」
小首をかしげそうになり、慌てて止める。きっとさっきから挙動不審なことだろう。
エーリヒは相変わらずこちらを見ていて、そしてすっと外に続く扉へとずらした。そうしてまた、こちらを見る。
「ごめんなさい。わたくし少々、外の風を浴びてきますわ」
そっと輪を抜け出して外にでる。多分、これで正解だろう。
きちんと刈り込まれた庭園をまっすぐに進む。振り返ってじっと待てば、エーリヒが扉を出てくるところだった。
久しぶりに会えたことが嬉しくて自然とほほが緩む。胸はちくりと痛むものの、喜びの方がずっと大きい。笑顔で迎えればエーリヒは少し面食らったように立ち止まる。
「久しぶりですわ、エーリヒ様」
「あ、ああ。久しぶりだ、ビビアン嬢。ここではなんだ、少し奥へ行こう」
先導されてついていく。殿方と気軽にふたりっきりになるなんて、と幼年女学校の先生方の非難の声が聞こえた気がしたが知らないふりだ。ビビアンにとってエーリヒのそばはそこがどこでも大切な場所なのだ。
「さて、そのお嬢様言葉をやめてくれないか」
「あら? どうしてかしら」
「慣れん。湿疹がでそうだ」
「それなら仕方ないね。で、どうしたの?」
くすくすと笑い、ビビアンはかつて彼と相対していたときの口調を取り戻す。エーリヒは首に手をやり、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「おまえが帝国へ嫁ぐと聞いた」
「ドニだね? あいつも口が軽いな」
「散々非難された。俺のせいだと」
ぱちり、ビビアンは大きく瞬きをする。帝国の素晴らしさを説いたのは間違いなくエーリヒだけれど、本をたどっても行きつく先はきっと同じだっただろう。早いか遅いかそれだけの違いだ。そして花嫁になるなら早い方がいい。
「わたしは君に感謝しているよ」
「この国は、そんなにダメか」
「うーん、わたしが貴族の令嬢に向いていないんだろうね。これでも結構努力した方だと思うんだけど、全敗だよ」
「全敗か?」
「うん。でも結婚はしたいし勉強もしたい。どちらも捨てられないんだ」
困ったことだね、小さく呟けばエーリヒの視線が戻ってきた。表情はこわばったままだ。
「そんな顔しないでくれよ。エーリヒには感謝しているんだ」
「俺に、感謝?」
「そう。あの部屋は、わたしにとって楽園だったんだ。読んでも読んでも尽きない本があって、いつも好みの本が見えるところに置いてあって、エーリヒが勉強する音がするあの部屋は。私の憧れで、宝物なんだ」
エーリヒがぽかんと口を開ける。ずっと内緒にしていたことをひとつ言えてすっきりしたビビアンは笑い出した。
「君との時間が宝物なんだよ」
茶目っ気をだしてウインクして見せれば、エーリヒは口元に手を当てた。ぶつぶつとすごい勢いで何かをつぶやいている。ビビアンはといえば、心残りがひとつ減って踊りだしたい気分だった。ただでさえ会えないエーリヒ。帝国に嫁いだらもう会うこともないだろう。言いたいことは全部言った。言ってやった。
だからエーリヒから言われたことは想定外だった。
「お前、帝国で勉強したいか?」
「うん? うん、できるのなら勉強に溺れたいね!」
「そうか」
「紹介してくれるのかい?」
「紹介してもいいと思って、声をかけた」
暗がりのせいでアイスブルーの瞳の色がよく見えない。
「そもそもそのために探していた」
「探して?」
「ドミニクのやつが情報を遮断したからな。片っ端から夜会にでておまえを探していたんだ」
「それは……ありがとう?」
今度こそビビアンは小首をかしげる。ずっと騙していたビビアンに対して、エーリヒはなんて寛大なのだろう。けれど、この勉強漬けがその時間を割いて夜会に出るなんて、しかもそれがビビアンのためなんて、一体なにがあるんだろう。
「それで君は何を得る?」
「その前に君は婚約者を諦められるか?どんな相手でも」
「うん?」
「その、先日のクラッグ公爵家の夜会ではいい相手がいたように見えたものだからな、確認だ」
先日、クラッグ公爵家。いい相手なんていただろうか。思い出そうにもうずくまっていた薔薇色の少女のことしか出てこない。
「いや、特にはいないよ」
「そうか? 夜会の最中に抜けて装飾品を落としてきただろう。だから」
「あれは可愛らしいお嬢さんに貸したんだ。そんな勘繰りを受けてるとは思いもよらなかった」
「お嬢さん?」
「未来の妹でもある」
「……おまえ、自分のより先に弟の婚約者を見つけてどうする」
正論が耳に痛い。置いてけぼりにされて寂しかった、という部分を抜いて、夜の庭園で少女を慰めて弟に紹介した話をする。ついでにエーリヒで人生を賭けていたことも。
「それであいつあんなに怒っていたのか」
「気付いていたとしても、そのときはずるしてたんだから無効だったろうけどね」
「そうか。ならいい」
すっとまっすぐにエーリヒがこちらを向く。つられてまっすぐに向き合えば、目線が少し高いことに初めて気が付いた。そうか、彼も16なのだ。急に幼馴染が大人びて見える。
「それで、婚約者がどんな相手でも諦められるか?」
「勉強に理解があるのなら」
「いいだろう。それじゃあ、俺と婚約して帝国で勉強してこい」
すっと差し出された手と、エーリヒの顔を交互に見る。夜の色に染まった瞳は真剣そのもので、別人のようだった。エーリヒと、婚約して、帝国で、勉強。単語に分解してもビビアンの頭の中には入ってこない。じっと瞳を見つめ、そこに嘘がないことを悟るとビビアンは軽いパニックに陥った。
「それじゃあ、わたしに都合がよすぎるだろう!?」
「婚約者としては若すぎるし今は無職だぞ」
「伯爵家の長男が何を。大学に年齢制限で入れないだけだろ」
「まあその通りだが」
尊大な態度で頷くエーリヒの手はいまだ差し出されたままだ。はたき落されることなんて想定していないのだろう。そのための質問はきちんと積み上げられていた。
「正直に言おう。帝国式の教育を受けた女性がこの国にも必要になってくる。その第一号になってくれ」
「なんで婚約なんだい」
「それはおまえ、帰ってこなかったら困るだろう」
エーリヒはいたって真面目な顔で続ける。
「ただでさえフレイベルグの双子の妖精はとらえどころがないんだから」
ビビアンは今度こそ息が止まるかと思った。ぎぎっと首をかしげて、真意を問う。
「さてはおまえ自分のうわさ全然知らないな? 妖精みたいな見かけで、捕まえようとするとするりと逃げる。かなり昔からあるうわさだぞ」
「それドニじゃないか?」
「双子と言っただろう。あいつもおまえも、だ。実際探すのにこんなに苦労するとは思いもしなかった」
やれやれ、といったふうにエーリヒが肩をすくめる。
「それで? とらわれてくれますか、ビビアン嬢?」
「留学して、帰ってきたら結婚?」
「結婚が先がいいのならそうしよう。秋には編入するからその対策も必要になるが」
「エーリヒは、わたしでいいの?」
「俺にとっても偽のドミニクと居た時間は心地よかったからな。この先煩わしい見合いなどしなくても済むし」
何を言っても万事ビビアンに都合のいい答えが返る。ああもう、ビビアンは内心で叫んだ。目の前にいるのは初恋の、失恋したとばかり思っていた相手。条件は婚約と帝国への留学。ビビアン自身は花嫁としての価値はこの国ではよろしくない。向かい合うのは将来有望な伯爵子息で性格だって悪くないどころか相性ピッタリな相手。
こんなの答えは決まっているじゃないか。
「よろこんで、エーリヒ」
「受けてもらえて幸福に思う、ビビアン。これでおまえは俺の婚約者だ」
差し出された手を取る。
「ずっと遠くにいるやつだと諦めていた。案外そばにいたと知って、どれだけ嬉しかったことか」
目を細めて微笑むエーリヒに、ビビアンは白旗を上げた。甘くとろけるような、そんな顔は初めて見た。いまきっとビビアンは耳まで真っ赤になっているだろう。ここが暗くて良かった。
「ようやく捕まえられた」
手を取ったまま抱きしめられて、もう何も言えなくなった。